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2014年6月

2014年6月27日 (金)

続・アジアの窓から 第3回~第6回

『続・アジアの窓から』(1998年3月18日~4月18日)

こんばんは。内田康宏事務所からお知らせです。久しぶりにホームページの「コラム」を更新しました。
『続・アジアの窓から』(1998年3月18日~4月18日、東海愛知新聞)のつづきです。
内田康宏のホームページ -続・アジアの窓から

第3回「一人っ子政策の功罪」、第4回「東アジアの近代史に思う」、第5回「古都・南京」、第6回「南京への道」の四編をUPしました。

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2014年6月22日 (日)

岡崎城は宝の山 その1

岡崎城

 このところ、時節に合わせての報告事項が多く、少々間が空いてしまった感もあるが、「乙川リバーフロント構想」のメインテーマのひとつである岡崎城岡崎公園について、一度きちんと触れておきたいと思う。
 本年3月27日、かねてよりお願いしてあった日本の城郭研究の第一人者である広島大学大学院教授の三浦正幸先生(祖父の代までは岡崎在住)と、歴史学者として高名な滋賀県立大学教授の中井均先生に御同行賜り、副市長と関係部局の職員そして私の総勢15名あまりで、岡崎公園の歴史探訪を行った。
 外に向かってPR活動をしていくためには、私達自らが正確な事実を認識しておかねばならない。
 「岡崎の人間は何かというと『家康公・生誕の地』と言うくせに、実際はモノづくりの金儲けばかりに走っており、意外と地元の歴史遺産について無知であるし、大切にしていない」といった手厳しい御指摘を外部の方から頂くことがある。
 現に来年の徳川家康公の顕彰400年祭についても、静岡市と浜松市から久能山東照宮400年祭と兼ねてのお誘いを受けるまでは、誰も思い出す人がいなかったくらいである。(仮に知っていたとしても何のアクションも起こさなければ、知らないのと同じことである。)

東海愛知新聞 2014年4月15日

 大正4年(1915年)の300年祭の折りには、「葵の誉」という歌まで作り、市民をあげて大提灯行列を行ったにもかかわらず(翌年が市政施行年)、100年ですっかり忘れてしまったのである。500年祭の時にはこんなことのないように市役所内に〝100年カレンダー〟を設けておきたいと考えている。

 かく言う私も先祖代々岡崎に居住し、自身、お城のある連尺学区に生まれ育ちながら、今回の探訪で先生方のお話をうかがって、岡崎城の真実についてあまりに疎(うと)いことを認識し、まさに赤面の思いであった。

岡崎市観光協会 総会

 岡崎市史に詳しい方には、当たり前の話かもしれないが、ここで岡崎の歴史と岡崎城について振り返ってみる。
 現在岡崎市のある辺りに人が住み始めたのは、文献によると約1万5千年程前の旧石器時代であったそうだ。大きな川が交差する地点に城や砦が築かれて、その周りに集落ができ、発展していったというのは、世界中どこでも共通の現象らしい。
 岡崎の地も大化の改新(645年)の頃にはそれなりの集落が成立していたという。その後、大和朝廷との結びつきが強まる中で仏教も盛んになっていった。
 保安年間(1120年~)に開山したという滝山寺の入口にある大きな三門が、藤原光延により建立されたのは文永4年(1267年)であった。鎌倉時代には足利義氏が三河守護職として館を構え、その後室町幕府を開いた足利尊氏は三河を幕府直轄地とした。(南北朝の乱の折りに、初めて陣をひいて対峙したのが矢作川だったという。)
 応仁の乱(1467年)を切っかけに始まった戦国時代に、家康の祖父である松平清康(松平七代)が大永4年(1524年)に岡崎に居城を定め、それから5年ばかりで三河一円を平定した。
 その孫である家康公が岡崎に在住していたのは、天文11年(1542年)の生誕から6歳までの幼少期と、桶狭間で破れて戻ってきた19歳から29歳までの青年期の16年間であった。その青年期の10年の間に元康から家康に改名し、松平から徳川へと復姓を勅許(ちょっきょ)され、まさにこの時期は次の時代にはばたくための胎動期であったと言える。
 城に特化して述べるならば、家康公生誕の城と言われる岡崎城は康正元年(1455年)に地元の豪族西郷頼嗣(よりつぐ)によって築城され、その後、家康の祖父、松平清康によって奪取されたものである。当時の岡崎城は、堀こそあったものの、城というよりも館(やかた)と呼ぶ方がふさわしいものであったらしい。
 その後、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の命により関東移封(いほう)となった徳川家康の後を受けた田中吉政の手によって、中世的な城から近世的な城郭に生まれ変わった。この時に、石垣や天守閣を持つ、今日に伝わる岡崎城の外観が形造られたと言われている。また田中吉政の業績は城造りにとどまらず、町造りにも活かされており、外敵の来襲に備えて東海道を城下に引き入れた。この欠町から矢作橋までつながれた街路が、いわゆる「岡崎二十七曲り」である。
 秀吉の家臣であった吉政であるが、関ヶ原では東軍に属し、西軍の旗頭石田三成の捕縛の功により、家康に認められ、北九州の柳川へ加増・栄転(三十二万石)となった。
 それからの岡崎城は江戸期を通して、譜代大名となった、本多氏、松平氏、水野氏ら近臣の家系によって治められることとなる。

