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2014年3月 7日 (金)

江田島・海軍兵学校、海上自衛隊の池太郎校長 その1

海上自衛隊幹部候補生学校 池太郎校長

 本年1月の早々、すごい来客を迎えることとなった。
「岡崎出身で、海上自衛隊でガンバっている人がいるからぜひ一度会ってほしい」
 ということであったので二つ返事でお引き受けした。
 仕事始めの日である1月6日、海上自衛隊幹部候補生学校の第42代校長、池太郎海将補(昔の少将)が岡崎市役所に来訪された。
 この名称ではピンとこない方もおみえかもしれない。要するに、かつて広島県の江田島にあった海軍兵学校の場所に、戦後、海上自衛隊のリーダー養成のために作られた学校である。確かに現在の自衛隊と旧帝国海軍とでは、その成り立ちもあり方も異なっている。しかし、そこで学ぶ人々の心に流れる精神的伝統、海の国防という職務において共通のものが伺えるのではないかと思っている。
 今回、池さんとお会いすることになったのは、私の大学の先輩でもあるタニザワフーズ社長の谷澤憲良さんの御紹介があったからであるが、正直、私自身お会いするのが楽しみであった。海上自衛隊幹部候補生学校といえば、江田島であり、江田島といえばやはり、かつて世界三大海軍兵学校の一つに数えられた日本海軍兵学校の地である(あとの二つは、アメリカ・アナポリスにある合衆国海軍兵学校と、イギリス・ダートマスにある王立海軍兵学校)。

 ある程度の年輩の日本人男性ならば、一度はあの海軍二種軍装の真っ白な上下制服に錨(いかり)のマークの制帽、腰に短剣姿の服装を身にまとってみたいと思われたことがあると思う。
 戦前・戦中のモノは、その多くが戦後否定され忘れ去られつつあるが、まぎれもなく、こうした学校で培われた伝統及び精神は我々日本人のバックボーンとして今日もこの国を支え続けてきているものと思っている。

the mayor

 以前、広島で国体が行われた折、県議として広島まで出向いたことがある。その時に私は江田島を一人で訪問した。自衛隊の岡崎出張所を通じて訪問の希望を伝えておいたところ、県議一人の訪問にもかかわらず、一佐(昔の大佐)が随行案内役として付いて下さり、大変感激したものである。
 広島県呉市のJR呉駅の近くにある中央桟橋からフェリーで20分ほどの海路の先に江田島(市)はある。途中、水上航行している潜水艦や自衛艦と当たり前のようにすれ違ったりする風景が見られるのも、この地域の独特な風物であると言える。思えば瀬戸内海の呉市近辺の海域は源平合戦終盤の戦場となった場所であり、村上水軍の発祥の地でもある。そして帝国海軍華やかなりし頃は、連合艦隊艦船の一大集積地であったのである。
 今日もなお、そうした歴史的面影を当地でうかがえることに、一人の男として何か心うれしいものを感じる。今でこそ海上自衛隊の幹部候補生養成のための学校となり、時代を反映して女子学生も学ぶ施設となっているが、かつての海軍兵学校はプロのネイビー士官を輩出する男の牙城であった。この学校のOBという方にこれまで何人もお会いしたことがあるが、皆、年はとっても背筋のピンと通ったスマートなおじいさんばかりであった。

江田島・海軍兵学校

 軍人と言うと一見無骨な印象があるが、兵学校では太平洋戦争中であっても英語は必須科目であり、軍艦という近代兵器を動かす必要から理系の学科の能力が重要視される学校であったという。
 もちろん、ただ頭が良いだけでは合格することはできず運動能力も必要とされ文武両道に通じた海の男を育てる学校であった。当時から「東大に入るより難しい」と言われ、陸軍の士官学校と並んで、全国の旧制中学の俊英達がこぞって、憧れ、目標としていた学校でもあった。ウチのオフクロの世代の人の話では、若かりし頃町で兵学校生徒の白服の短剣姿を見かけると遠巻きにキャーキャー言って見ていたそうである。ちょうど今の流行りのSMAPや嵐を見るような気分だったのかもしれない。

 海軍兵学校は元は東京都中央区の中央卸売市場の土地の一角にあった。明治2年(1869年)9月に「海軍操練所」として始まり、翌明治3年より「海軍兵学寮(へいがくりょう)」に改称される。この年に入学した生徒から第一期生と数えられている。第二期生には〝日本海軍育ての親〟と言われる山本権兵衛大将(後首相)がいた。一方、東郷平八郎元帥は開校時すでに23歳であり、イギリスのウースター商船学校で教育を受けている。当時の記録によると東郷青年は「俊英とは言えないが、たいへん生真面目な学生であった」と学籍簿に記してあるという。明治初頭の頃の日本の青年の気負いと木訥さが伺えるような気がする。
 明治政府は海軍兵学寮の開設にあたって、当時世界一の海軍国であったイギリスから教官団を招聘している。当然のことながらイギリス海軍士官流の紳士教育を前提とした教育がなされ、それが後に、「海軍士官は粋で、ナイスで、スマートに」と言われる気風の素地となったのかもしれない。またこの時にイギリスのダグラス少佐の主張により、鉄拳制裁も採用されたということである。鉄拳制裁は日本軍だけのものではなかったのである。イギリス教官団は士官、下士官含め34名で来日し、その教育は教室での座学よりも屋外での実地訓練を中心としたものであったという。以後、日本海軍は英国海軍をお手本として成長していった。
 海軍兵学寮は明治9年に校名を「海軍兵学校」と改称。この頃から繁華になった東京から地方への移転論議が活発となり、明治21年、東京築地から新たに広島の江田島に移転開校となり、江田島が兵学校の代名詞となったのである。以後昭和20年10月20日付けで正式に閉校となるまで、創立以来77年の輝かしい歴史を紡ぐこととなった。卒業生総数1万1187名、うち戦公死4012柱、その95%は太平洋戦争で〝海ゆく屍〟となった。
 昭和25年、米軍によって「警察予備隊幹部教育施設・江田島学校」となり、戦後10年間は米英連合軍の管理下に置かれた兵学校の施設として機能した。昭和31年に日本に返還されたのち横須賀の「海上自衛隊術科学校」が移転。翌年昭和32年、「海上自衛隊幹部候補生学校」が独立開校し、今日に至っている。 (つづく

(写真の一部は『伝統の継承 ~海軍兵学校から幹部候補生学校へ~』から拝借いたしました。)

海上自衛隊幹部候補生学校


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