« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »

2014年7月

2014年7月29日 (火)

おかざきコウエンナーレ2014、ワルザえもん初登場

おかざきコウエンナーレ2014

 7月26日(土)、今年2回目となる「おかざきコウエンナーレ」のオープニングセレモニーが岡崎公園の能楽堂にて行われた。

『おかざきコウエンナーレは、この日より100日の間に岡崎公園内で開催される数々のイベントをひとつにまとめ、岡崎の持つ文化や観光の魅力を、市内外に広く発信していくものです。
 今年もたくさんのイベントが順次開催され、特に、コウエンナーレの公式PRキャラクターを務めますオカザえもんの「オカザえもん日本一巨大ロボプロジェクト」は、日本初、6メートルのオカザえもんロボットを制作することになり、私も大いに期待しているところであります。
 また、7月30日から始まります「岡崎城下 家康公夏まつり」は、皆様からの注目度も高く、観光産業都市を全国に発信する大きなイベントであると感じています。
 龍城神社前が会場の「岡崎城下泰平おどり」(7月30日~31日)、中嶋一貴・大祐兄弟によるレーシングカーデモ走行(8月1日)、キティちゃんとオカザえもんのHUG(8月1日)、カヌーやボートが無料で体験できる「乙川アドベンチャー」(8月3日)、そして今年で66回目を迎える花火大会(8月2日)等々、様々なイベントが5日間にわたって繰り広げられます。
 今後も、このような各イベントがさらに充実し、「おかざきコウエンナーレ」が成熟していくことを切に願っております。
 本市は、来年度の平成27年に家康公顕彰400年、翌28年には市制施行100周年といった節目の時を迎えます。
 これを絶好の機会ととらえ、岡崎独自の歴史的文化遺産と乙川の水辺空間を活かした、「観光産業都市・岡崎」としてのまちづくりをはかり、子供たちがふるさと岡崎に愛着と誇りを持てる「夢ある、次の新しい岡崎」の実現を目指してまいります。』 ―挨拶文―

 さて、オープニングセレモニーの主役はオカザえもんと新生の若き家康のはずだった。ところが、どうやらその日新たなスターが誕生したようだ。
 先日、斉と公平太氏の新作キャラクターの写真を見せてもらった時に、「オカザえもんとあまり変わり映えしないネェ」と私が言ったこともあったせいか、担当者と作者がさらに一工夫したらしく、本日初登場した「ワルザえもん」(本名・岡崎悪THE衛門之慎)は、演技力も加わって、まさに迫力満点であった。

ワルザえもん

 オカザえもんの初登場の折は、柱から柱へこそこそ隠れ歩く、ゴキブリのようなさえない有り様であったが、ワルザえもんは違っていた。式典の真っ最中に能楽堂の正面から堂々と乗り込んで来たのである。それもオカザえもんとは正反対のふてぶてしい態度で階段を下りて登場してきた。
 大体のゆるキャラは、正義の味方、良い子路線である。
 アンパンマンの「ばいきんまん」はまだ愛嬌があるが、ワルザえもんはどうやら新たに不良路線で新境地を開こうとしているようである。
 ゆるキャラとして、またしても前例の無いタイプを生み出した斉と氏であるが、本日の様子を見る限り、我々も含めてみんな、ワルザえもんに食われてしまった観のあるオープニングであった。ワルザえもんの今後に注目である。
 ちなみに彼はオカザえもんのハトコだそうである。

ワルザえもん

ちっちゃいおっさん

シビックセンター夏祭り(2014年7月26日~27日)

 当日は夕刻から第31回「福祉の村 夏まつり」が開催され、大勢の親子連れで賑わっていた。欠町にある福祉の村は、今後平成28年に「こども発達センター」が建設され、さらなる福祉政策の拠点となるところである。
 また夜には、第13回目となる「シビックセンター夏祭り」も行われていた(初日)。これまで羽根、城南学区が中心に行っていたが、昨年からは岡崎学区が、今年からは小豆坂学区も加わって、まさしく、JR岡崎駅を中核とするエリアの代表的な夏の一大イベントとなった。
 この地域は昨年開校した翔南中学校に加え、新しい総合病院の建設も決定し、さらなる南部の拠点としての発展が期待されている。

おかざきコウエンナーレ2014 パンフレット

おかざきコウエンナーレ2014 パンフレット

|

2014年7月25日 (金)

ゆかりのまち・茅ヶ崎市 「浜降祭」

浜降祭 2014年7月21日

 市長会のヨーロッパ視察から帰国し、平和祈念式典を催した日(7月19日)の翌日、昨年は公用と重なり訪れることがかなわなかった、ゆかりのまち・神奈川県茅ヶ崎市の「浜降祭」(はまおりさい)に参加すべく岡崎を出発した。
 これで友好提携を結んでいる国内の都市の行事は、沖縄の石垣市の秋の行事を除いて、一通り御挨拶にうかがうことができたことになる。