 しかし慶長9年(1604年)、本多康重の治世の折りの地震で倒壊し、元和3年(1617年)にその子康紀によって新城が再建された。この二代目の城は、明治維新後の明治6年(1873年)、徳川の象徴の一つでもあるため取り壊されることになった。現存する3枚ほどの城の写真は当時の様子を今日に伝えている。

岡崎城

 太平洋戦争後、市の有志の声掛けの元、昭和34年(1959年)、鉄筋コンクリート製の岡崎城が復元された。以来、本市のシンボルとして55年経過したところである。
 当時小学一年生であった私も、同時に建設されていた旧・連尺小学校の体育館の工事の様子と共に、岡崎城ができ上がってゆくあり様をはっきりと記憶している。(当時の連尺小学校は今のりぶらの場所にあった。)
 現在の三代目の城は、三重の天守と付櫓(つけやぐら)造りであり、内部は五階建ての造りとなっており、ヨロイ、カブトや刀剣、各種資料の展示資料館として活用されている。最上階にはオリジナルの城にはなかった廻縁(まわりえん)と高欄(こうらん)が設けられており、来訪者の展望と安全のために供されている。
 「本来の岡崎城(二代目)には、そうした付属物はなく、最上階はもう少し高くすっきりとして、見映えは美しいものであったはず」というのが専門家の見解である。

岡崎公園視察 2014年3月27日

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岡崎城は宝の山 その2 (2014.07.04)

岡崎城の将来について (2016.11.24)

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2014年6月20日 (金)

『リバ!』2014年7月号

『リバ!』2014年7月号

内田康宏事務所から『リバ!』(株式会社リバーシブル)発行のお知らせをいたします。
2014年7月号の徒然市長日記は、今月初めにブログに掲載した「青春のトンネル」です。

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2014年6月16日 (月)

岡崎の人口と将来

 先日、市役所の企画課から、本市の将来人口予測の報告を受けた。日本各地から、過疎化、人口減に対する悲鳴の声が上がる中、「岡崎市の人口は、平成42~43年までは増え続ける」との報告であった。
 その時期まで人口増が期待できる地方都市は全国でわずかな数だという。これもこの地域が「モノづくり」を中核とした豊かな市であり、先人が区画整理事業に力を入れ優良宅地をしっかりと造ってくれたおかげであると感謝している。
 しかしその後の見通しとしては、「人口40万人ほどをピークとしてゆるやかに人口減に向かってゆく」というのが企画課の見解であった。

