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2014年3月10日 (月)

江田島・海軍兵学校、海上自衛隊の池太郎校長 その2

海上自衛隊幹部候補生学校

 1月6日午後2時5分前、海軍のしきたり通り「5分前」に到着されたという報告を受け、「さすがだな」と思いながら第一来賓室へ向かった。池太郎氏は岡崎市立葵中学校、愛教大附属高校を経て、昭和54年、防衛大学校に進まれた。27期生として卒業後、海上自衛隊の航空コースを歩まれ、P-3C対潜哨戒機のパイロットを務められた。その後舞鶴地方総監部幕僚長を経て、平成24年(2012年)7月、江田島にある海上自衛隊幹部候補生学校長に就任された。
 こういう表現の仕方が良いかどうか分からないが、対面した池さんは私より少し小柄ではあるが、引き締まった体軀に軍人らしい精悍な雰囲気をまとった方であった。声は大変やさしくも歯切れよく、顔は温和な笑みを浮かべながらも、目はいっときも緊張感を解いていなかった。「武人の顔とはこういうものか」と思いながら、自分より8歳下の現代の海のサムライの顔を拝見していた。
 話題は今の自衛隊がいかに近代的な組織として機能しているか、そしてその中にも兵学校以来の伝統と精神が息づいていることを熱く語られた。

 私も以前訪問した時の思い出話をなつかしくお話させて頂いた。
 英国産の赤レンガで築かれた校舎は今日も健在で手入れも十分ゆき届いている。白い砂利の敷かれた前庭は、今も熊手によって枯山水のような美しい線が引かれている。以前訪問した折に私は「教育参考館」というギリシャ風の立派なつくりの歴史資料館を訪れた。そこには数万点にのぼる貴重な資料と共にネルソン提督(英)、東郷平八郎元帥、山本五十六元帥の遺髪が並べて飾られている。また特攻隊員の遺書と霞ヶ浦に建てられていたという山本元帥の巨大な胸像部が安置されていたのが印象的だった。
 今もなお敷地内には戦艦「陸奥(むつ)」の4番砲塔や特殊潜航艇、戦艦「大和」の2m近い主砲弾などが飾られており、この地の特殊な歴史を今日に伝えている。

岡崎市 東公園

 そういえば戦艦「長門」の副錨と三景艦の主砲弾が岡崎の東公園に展示してあるが、旧海友会の方々にお聞きしてもどうしてそれらが岡崎にあるのか判然としない。どなたかいきさつをご存じの方がいればぜひ教えて頂きたいと思っている。

江田島

 もうひとつこの施設の面白い点は、玄関となっている入口の校門が正門ではなく実は裏門になっているという点である。兵学校あるいは幹部候補生学校の課程を終え無事巣立っていく士官の卵達は、海に面した桟橋から海上の艦船まで小型船で乗り継ぎ卒業、実習遠洋航海に向かうのである。「まあなんとロマンチックなことか」と思うが、かつては帆船により世界一周を1年、今でも155日、6000kmにのぼる航海は最後の仕上げとしてかなりハードなものになるという。よってこの施設の表門・正門は、海に面した、表桟橋なのである。
 かつて、どれだけの青少年達がここから出航することを夢見ていたことかと思い、胸が熱くなる思いがした。(戦時は当然、遠洋航海などはできなかったのである。)

江田島

江田島

 私はアメリカ留学時代、先輩が寮に残していった音楽テープの中の軍歌特集を、勉強中自分を励ますためのBGMとしてよくかけていた。そのため今でも兵学校の校歌である「江田島健児の歌」(正式には愛唱歌)が歌えてしまう。その話をしたところ池さんも笑ってみえた。

 見よ西欧に咲き誇る
 文化の影に憂い有り
 太平洋を顧り見よ
 東亜の空に雲暗し
 今にして我勉めずば
 護国の任を誰(たれ)か負う

 ああ江田島の健男児
 時到りなば雲喚(よ)びて
 天翔け行かん蛟龍の
 地に潜むにも似たるかな
 斃(たお)れて後に已まんとは
 我が真心の叫びなれ

 六番まである歌詞のうち私は上記の二つが特に好きである。
 この面会の後ほどなくして、池さんより人柄を偲ばせる御ていねいな礼状を頂いた。しかしまだ御返事が出せないでいる。できれば本文をもって返礼とさせて頂くことでお許し願いたい。

五省

 なお私の手帳にも書いてある、兵学校のモットーであるこの「五省」は、英訳されてアメリカ海軍でも使われているという。

(写真の一部は『伝統の継承 ~海軍兵学校から幹部候補生学校へ~』から拝借いたしました。)


江田島・海軍兵学校、海上自衛隊の池太郎校長 1 (2014.03.07)

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