 日本には、様々に個性的な行事が各地に伝わっているが、この浜降祭も臨海地域の人々の伝統と生活、文化を体現した祭事であることがうかがえる。
 浜降祭の由来については諸説あるようだが、大別すると次の二つが有力となる。
 今から180年ほど前の天保9年(1893年)、寒川(さむかわ)神社の神輿(みこし)が、毎春行われる国府祭(こうのまち)の奉納の儀の帰りに相模川の渡し場で寒川の氏子と地元の氏子が争いを起こした際に川に落ち、行方不明になってしまった。ところがその数日後、南湖(なんご)の綱元である孫七さんが漁の最中に御神体を発見し、寒川神社に届けたことを機縁に、毎年同神社の神輿がお礼のため南湖の浜に赴き、「禊(みそぎ)」をするようになったと言い伝えられている。これが一つの説。
 もう一つの説は、それよりも古い時代から鶴嶺八幡宮において、心身の罪けがれを清める「みそぎ」の神事として毎年浜辺へ渡御(とぎょ)を行っていたという記録がある。
 いずれにしても、そうした、地域の伝承が後年に合体して今日の形となり伝わってきたものと考えられている。正式には明治9年(1876年)に、それまで旧暦の6月29日に行われていた神事を新暦の7月15日と定め、名称も〝浜降祭〟とし、さらに平成16年(2004年)からは7月の「海の日」(第三月曜日)に祭礼を行うことに変更し、今日に至っているという。
 今では茅ヶ崎市・寒川町の各所の神社に集結したそれぞれの氏子達が、宴席をもった後にそれぞれの神輿を担いで、早朝の湘南海岸に集結してくるのである。当初私は2~3基の御神輿を担いで海に入って騒ぐお祭りぐらいのことを想像していたのであるが、各神社から集まってくる40基近くの神輿の隊列を見て大変驚かされたものだった。
 各神輿にいくつも付けられた鈴と、横下に設置された西洋玄関の金属製の鳴子のような機具によって、ダンダンダン、ダンダンダンとリズムがきざまれる。そこに「どっこい、どっこい」と言うこの地方特有のかけ声が混ざり合い、老若男女に子供まで含めた数千人もの人々が浜辺に押し寄せてくる様子は実に壮観である。

浜降祭 2014年7月21日

浜降祭 2014年7月21日

 すべての神輿が勢ぞろいして一線に収まるまでに2~3時間かかる。担ぎ手に“一杯”入っていることもあり、最後まで神輿を担いで廻るという男気もあいまって、なかなか神輿が収まらない。それでも朝7時には、なんとか一列に並んだ神輿の前でおごそかに神事と式典が行われることになる。各地元の代表者、来賓の名士に続き、私と新海議長も玉串奉典の列に着かせて頂いた。荒々しい海の祭典における、一時の静寂の間である。
 その後、再び各神輿は海へ向かって進み、順番に水に入ってみそぎを行ってから、各地元の神社へ戻ってゆくのである。
 一晩中担ぎ続けてきた神輿もあり、遠くの神社の方々はトラックに乗せて帰るということだった。しかしその後、地元の町内を夕方まで練り歩く神輿もあるそうである。
 漁師町に始まった、この勇壮で伝統的な浜降祭は、今では〝暁の祭典〟という呼称と共に神奈川県の無形民俗文化財となっており一見の価値があると思われる。

浜降祭 2014年7月21日

 現在50代の服部信明市長は、「私は今でも本当は担ぐ方が好きです」と言ってみえたけれど、これだけのお祭りを毎年整然と行うことはさぞや大変なことであろうと思う。また、酔っ払いにからまれながらも、丁寧な対応をしていた交通整理の警察官の姿にも本当に頭が下がる思いであった。
 こうした伝統行事の継続には、地元の方々がそれぞれ愛郷心に燃え、地域の伝統文化を後世に守り伝えようとする姿勢がしっかりしているからこそ可能なことであろうと思う。
「さあ、次は岡崎の夏まつりである」
 我々もガンバらねばと思っている。

 浜降祭からの帰り道に海岸線を歩きながら、沖合いに見える「えぼし岩」と波のきらめきを見ていて、この町が海の若大将、加山雄三のふるさとであることを思い出した。
 加山雄三は、小学生の私を海のスポーツと音楽へいざなってくれた恩人であるともいえる。そのことは岡崎と茅ヶ崎が名前が似ていること、大岡越前公をめぐるゆかりの町として両市が特別の関係にあることと同じぐらい、共にうれしいことである。もう少し若い人たちにとっては、えぼし岩と湘南の海と言えば、サザンオールスターズを思い出すことになるのかもしれない。桑田佳祐は茅ヶ崎出身である。
(こんなことを書いているとまた嫁さんに叱られそうである。)