自治体の人口

 私は以前から「岡崎の都市政策は〝人口50万都市・岡崎〟を念頭に考えるべきだ」と述べてきた。それに対し、ある市議から「岡崎は人口42~3万人が関の山で、後は人口減に向かう」という声を頂いていたが、その指摘もあながち的外れではなかったようだ。
 しかし私としては、〝50万都市計画〟を訂正するつもりはない。予想はえてして外れるものであり、現に岡崎の状況は他都市に比べてずいぶん良好である。しかも、これから本市が取り組む〝夢ある次の新しい岡崎づくり〟の政策が本格的に実行に移されていけば、岡崎はさらに魅力的で面白い都市になるという自信が私にはある。
 現時点の年齢3区分別人口は以下の通りになる。

区分 人口
年少人口(0~14歳) 6万人
生産人口(15~64歳) 25万人
老年人口(65歳以上) 7万人

 同規模の他都市と比べて、岡崎市の特徴は生産人口が高く、老年人口が低いという結果が出ている。しかも若い世代の流入率が高く、高齢者人口の伸びが鈍いという分析もある。これは岡崎に「モノづくり」を中心とした優良な働き口があり、子育て世代にとって岡崎が居住するには魅力的な所と映っていることの証拠である。
 また、高齢者人口の伸びが鈍いということは、車の運転ができなくなった世代が、他地域の身内のいる所や、生活に便利な都会のマンションなどに移転するケースが少なくないことを想像させられる。
 この傾向は医療費や福祉の観点からものを見た時に、都市経営の収支としては悪いことではないとように見えるかもしれない。
 しかし、このことは本市の公共交通機関が十分に行き渡ってないことを示すものでもあり、行政運営の観点からは反省すべき点でもある。この点については、まちバスなどの交通機関の充実について、市民対話集会などを通じて多くの方から要望を頂いており、現在担当課には調査・研究を指示しているところである。
 言うまでもないが、高齢者が住み慣れた故郷で最後まで安心して暮らせるようになってこそ、本当の意味で都市としての高い評価を得られるものであると考えている。

July 27, 2013

 少子高齢化問題というのは国民の多くが高い学歴と豊かな生活を追い求めるようになった先進国共通の課題であるが、ことに我が国の少子高齢化は際だって急速に進んでいる。
 全国の人口減少地域では、あと10~20年もすると、自治体の経営が成り立たなくなるほどの人口減に見舞われる所が出てくるという。ある統計によると2040年には、人口が1万人を切る市町村が全国1,800自治体のうち523(29.1%)にのぼると言われている。
 昨今、フランスやスウェーデンの少子化対策に倣(なら)った、子育て世代の女性支援プロジェクト(女性が安心して子供を産み、育て、働ける社会環境を整備する計画)の必要性が指摘されているが、問題はそれだけではない。子づくりどころか結婚をしない人達が増えているのである。昔と違って「いい年をして独り者」と言われることも少なくなり、近所に世話好きのオバさんの姿を見かけなくなって久しいものがある。
 自己実現と生き甲斐を求める女性の生き方は、もはや押しとどめることのできない時代の奔流となっているようだ。自立心のある女性は、今さら無理に好きでもない男と一緒になろうとはしないし、簡単に別れもする。一方男の方でも気楽な一人暮らしを望む者が増えてきている。要するに人間の考え方が変化してきているのである。
 そうした中、社会の中核を担う生産人口の減少が、将来の我が国の国家的危機を暗示しており、生産のみならず、あらゆる社会活動の領域において人材と人手が不足する事態を招くことが予想されている。
 そこで期待されてしまうのが、まだまだ元気で能力十分な高齢者と優秀な女性の力ということになってくる。しかしそのことが未婚化、晩婚化を促進することとなり、少子高齢化をさらに進ませることになりそうである。

 窮余の一策として、外国人労働者の活用が再び取り沙汰されているが、低賃金で労働力が確保できるとして安易に外国人を受け入れれば後に大きなツケを支払うことになるというのは、一昔前(90年代)に我々も経験しており、今さら改めて説明の必要はないと思う。異なった生活習慣、文化、価値観を持つ人々と社会的共生をするということは、大変な忍耐と寛容の心を必要とすることであり、私達に本当にそれだけの覚悟があるかが問われることになる。
 現実にヨーロッパ社会のように、古代より多人種共生社会の歴史を持つ国々においてさえ、そこから派生する様々な問題が今日もなお続いている。そうした海外の状況を見るにつけ、独自の伝統文化と社会形態を持ち、それが国家としての力となってきた我が国としては、これ以上安易な外国人労働者の受け入れには慎重にならざるをえないと思う。
 もちろん特別な技術や資格、能力を持つ優秀な外国人を取り入れていく政策については、アメリカやシンガポールの例を見るまでもなく必要であると思っている。そういう言い方をすると、まるで人間のランク付け、選別を行っているようで嫌な話であるが、いずれにせよ我々はすでに大なり小なりこうした人間の選別を行いながら生きているのである。各種入学試験、入社試験、資格試験、昇給試験は言うに及ばず、友人、結婚、選挙など全て人間の選別であると言える。

 国家としての人口減対策はひとまず国会で考えてもらうとして、今後も岡崎においては最初に述べたように〝50万都市岡崎〟を念頭に置いて都市政策を考え準備してゆくことが大切であると考えている。その根拠として、岡崎にはまだまだ優良宅地としての候補となる用地空間が十分にあり、また近隣自治体との合併の可能性もあるからである。
 さらに現在進行中の新しい岡崎づくりの政策によって、本市は今以上に魅力ある都市となり、予想よりも長く人口増が続く可能性があると言える。
 ただ本市の中においても、中山間地や郊外地帯と中心市街地との人口や利便性のアンバランスもあり、今後の対策が必要とされている。
 いずれにせよ、国家が宿命的人口減少傾向にある中、我がふるさと・岡崎をどのようにカジ取りすべきか今一度しっかり考えてみる時を迎えていると思っている。

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2014年6月12日 (木)

岡崎市南部に総合病院建設決定!

岡崎市 大学病院の建設に関する協定調印式

 この度、岡崎駅南土地区画整理事業区域内に、学校法人藤田学園が大学病院を建設することが正式に決定しました。平成26年5月29日(木)、岡崎市と藤田学園、岡崎駅南土地区画整理組合の三者において「大学病院の建設に関する協定」を締結いたしました。御協力頂いた関係者の方々には心より感謝申し上げます。

 これまで38万都市に高度医療を担う総合病院が市民病院一つしかないことが、本市の自治体としての大きな弱点であった。そのため岡崎市では市民病院に年間9000台を超える救急搬送が集中し、医療過誤の発生も心配されていた。しかも、それでも対応できないケースや、市民病院から遠い市南部と西部地域については、近隣の西尾市や安城市の病院のお世話になってきたのである。
 市南部の総合病院設置を実現するため、歴代市政も努力してきたものの、先程述べた高度医療を担う病院の建設は高額な費用がかかり、先端医療機器の導入に加え、医師や看護師、その他医療技術者を確保しなくてはならない。新しいシティーホテルの導入と並んで困難な課題となっていた。

 一昨年の市長選挙においても〝新・総合病院建設〟は一大争点であった。当時、財政的な裏付けもないまま、もう一つ新たに市立病院を造るという無責任なプランもあった。岡崎市の年2200~2300億円という財政能力を思えば、私は建設と医療機器の整備に400億円かかるという市民病院を2つも持つことは不可能なことだと考えていた。
 しかも病院は建てたら終わりではなく、管理運営をしてゆかなくてはならない。総合病院ともなれば毎年200億円以上(市民病院は毎年214億円)の経費が必要となる。さらに異動の多い医師や看護師、技術者の確保もしなくてはならない。
 本県における医師の主な供給元は、名古屋大学、名古屋市立大学、藤田保健衛生大学、愛知医科大学といった限られたものであり、各自治体ごとに配属される医師の数も病床数等でおのずから決まっている。特定の自治体にだけ特別待遇が許される保障はない。しかも、ふつうどこでも公立病院は高度医療対応のため一つに集中特化しているというのが時代の趨勢(すうせい)である。
 そうした当たり前の事情から、「医師を確保できる能力のある民間の大病院か、大学病院の誘致」をはかることを公約とし、実現を目指してきたのである。大きな公約の一つを、2年目にしてここまで進めることができて正直ほっとしている。