茅ヶ崎市 えぼし岩

|

2014年7月22日 (火)

『リバ!』2014年8月号

『リバ!』2014年8月号

こんばんは。内田康宏事務所です。
『リバ!』(株式会社リバーシブル)2014年8月号が発行されましたので、お知らせいたします。市長のコラムは「岡崎市南部に総合病院建設決定!」です。
よろしくお願いしまーす。

|

2014年7月19日 (土)

平成26年度 岡崎市平和祈念式

平成26年度 岡崎市平和祈念式

 7月19日(土)、「岡崎市平和祈念式」を岡崎市民会館にて挙行しました。私が述べた式辞を掲載いたします。

 本日ここに、岡崎市平和祈念式を挙行いたしましたところ、戦没者ご遺族の皆様、市民の皆様並びにご来賓の皆様方におかれましては、ご多忙のなか、多数のご参列を賜り、心から御礼申し上げます。
 第二次世界大戦の終戦から、69年の歳月が過ぎ、戦争を直接知る世代が数少なくなる今日ですが、多くの方々が、戦争の犠牲となり、お亡くなりになりましたことは、未来永劫忘れてはならない深い悲しみの記憶であります。
 ここに、日清・日露戦争から先の大戦において、祖国の安泰を願い、家族を案じつつ、戦場に散り、あるいは戦禍に倒れられた方々、そして、終戦間近い昭和20年7月20日未明の岡崎空襲による犠牲者など、本市における戦没者及び戦災死者に対して、謹んで哀悼の意を表します。また、最愛の肉親亡きあと、幾多の苦難を乗り越えてこられた、ご遺族のご心労を拝察するとき、痛恨の情、切々として、万感胸に迫る思いを禁じ得ません。

 さて、我が国は、敗戦という混乱と焦土の中から立ち上がり、国民が一丸となって、国の再建に努め、発展を遂げてまいりました。今や国際社会において、先進的な役割を担う立場になっております。
 本市におきましても、先人のたゆまぬご努力により、今日では、人口約38万人を擁する中核市として順調な発展を遂げております。市政の運営にあたりましても、平成24年10月の市長就任以来、「夢ある次の新しい岡崎」に向け、議会並びに市民の皆様の意見を生かし、数多くの施策を着実に進めてまいりました。
 そして、平成27年に家康公顕彰400年、翌28年には市制施行100周年といった記念すべき節目の年を迎えます。幸い本市には、空襲を受けたものの古より連綿と受け継がれてまいりました歴史遺産という掛け替えのない財産があります。ことに乙川とお城が造り出す空間は、他では見られない岡崎独自の景観であり、先達が守り続けた貴重な財産の一つであります。この乙川の豊かな水辺空間が持っている、岡崎のまちづくり、市民生活の価値の向上、観光資源としての価値を、さらに活かしていくための取組みが私の公約の一つである「乙川リバーフロント計画」であります。こうした豊かな自然や歴史遺産を未来に受け継ぐべく、岡崎の個性を磨き、魅力を高め、広く市民が誇りと愛着を持てるふるさとを築き、そして訪れる人々に感動を与えられる「観光産業都市 岡崎」の実現に繋げてまいりたいと考えております。
 また、医療に関しましては、昨今、救急搬送が年間9000件以上も市民病院に集中し、南部や西部地域における救急搬送を近隣の病院に頼らざるを得ない状況にありましたが、今回、藤田保健衛生大学を運営する学校法人藤田学園との間で、岡崎駅南土地区画整理事業区域内に大学病院を建設することとなり、去る5月29日に基本協定を締結したところであります。
 福祉に関しましては、福祉の村において発達障がいのあるお子さんを対象とした、医療を含めた新たな機能を備えた、「こども発達センター」の整備を進めております。障がいの有無に関係なく生まれ育ったふるさとで、健やかに成長できる環境整備を進めてまいります。

 このように、今日ある平和や安心して市民生活を送れますのも、ひとえに、戦争によって心ならずも命を落とされた方々の犠牲の上に成り立っていることを、私たちは決して忘れてはなりません。悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、平和の尊さを次の世代に語り継ぎ、二度とこうした悲劇を繰り返さないことが、私たちに課せられた責務であります。時は移り変わりましても、過去を謙虚に振り返り、未来に向かって進んでいかなければなりません。38万市民の皆様とともに戦争や災害のない平和な日本に、そして岡崎市に進むため決意を新たにさせていただくところでございます。

 終わりにあたり、戦没者及び戦災死者の御霊の安らかならんことと、ご遺族の皆様のご健勝、ご列席の皆様のご多幸を、心よりお祈り申し上げ、式辞といたします。

|

2014年7月14日 (月)