岡崎駅南土地区画整理区域

 市長就任以来、これまでいくつかの病院進出計画の話が持ち上がってきたが、進出計画の不備や条件面での折り合いがつかず、いずれも不成立となっていた。
 そうした中、ちょうど今から一年前、岡崎市医師会を通じて藤田学園に進出の意向があることを知らされ、話し合いがもたれてきた。ことの性格上、交渉内容は極秘裏に進められてきた。折しも岡崎駅南地域において、大規模な区画整理事業が進んでおり、3ヘクタール(3万m²)というまとまった土地の確保が可能なため、当初よりこの地が候補地の一つとして考えられてきたのである。
 総合病院進出のための必須条件として、機能的で合理的な施設運用を行うためのまとまった土地であることと共に、病院経営のための基礎人口のある地域が望まれていた。

藤田学園 大学病院建設予定地 (岡崎市針崎町)

 今回進出地に決定した針崎の地は、JR岡崎駅から約1km、徒歩10分ほどの距離にあり、岡崎市医師会の「はるさき健診センター」にもJRを挟んで隣接し、そのすぐ隣には市営の南公園という遊園地を併設した大きな公園がある。周辺に広がる宅地には優良住宅の建設が進行中である。
 この地には昨年春、美術館と見まがうような翔南中学校が新設され、伝統ある岡崎小学校と共に子育ての面でも優れた環境となっている。周辺に計画されている幹線道路網はまだ完成していないものの、県・市道共に重点事業として着々と進行中である。
 近い将来、新病院が、岡崎のみならず、西三河南部の新たな医療拠点として救急医療並びに高度医療の中核として発展してゆくことは間違いないと思っている。わかりやすく言えば、市民病院にとって頼りになる弟ができたようなものである。
 藤田学園の新病院は平成32年(2020年)4月の開院予定であり、病床規模は400床以上を目指し、2次救急医療対応、24時間、365日体制の総合病院を目指すこととなる。近年脳出血により救急搬送されるケースが多いため、内科、外科、小児科、婦人科と共に、特に脳外科の部門の充実を望むものである。この分野は一刻を争う治療が必要なため、今回の病院決定は高齢者の方々には非常に朗報であると思う。

 話は変わるが、最近「どうして、南ばっかり良くなるんですか?」という質問をよく受けることがある。決して南をエコヒイキしているつもりはないが、今良くなっているということは、これまでそれほど良くなかったということでもあり、近年ようやく南部が良くなる時期を迎えつつあるということだと思っている。
 決して「どちらの地域を特別に」と考えている訳ではないが、条件が整ってきた所から順番に課題に対応するようにしているということである。
 そもそも自治体の行政計画には、先人が積み上げてきた都市計画のマスタープランというものがある。さらにそこから決定された用地計画という枠組みもある。そうした計画に合致していない事業を行おうとする場合、新しい計画を国や県に提出し、認可を取るか都市計画そのものを改訂しなくてはならない。そうした条件が整わない内に何かやれと言われても、それは無理な話である。
 岡崎市としては、今後も市内、東西南北、中央部、それぞれの地域の実情と要望に合った事業の実現のために努力を重ねてゆく方針である。それこそが夢ある次の新しい岡崎の実現につながることであると考えている。


藤田学園と「大学病院の整備及び運営に関する協定」調印 (2015.04.05)

「藤田保健衛生大学 岡崎医療センター」プラン決定 (2017.03.06)

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2014年6月 8日 (日)

大恐竜がやってくる! その2(動物園について)

 そもそも「恐竜の森」構想の始まりというのは、「高齢化し、減りつつある東公園の動物達をどうしていくか」というところから生まれたアイデアである。
 昨今の国際的自然動物の保護と動物福祉の気運の高まりの中で、注目される新種の動物を入手することは極めて困難な状況となっている。その影響は国内で繁殖されている動物にも及んでおり、入手のためには高額の出費を覚悟しなければならない。たとえ多額の寄付や希少種の動物の寄贈があっても、その動物にふさわしい最適な施設の準備と維持管理に巨額の費用が必要となる。計画性のない動物の購入は不可能に近いと言える(家で犬猫を飼うのとはわけが違う)。

岡崎市東公園動物園

 現在、東公園で一番人気のゾウのふじ子は31年前に、〝ゆかりのまち〟福山市から送られたゾウであり、飼育係の献身のおかげで46歳の今でも元気である。しかしながら長年の一頭飼いのせいか、よく知らない人には友好的でないという。本来群れで暮らしている動物を長年一頭飼いしてしまった結果でもある。豊橋の動物園ではこれからゾウの多頭飼いを目指すそうであるが、それが本来の姿である。「動物を増やしたら」と簡単に言われる方がよくみえるが、施設整備の問題に加え、動物にも相性という問題がある。決して、動物はモノではなく、彼らにもそれぞれ心があることを忘れてはならない。
 また現在、すべての動物園で動物の多様化、繁殖と並んで重要な課題は運営経費をどうするかということである。岡崎の東公園動物園の場合、入園無料であることが一番のウリなのであるから、有料化を考えない限り、規模の拡大にはおのずから限界がある。さらにもう一つ、東公園は敷地面積こそ大きいものの、公園法や様々な用地的制限もあり、勝手な施設計画を行うことはできない。
 そうした様々な困難な前提条件の中から考え出したプランが、恐竜モニュメントを活用した「恐竜の森」構想なのである。

 かつて私の幼稚園時代(古い話で恐縮です)、毎年春の遠足は名古屋の東山動物園と決まっていた。毎年子供達も入れ替わるため、同じ所でも大した文句も出ず、私は3年保育であったため3年連続で東山動物園に行った。もとより動物園は今でも好きであり、少しも不満はなかった。他の多くの子供がゾウやライオン、ゴリラといったスター達の獣舎の周りに集まっている中、私はいつも一番奥の、現在も植物園の中にあるコンクリート製の恐竜像を見に行き、しばらくそこにクギ付けとなっていた。その後集合時間に間に合うように園内を周り、集合地点へ向かうというのがいつもの行動パターンであった。これは私だけのことかと長い間思っていたが、長じてこの話をしたところ、同様の行動パターンをとっている人が少なくないことを知って驚いている。(元・医師会会長の志賀先生も同じことをしていたそうである。)
 興味のない人には、「動かない恐竜は一回見れば十分」ということかもしれないが、古代生物や地球史に関心の深い人間には、恐竜はたまらない魅力である。今見れば確かにチャチな観は否めない。だが、76年前の昭和13年に造られたコンクリート製の恐竜の立像を見つめながらいったいどれだけ多くの子供達が想いを巡らせてきたことであろう。前から後ろから左右からと、ためつすがめつ見上げながら、「どんな鳴き声だろうか?」「色は?」「歩き方は?」「何を食べていたか?」と様々に思いを膨らませ、まったくアキのくることはなかった。

東公園の恐竜(イメージ図)

 歴史的事象や古代生物に関心の薄い方には「何ということのない大きな模型」ということかもしれないが、想いが夢や想像力をかき立て、そこから科学や芸術への芽生えが始まることはよくあることである。世界的な芸術家、科学者といった人達は皆イマジネーションの力が豊かである。昆虫記のファーブルやアインシュタイン、ウォルト・ディズニーや手塚治虫も、映画監督のスティーヴン・スピルバーグも、恐竜博士のジャック・ホーナーや恐竜温血説のロバート・バッカーにしても皆イマジネーションの塊(かたまり)のような人々である。感性豊かな子供達には、大人の目にもはや映らなくなったものも見えている。
 子供達が想像の夢の世界に想念を遊ばせることのできる触媒としての役割を、この新しい恐竜達に期待している。また、今後そうした展示方法をしたいと思っている。