アジアの窓から 第7回~第9回

東海愛知新聞

内田康宏事務所からホームページの更新のお知らせです。
『アジアの窓から』(1997年1月24日~3月6日、東海愛知新聞)のつづきをUPしました。
内田康宏のホームページ -アジアの窓から

第7回「タイの王室」、第8回「アウンサンスーチー再考」、第9回「宗教を考える」の三編です。

|

2014年7月 9日 (水)

第13回市民対話集会(2014.7.8)

岡崎商工会議所

 六名学区、三島学区、竜美丘学区の住民の皆様を対象としました、13回目の「市民対話集会」を7月8日(火)に開催しました。会場がイオン岡崎のお隣の岡崎商工会議所でしたので、遠方よりおみえになった方が大勢おられたことと思います。御参加頂いた皆様には、この場を借りて重ねて御礼の言葉を申し上げます。
 「地域要望発表」で各学区の代表の方から頂いた御要望と、私の回答の概要を御報告いたします。

(1)六名地区浸水対策としての、六名ポンプ場早期着工の要望
 六名地区は過去幾度となく甚大な浸水被害を受けており、六名雨水ポンプ場の早期建設を要望する。河川法の許可に時間がかかっているのはなぜか?

→ 六名地区に振った雨は占部川に排水され、矢作古川を経て海に至ります。乙川や矢作川には流れ込まないので、六名地区の雨水は本来、占部川にしか排水できません。
 六名雨水ポンプ場は、本来認められないこの大原則を超えて、乙川に放流する計画であるため、河川管理者である愛知県の特別な許可が必要となり、詳細かつ慎重に審査されるため、非常に多くの時間を要します。
 現在、占部川改修事業を進めており、久後崎町においても雨水を溜めることのできる管を整備しております。どちらも今年度事業により完了の予定です。
 六名雨水ポンプ場を始めとする全市の浸水対策事業については、今年度より策定する「総合雨水対策計画」の中で、効率的、計画的に進めて行きたいと考えております。
 ポンプ場建設にかかる今までの経緯を御説明申し上げますと、六名地区の浸水軽減のため平成21年度に占部川の改修区間を当初途中までの3.4キロから全区間5キロに延伸することを国・県に認めて頂きました。平成22年度には、毎秒8トンを乙川へポンプ放流することについて県の同意を得たことから、都市計画決定、下水道事業計画認可の法手続きを行い、施設の基本設計へと進み、平成25年度には実施設計を行いました。
 今後は、放流管の用地として乙川の中にある畑の一部を用地買収させて頂きます。また、岡崎市体育館の南側駐車場にポンプ場を建設するために、六名公園に代替えの駐車場を整備する予定です。これらの準備ができますと、管渠(かんきょ)とポンプ場本体工事に着手となりますが、本体工事着手後すべての施設を建設するのに概ね6年の期間が必要となります。
 ステップを踏みながら進めておりますので、今後も事業に対する御理解と御協力をお願いいたします。

(2)岡崎環状線整備の早期着工について
 国道1号の朝日町3丁目交差点から、自然科学研究機構南の竜美北2丁目交差点までの「都市計画道路岡崎環状線」のうち、国道1号から明大寺町の都市計画道路岡崎一色線までの道路整備の早期着工を要望する。

→ 岡崎環状線は、明大寺町の主要地方道・岡崎刈谷線を起点に市内中心部をほぼ環状に結び、梅園町の県道東大見岡崎線に至る都市計画道路です。この道路は私の父が市長の頃から計画があったものです。残念ながら、政権交代で事業計画が継続されませんでした。しかし、本道路が岡崎の発展にとって重要なものであることは間違いないと考えます。
 未整備区間である国道1号の朝日町3丁目交差点から自然科学研究機構南の竜美北2丁目交差点までの延長1,060メートルにつきましては、お話にもありました国道1号から岡崎一色線との交差点までの延長440メートルの整備を、先行して進めているところです。
 この区間の整備は、名鉄東岡崎駅へのアクセスなど利便性の向上が図られ、隣接する吹矢橋の渋滞緩和に大きな効果があると考えています。
 事業の進捗状況は、平成21年より用地買収に着手し、平成25年度末現在の買収率は84%となっています。今年度も引き続き用地買収を進めるとともに、事業認可を取得し、工事着手に向けた準備を進めて行きます。
 そして用地買収が順調に進めば、速やかに乙川の橋りょう部の工事に着手する予定です。