岡崎市東公園動物園

 もちろん東公園の整備計画は「恐竜の森」構想だけではない。岡崎の動物園は名古屋や豊橋の動物園のように、希少動物や珍奇な動物やライオンやトラやゴリラなど人気大型動物のスター指向ではなく、〝古里の動物達〟(シカやタヌキなど、魚類も含めて)というローカルなコンセプトで特色を打ち出せないかと考えている。いわばスキマ商法である。昨今は近くにいて人と共生していながら、町育ちの子供達は自然の生き物の生態を見る機会が少なくなってきている。そうした生息域を失いつつある生き物を、保護の意味も兼ねて動物園で展示飼育できないかと考えている。(現実に今その方向の努力を始めている。)
 そして全体を通した整備の中で、動物園の新しい顔となる動物が手に入るならば、積極的に対応したいと思っている。ある議員からは「温帯でも成育できるフンボルトペンギンはどうか」という意見も頂いている。無料の動物園でゾウを見ることができ、ふれあい体験などで人気のある東公園動物園ではあるが、実は運営経費の一部は皆さんに負担して頂いている。エサやり体験のエサ販売収入だけで毎年1,000万円程もあり、これは公営の動物園ではトップクラスとのことである。これも職員のチエと努力の賜(たまもの)であり、市民の皆さんの御協力のおかげと感謝している。

 今度の新しい「恐竜の森」も、見て、触って、感じて、無料である。完成後はグッズ販売の方で皆様の御協力を期待しております。
 将来的には、ビッグバンから始まる宇宙138億年の時の流れと生命の進化を感じさせるような施設を目指していきたいと考えている。

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<追記>
 その後恐竜は計5体に増え、東公園時計台前広場にしばらくのあいだ設置することが決まりました。2015年3月29日(日)、同広場にて「恐竜モニュメント完成記念イベント」が開催されました。

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2014年6月 7日 (土)

大恐竜がやってくる! その1(ことの始まり)

東海愛知新聞 2014年5月22日

 「ひょうたんから駒」とはまさに今回のようなことを言うのであろう。
 昨年、両親の古い友人で、子供時代からお世話になっている方が市役所におみえになった。「今までの市長はよく知らないので、わざわざ面会に行くことはなかったが、あんたが市長になったので様子を見に来た」ということであった。
 久し振りの再会でもあり、昔話に花が咲き、「ところで市長になってどんなことをやるのかね?」という質問を受けることになった。
 選挙以来これまで語り続けている「モノづくりの岡崎」を大切にしつつ、もう一つの宝である歴史的文化遺産と河川の水辺空間を活用したまちづくりをしたいという話をさせて頂いた。
 その時、「これは私が個人的に温めてきたいくつかのプランの一つですが、実現には10年以上かかると思われます」と前置きをして、お話をさせて頂いた。それが、私がかねてから考えていた東公園の整備計画の一案としての「恐竜の森」構想であり、私の描いたラフ・スケッチをもとに説明をさせて頂いた。

ラフ・スケッチ(内田康宏)

ラフ・スケッチ(内田康宏)

一、「獲物を狙って攻撃態勢に入ろうとするティラノサウルスと、食べることに夢中で気が付かない草食恐竜」「肉食恐竜の接近に気づき警戒するトリケラトプスの親と子供達」といった情景を、森の中に実物大のジオラマで再現する。

一、ブラキオサウルスを東名高速から遠望できる位置に置くことによって、その首と頭が岡崎インターチェンジが近いことを知らせる印(しるし)となるようにする。

一、これらは見るだけでなく、触れることもできるようにする。

 といった具体的な話をしたところ、「面白いアイデアだね、お金は出してあげるからぜひおやりなさい」という思わぬ言葉を頂くことになった。
 1億円などという金額は予想すらしていなかったのであるが、「私が元気なうちに実現させてほしい」と述べられ、このたびの多額の寄付を頂けることになった。そして今回御本人の意志を尊重して、匿名での物品寄贈として頂く形とあいなった次第である。

岡崎市東公園

 私の考えていた構想としては、東公園の東名高速の東側の森林の中に、途中までできている遊歩道と隣接する自然景観を生かしながら、実物大の恐竜モニュメントを時代の流れに沿ってジオラマ仕立てに配置したいと考えていた。しかし、現地踏査をしながら担当課と相談した結果、相応の重量のある大きなモニュメントをいきなり山地に置くこともかなわないため、今回とりあえず時計塔北側広場前に設置してお披露目することとなったのである。
 ちなみに恐竜4体と付属品に設置工事費用を含めて総額で1億円ということで、今回市費の持ち出しは無い。
 先に書いたとおり、本来10年くらいかけてムリなく進めるつもりであったのであるが、想定外の救いの神の出現により、事業計画が早くなり本当に感謝感激である。(つづく

岡崎市東公園 屋外恐竜モニュメント イメージ図

岡崎市東公園 屋外恐竜モニュメント イメージ図

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2014年6月 4日 (水)

青春のトンネル

Salinger, Goethe and Shakespeare

 このところ、時折、若者の自殺のニュースを目にすることがあり心を痛めている。自殺は可能性の放棄であり、実にもったいないことだと思っている。
 人間の能力の開花する時期や運が巡ってくる年は人さまざまなのに、それを待てない人もいる。また、人生には思春期と呼ばれるやっかいな時期があって、自分で制御できない暴れ馬に乗ってしまったような状態となる人もいるようである。
 世の中にはそんな時期を青春と呼び、ことさら美しく飾り立てて表現する人達がいる。しかしその実態は、自分の夢や希望に対する限界や無力さに打ちのめされたものであることが多いものである。
 まれにスポーツや芸能の分野で成功した一部の人間の存在が華々しく伝えられることがある。しかしその人の個人的内面に入ってみれば表面上の華麗さとは裏腹に、現状を継続させるための異常なる努力と献身、自己犠牲が秘められており、心の中はより以上の不安と葛藤(かっとう)に満ちていることが多いものである。
 また青春とは〝思索(しさく)の時代〟でもあり、思い悩み、多くは悲観的な思いにふけるものである。決して歌やマンガ、TVドラマや小説で表現されるように明るく美しいものだとは思えない。
 子供の頃には見えなかった人間行動の裏、人の心の闇、社会の本音と建て前、人のウソや裏切り、そうした人間と世の中の負の部分を見分ける目が養われてくるのもこの時期である。大人になれば、そうしたことにも少しは慣れてくるものだが、思春期には、いささか刺激が強過ぎる場合もある。時にそれに耐え切れず、自ら命を絶ってしまう人がいる。

 若い時には、そうした青春時代の心理的トンネルの暗闇がどこまでも続き、出口のない絶望的なモノに感じられることがある。だが、そんなトンネルもある時突然途切れて、青空が広がってくるものである。いつトンネルを抜けられるかは、人さまざまで誰にも分からない。しかし必ず抜けるのだ。誰しもそこまでトンネルの暗さと不安に耐えなくてはならない。
 不安に耐えるコツが一つだけある。それは大なり小なり皆同じトンネルを通っているということを思い出すことである。不安なのはあなただけではないのである。誰しも青春のトンネルをくぐり抜けるまでは、精神的な暗闇と不安につきまとわれるのである。

 しかし朝の来ない夜はない。昼の喧噪の真っ只中に入ってみれば、夜の暗闇と孤独が懐かしく思い出されることもある。いずれそんな風に自己の人生を振り返ることのできる時が必ずやってくるものだ。とりあえずそこまでは生きていこう。
 人間の成り立ちを考えても、一人の誕生には必ず二人の親と数えきれない祖先の存在がある。また一人の命の存在のカゲには、生まれ得なかった数億の可能性があるのである。
 今、生まれてこの世に生きているということは必ず何らかの意味があるのである。それが分からないうちに可能性を放棄するというのはいかにももったいないし、この世の創造者(いればの話)の意にも反することと思う。今理由は分からなくても、ただ生きていることにも意味があるのである。

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