(3)竜美丘学区こどもの家施設環境整備の要望

 学区住民が、近隣の住環境を気配りをせずに利用ができるよう、こどもの家の防音対策と冷暖房設備の設置を要望する。

→ 竜美丘学区こどもの家は、県条例に規定する「相当程度の騒音又は振動を発生する施設」に該当し、県条例で定める基準を遵守しなければならないことから、利用者の皆様には窓を閉めることや、なるべく音を出さないように利用するなどの御協力を頂いているところでございます。
 防音対策として、これまでにレクリエーション室内に遮音カーテンを取り付け、音漏れを低減させるために隙間材を埋め込む等してまいりました。一定の効果はありましたが、基準値以下とはならない状況です。
 また暑さ対策として、壁掛扇風機を8台、スポットクーラーを2台設置しております。これらは近隣住民の生活環境に配慮した利用をお願いしている、竜美丘学区こどもの家だけに設置しているものです。
 今後も研究を進めてまいりますが、400平方メートルの広さがあるレクリエーション室に冷暖房設備を設置することにつきましては、費用もさることながら、室外機から発せられる音や振動が新たな騒音問題を引き起こすおそれがあり、設備面での対策は難しいのではないかと考えます。
 学区こどもの家は、額田地域を除く岡崎市域全学区に42館あり、その立地環境は様々でございます。
 いずれの学区におかれましても、指定管理者である学区こどもの家運営委員会の御協力を頂き、地域住民の方が相互理解を深められ、地域の実情に沿った利用をして頂く必要があると考えております。

第13回市民対話集会(岡崎商工会議所 中ホール)

|

2014年7月 4日 (金)

岡崎城は宝の山 その2

岡崎公園 歴史的文化遺産視察(2014年3月27日)

  (前回はこちら
 当日3月27日、家康館の前に集まった私達は、三浦教授、中井教授のお二方を先頭にお城に向かって歩を進めて行った。

 現在も、岡崎城の北側には、空堀が二重に構えられている。
 この辺りはかつての我等ワンパク坊主達の主戦場(?)でもあった。今は植物保護のため立ち入り禁止となっている堀の中をヘビやトカゲをものともせず、背中にオモチャの刀、腰に二丁拳銃というメチャクチャないで立ちで走り回っていた。ちょうど楳図かずおのマンガ『まことちゃん』のイメージである。当時はフロシキで覆面をして石垣をよじ登ったりする忍者ゴッコも流行っていた。時に手をすべらせて転落するマヌケもいたが、誰もケガなどはしなかった。戦後十年余りの昭和30年代はそんなのどかなでワイルドな時代であった。

内田康宏

 先生方のお話では、我々が走り回っていたお堀の造りは、「戦国期の城の様式を伝える大変貴重なものである」ということだった。堀の斜面が土のままの所もあるが、この方が足がすべって攻めにくかったらしい(切岸、きりぎしという)。最初の堀の対岸側は石垣で少し高くなっており、かつてそこには土塀(どべい)が巡らされていた。城内に侵入して来た敵をここから、弓や鉄砲で攻撃できるようになっていたという。
 堀の上部の石垣の切れ目の通路はかつては土橋であり、対岸には「太鼓門」という二階建ての櫓門があったそうだ。→図の

岡崎城

 さらにこの城門を突破した敵は二つ目の堀に沿って360度左手に回らされることになる。右手に二つ目の堀、左手には石垣とかつて土塀があったせまい道は持仏堂曲輪(じぶつどうぐるわ)と呼ばれ、ここを通過する敵は城側から再び弓と鉄砲の洗礼を受けることになる。しかも後方からである。幸いにしてこの城は実戦でここまで攻め込まれることはなかった。
 この二つ目の堀は大きく右へわん曲している。このような形の堀は「清海堀」(せいかいぼり)と呼ばれ、このあたりでは大変珍しいものだという。しかもカーブの形状は美しく石垣で整えられており、お城ファンにとってはたまらない魅力であるそうだ。こうしたわん曲した堀は戦国期の特徴の一つでもある。土造りの浅いものなら東北地方によくあるそうだが、堀の外周面が石垣造りとなっているものは国内でも例が無く、石垣の形状から田中吉政の時代のものと江戸期に修復された部分の違いが分かるという(やはり専門家の目はスゴイ!)

岡崎城

Okazakicastle201407044

 お城の真北から二つ目の堀の上を渡る「廊下橋」がある。→図の
 これは城からの出撃や脱出を考えて造られたものである。直接、天守閣に接続する位置に橋があるのも珍しく、現存しているのは唯一岡崎城だけだという。
 今見られる橋は明治以降に造られた石造りのものであるが、本来は木製であり、屋根付きの櫓(やぐら)のような橋であった。しかし「石橋の方もすでに近代文化遺産としての価値があるため大切にするように」というお話であった。
 お城の東にある現在の「巽閣」(たつみかく)の北面の石垣は、「深くて、水堀とのコントラストも大変美しく、余分なモノを取り除いて修景してPRすべきである」との御指摘であった。
 「この部分の石垣は切り込みハギでモザイク状になっており、これは江戸後期(19世紀)の様式」とのことである。
 このように比較的新しい石積みと、戦国期と江戸前期、中期のものと多様な石垣が見られるというのも岡崎城の魅力の一つと言える。また巽閣の石垣の表面には、石工のノミの跡が残っている。きれいに平行なスジがついているもの、乱れているものなど個々の職人の腕の差まで察しがつくらしい。

アラモの碑(岡崎公園)

 現在巽閣の反対側には明治期の郷土の偉人、志賀重昂博士(明治期、イギリスの王立地理学会のメンバーにもなっていた地理・民俗学者)による、アメリカのテキサス州にあるアラモ砦の守備隊の戦いと日本の長篠城攻防戦の勇士達を讃える石碑が立っている。→図の
 同じものがサンアントニオ市のアラモ砦に贈られているが、これについても「近代の歴史遺産として大切にするように」ということであった。そして後ろにある石垣は枡形(ますがた)の虎口石垣と呼ばれ、これも関ヶ原の合戦以前のものであり、大変珍しいものだそうである。またここにも城門があったという(本丸御門)。

Okazakicastle201407041

 いよいよ龍城神社前からお城の正面位置まで来た。岡崎城の大きな魅力の一つは、秀吉の大坂城(昔は土偏の「坂」であった)築城に際し加藤清正と共に城造りに関わった田中吉政が築いたものであるため、二つ城の類似性が多く見られる点である。付櫓の位置や形状が同じであるし、天守台の北側に幅約6メートル、西側に幅約3メートルの武者走りの通路が設けられるなど、失われた豊臣・大坂城の天守の様子が数多くうかがえるという。徳川の本拠地で、豊臣の城の痕跡が残っているというのも一興である。
 天守台の石垣が忍返し(しのびがえし)の形、算木積みではなく、逆反りの勾配になっているが、これは決して手入れが悪くて石垣が孕(はら)んだわけではない。野面(のづら)積みという戦国期特有の石垣であり、この形状のものは現在では岡山城、延岡城と岡崎城の三城と、彦根城の一部のみにしか見られない。(三城に岡の字があるのは偶然か?) 写真に見られるように、石垣の上下で色が違っているのはカビと地衣類によるものだという。
 また城の西側から下る坂道の両側にある石垣にも、かつては非常口としての城門があった。石垣上部に残る加工の跡は門の冠木のなごりだという。「石垣の上にある松の木は、後世のものであり、石垣の保存のために悪いので切るべし」というのが三浦先生の御意見であった。

岡崎公園 歴史的文化遺産視察(2014年3月27日)

東照公産湯の井戸(岡崎公園)

 坂下の右手にある「東照公産湯の井戸」については、すでに井戸さらいも済み、来客が水に触れることができるように計画している。水質検査の結果によると、飲んでも無害ではあるが、鉄分とマンガンの含有量が多く、おいしい水とは言えないようである。しかし徳川家康も三河武士たちもこの水を飲んで大きくなったのである。
 いずれにせよ岡崎公園はすべて、かつての城郭の内側にあり、今回記載しなかったがまだまだ多くの歴史的事物に満ちているため、それらの一つ一つをしっかりと事実確認しながら適切で統一感のある案内表示をしてゆきたいと考えている。私も田中吉政の手による岡崎城の城郭が全国で4番目に大きなものであるということを、つい最近まで正しく認識しておらず、恥ずかしい限りであった。今一度郷土の歴史をきちんと調べ直し、後世に正しく伝えてゆきたい。

 近い将来の課題として「岡崎城をどうするか」という問題が生起してくることになる。現在、岡崎城は築55年を迎えているが、あと20~30年でコンクリートの劣化(中性化)によって強度不足となり、建て替えの時期を迎える可能性がある。
 その時に、再び現在のような鉄筋コンクリート製の城にするのか、それとも木造の城に戻すのか決断を迫られるのである。
 鉄筋コンクリートの長所は、防火性と強度にある。エレベーターや空調設備を完備でき、明るく、博物館的展示機能を持たせることができる。高齢者から子供、女性、身障者の方までお城に付随された機能と城からの眺望を楽しんでもらえることができる。
 しかし、コンクリートの長寿命化が計られている今日においても、コンクリートの劣化を止めることはできず、100年~120年先には再び建て替えの時を迎えことになる。
 木造の城に戻した場合、約40年ごとに屋根の葺き替えや漆喰(しっくい)の塗り直しが必要となるが、手入れを十分すれば400年は持つ城となる。そのかわり、純然たる城としての機能しかなく、歴史的好事家(マニア)以外の人々の目には殺風景な木造の建物としか映らない。もっとも天守閣とは本来、そうした戦時の物見櫓(ものみやぐら)である。誰もが登って楽しむものではない。ただ、文化財としての認証を得られれば国の補助を得られるというメリットがある。

 お城の専門家の先生方は当然、木造の天守をお薦めである。その場合、物品の展示のために家康館の別館か、新たな歴史博物館を造る必要性が出てくるだろう。もし木造にする場合には、やはり郷土の木(三河材)を使って造りたいものだ。それこそ本当の「我等が城」となる。
 いずれにせよ、両者の長所と短所をしっかり比較検討して、将来の岡崎にとって最も相応しい城をこれからの世代の市民に選択してもらえばいいことであると思っている。
 未来の城がどのようなものとなるか分かる頃まで、この世にいられそうにない私としてはいささか気にはなるところである。

*****************

岡崎城は宝の山 その1 (2014.06.22)

岡崎城の将来について (2016.11.24)

|

2014年7月 1日 (火)

岡崎市制施行98周年記念式・市長式辞

岡崎市制施行98周年記念式

 岡崎市制施行98周年の記念式を市民会館にて挙行いたしました。御来賓の皆様をはじめ、各界各層の皆様方におかれましては、御多忙のなか、多数ご臨席を賜りまして心から厚くお礼申し上げます。
 本日私が述べた式辞をこのブログで御紹介いたします。また岡崎市のホームページにも同じものを掲載しました。
 市制施行98周年記念式・市長式辞 (平成26年7月1日)

*****************

 本市は、大正5年(1916年)7月1日に、県下では3番目、全国では67番目に市制を施行し、その後着実に発展を遂げ、本日98周年を迎えることができました。現在では、人口約38万人を擁する中核市であり、西三河地方の中心都市としての確固たる地位を築いております。これもひとえに、先人のたゆまぬご努力と、市議会をはじめ、市民の皆様方の、格別なるご理解・ご協力の賜物であると、心より感謝を申し上げる次第であります。

 さて、この1年を振り返りますと、昨年9月に2020年の夏季オリンピックの開催都市として東京が選出される一方で、10月には伊勢神宮におきまして式年遷宮が行われるなど、希望に満ちた未来と重厚な伝統が共存する、印象的な年でありました。
 本市におきましても、平成27年に家康公顕彰400年、翌28年には市制施行100周年といった記念すべき節目の年を迎えます。
 これを絶好の機会ととらえ、「観光産業都市 岡崎」の創造に向けて、シティプロモーションの推進を図り、本市の活力の維持、持続的な発展へつなげたいと考えております。
 私の公約の一つであります「乙川リバーフロント計画」は、その第一歩であります。本日、皆さまにお配りいたしました「記念式の冊子」の表紙にもありますように、乙川とお城が造り出す空間は、他では見られない岡崎独自の景観であり、本市の財産であります。
 この乙川の豊かな水辺空間が持っている、岡崎のまちづくり、市民生活の価値の向上、観光資源としての価値を、さらに活かしていくために、これまで長期間にわたってなされてきた議論を踏まえ、本年3月に「乙川リバーフロント地区整備基本方針」を策定し、4月には、私自らが会長となる「乙川リバーフロント推進会議」を設置したところであります。今後、乙川の魅力を増進する様々な施策を、国・県等の関係機関のご協力をいただきながら、スピード感を持って推進してまいりたいと考えております。
 なお、整備に要する費用については、市の負担の軽減を図るために、極力、交付金や補助金などの制度を活用していく方針で準備をしております。

 また、本市には古より連綿と受け継がれてまいりました歴史遺産という掛け替えのない財産があります。
 岡崎城につきましては、近年の発掘調査によりまして建設現場で見つかりました石垣から、日本で4番目の規模を誇る大きな城であることが判明したところです。
 堀や石垣は家康公が居城した頃など、戦国期当時からのものが残っていることから、歴史的な価値が非常に高く、城郭の構造も国内では大変珍しいとのことです。私も岡崎市民の一人として、あらためて岡崎城を誇りに感じております。その他にも、大樹寺の多宝塔や伊賀八幡宮など、国の重要文化財に指定された建造物は数多く、京都よりも神社仏閣が多くあると言われていることも誇りの一つであります。

 国は、平成20年に地域固有の風情、情緒、たたずまいといった「歴史的風致」を維持向上させ、後世に継承するための「歴史まちづくり法」を制定しております。
 本市におきましても、歴史遺産が織り成す「歴史的風致」を守り育て、未来へ受け継ぐべく、国の制度を活用し岡崎の個性を磨き、魅力を高め、広く、市民が誇りと愛着を持てるふるさとを築き、そして訪れる人々に感動を与えられるような、「観光産業都市 岡崎」の実現に繋げてまいりたいと考えております。

 さて、来年は、いよいよ「家康公顕彰400年祭」の年であります。本市は、浜松市、静岡市と共に3市3商工会議所で進めております記念事業を広く市内外にPRしてまいります。オープニングは静岡ですが、エンディングは、家康公生誕の地であります本市で、来年の12月26日の家康公の生誕日に開催することとなりました。
 当日は、浜松市、静岡市をはじめ、市内外から多くの方々にお越しいただけるイベントとして、家康公顕彰400年記念事業のフィナーレに相応しいものにしてまいりたいと考えております。

 次に、昨年10月、本市の中小企業を支援するために開設いたしました岡崎ビジネスサポートセンター通称「Oka-Biz」の動向でありますが、開設以降、予想した相談件数の2倍に相当する相談が寄せられており、利用されている皆様からはたいへん高い評価をいただいております。
 さらに、本市、岡崎信用金庫、岡崎商工会議所の3者で「地域産業の活性化に関する業務連携・協働」の覚書を取り交わしており、今後、さらなるサポート機能の強化を図れるものと思っております。

 そして防災対策についてですが、今年度、地域の防災力を高めていただくために、自主防災資機材を整備するための補助制度を設けました。制度開始早々に多くの申し込みをいただいた状況をみますと、地域の自主防災力向上への意識の高さを感じております。市といたしましても、南海トラフ巨大地震に対し、愛知県防災会議の新たな報告を踏まえ、地震対策計画の早期見直しを進めてまいります。

 次に、本日の会場でありますこの市民会館につきましては、調査の結果、耐震強度に問題はなく、懸念されていました音響の悪さ、座席の狭さも改修によってかなり解消されると判明し、現在の施設を長寿命化することを決定しました。平成28年10月には、改修によって新しく生まれかわった市民会館をご披露できる予定であります。
 今後も、引き続き利用者の安全性と利便性の向上を図り、皆さまにご満足いただける施設を目指してまいります。

 さて、次は、私の公約でもあります医療の地域格差の是正についてであります。
 本市では市民病院に救急搬送が集中し、南・西部地域における救急搬送を近隣に所在する病院に頼らざるを得ない現状でしたが、この度、藤田保健衛生大学を運営する学校法人藤田学園との間で、本市南部地域で進んでおります、岡崎駅南土地区画整理事業区域内に大学病院を建設することとなり、5月29日に基本協定を締結したところであります。
 数々の課題は残っておりますが、今年度末までに最終的な合意ができるよう、本市の医療充実に向けて、引き続き協議を進めてまいります。

 また、子育ての分野におきましては、平成27年度より開始が予定されております「子ども・子育て支援新制度」への対応といたしまして、幼児教育、保育サービスの質の向上と量的拡大を図るとともに、小学生の安全・安心な居場所としての放課後児童クラブや放課後子ども教室の整備を計画的に行い、子どもとともに成長する都市(まち)づくりに取り組んでまいります。
 さらに、福祉の村では、発達障がいのあるお子さんを対象とした、医療を含めた新たな機能を備えた、こども発達センターの整備を進めております。障がいの有無に関係なく生まれ育った本市で、健やかに成長できる環境整備を進めてまいります。

 最後に、この市制記念式には小中学校から多くの児童生徒の皆さんが参加してくれていますが、スポーツや音楽、科学等の各種大会では、全国レベルで活躍している報告をたくさんお聞きしておりまして、その度に大変うれしく思っています。
 今年度、全中学校にタブレット型情報端末を配備いたしますが、今後も岡崎の未来を担う子どもたちのために、積極的に岡崎の教育が充実するように力を注ぎ、子どもたちがふるさと岡崎に、より大きな愛着と誇りを持てる「夢ある、次の新しい岡崎」の実現に向けて取り組んでまいります。

 以上、現在の市政の一端をご報告させていただきましたが、今後も引き続き、公約の実現に向けてのリバーフロント地区整備をはじめ、観光、産業、医療、福祉、教育など様々な課題に全身全霊を捧げてまいる所存であります。皆様方におかれましては、変わらぬお力添えをいただきますよう、お願い申し上げる次第であります。

 これらを含め市政全般の運営にあたりまして、市民の皆様のご意見を伺うべく、昨年度に引き続きまして市民対話集会を開催いたします。まだ開催していない学区をまわり、直に、市民の皆様から多くの声を聴かせていただきたいと思います。

 さて、本日は、岡崎市長を3期12年の長きにわたりお務めいただきました柴田紘一氏を、本市40人目の名誉市民として顕彰させていただきます。また、それぞれの分野で本市の発展に多大な貢献をされました個人73名と6団体の皆様の表彰をさせていただきます。
 表彰の栄に浴されます皆様には、心からお祝いを申し上げますとともに、感謝の意を表する次第であります。どうか今後とも健康にご留意いただき、なお一層、本市の発展にご尽力、ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。
 終わりに臨み、市民各位並びに本日ご参会の皆様の、ご健勝ご多幸を心より祈念申しあげ、式辞といたします。

平成26年7月1日
岡崎市長 内田康宏

岡崎市制施行98周年記念式

|

« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »