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2014年3月

2014年3月29日 (土)

「新しい犬が来ました」

Amie(アミ)

 「愛犬が死んだばかりなのに、2ヶ月ほどでもう新しい犬を飼うのか?」と思われる方もあろうことかと思う。しかし、モノゴトには偶然と出会いという要素がつきものである。愛犬アルが亡くなってひと月ほどして一向に気分が晴れなかったが、先日東公園の施設整備計画検討のため現地視察に出かけることになり、「あにも」(岡崎市動物総合センター)にも立ち寄ることとなった。
 敷地内には数匹の犬と〝あにも犬〟と名付けられた来客応対のできるお行儀の良い犬が飼育されていた。かわいそうなことをする飼い主もいるもので、その中には、吠えてやかましいからと声帯除去手術を施され、挙句の果て町なかを一匹でさまよっているところを保護された犬もいた。もうすでに成犬に育ってしまったような犬もいるので、彼らがこれからどうなるものか少々案じるところではある。

 私の家には先住のネコどもが五匹もいるので、最低限の条件として彼らと共生できるワンコでなくては困るのである。犬の中には猫を追っかけるのが趣味かと思えるような犬もいるがそれではマズイのだ。
 そんな中、目の前に現れたのが今ウチに来ている〝アミちゃん〟である。あにもから来た、子供達にとって3番目の犬ということで、「三(み)」を入れてそう名付けられた。テリア系の雑種で、六ツ美地区のお寺の境内の縁の下で10匹兄弟で発見されたそうである。他の兄弟は人好きのする個体から順番に養子先が決まっていったが、この子だけは異常に憶病で人見知りが激しいためもらい手が決まらなかったそうだ。なにせ、あにもの職員がつけたニックネームからして、ビビりの「ビーちゃん」であった。
 私も、こちらを見ておびえて隠れようとする犬を果たしてどうしたものかと考えはしたが、子供達(もう大人であるが)が気に入ってくれればいいと、判断は彼らにゆだねることにした。
 もともとこうしたことは神の采配と思っている私は、今回も「この犬のメンドウをみてやりなさい」という天のお達しのように受け止めていたのであるが、やはりトライアルのための顔合わせに行った息子がそのまま連れ帰るのを容認する結果となった。

Amie(アミ)

 当初はもっと簡単に考えていたのだが、アミちゃんの場合、まるで心にトラウマを抱えた子供を預かったようなもので、知らない人間に容易に心を開こうとしない。エサを与えてもなでてやっても体を震わせておびえている。毎朝顔を見に挨拶しに行くと、こわごわとこちらを上目づかいに見る。決して歓迎しているふうではない。
 それでも最初の何日か床にマットをひいて毛布にくるまって添い寝をしてやったせいか、唯一、下の息子だけには親近感を見せているようである。犬に嫌われたことのないのが自慢であった私としてはいささか不満であるが、そのうち慣れる時が来るだろうと思いながら、息子と共に一向に警戒心を解かない生後半年ほどの犬のお嬢さんの散歩を始めた今日この頃の私である。

 そしてこのアミちゃんが、いつか私にとっての本当の〝アミ〟(フランス語で「友だち」という意味)になることを願っている。

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2014年3月24日 (月)

安倍昭恵さんの来岡、安倍家の思い出

安倍昭恵さん

 平成26年3月3日(月)、昨年に引き続き、再び安倍昭恵さんを岡崎市にお迎えすることとなった。今回は岡崎の北中学校での講演のための来岡ということで、総理夫人の正式な来訪である。昨夏の友人とお二人でのお忍び訪問の時とは異なり、昨今の世情の中、内閣官房から女性秘書が二人同行し、岡崎警察署から警備がつくことになった。もっともこうしたケースにおいて、今回の方が本来の姿なのである。
 3日の夕刻より、かねてよりの親交の深い「ミャンマーの会」(「ミャンマーの子どもたちに学校をおくる会」と「ミャンマーに消防車をおくる会」)の皆様を中心とする懇親会に、私共夫婦も招かれ同席させて頂くこととなった。

東海愛知新聞 2014年3月4日

 今回の来岡にあたって安倍総理は「なんだ、また岡崎に行くのか」と言ってみえたそうである。確かに私の選挙の折に晋三総裁(当時)が1回、昭恵さんが2回、選挙の前後のものまで入れるとこの2~3年で4~5回の訪問ということになる。
 これは決して私が総理夫人をかどわかして何度も岡崎に足を運ばせているものではなく、これまでブログでお話してきたように様々な人間関係の御縁によるものである。そしてもう一つ、東京や選挙区(山口県)におられる時のような難しい気遣いの必要がなく、岡崎が昔からの友人と「ホッとできる場所」となっているのであれば大変うれしいことであると思っている。

 このところ、週刊誌などで昭恵さんについて家庭内のことまで無責任な中傷記事が出回っているが、これは政治的対抗勢力が安倍総理の高支持率に攻めあぐねて、攻撃する材料としてこうしたプライベートな問題を取り上げてきたものであり、いわば有名税の一つである。
 昨年もブログで記したが、身近で拝見する昭恵さんは、まさに現代ふうの自己の確立した若奥様という感じの方である。物言いも率直でこだわりが無く、本当の良家の子女というのはこうした方ではないかと思わせるさわやかな風をまとった女性である。
 時に素直な物言いが、彼女をよく知らない人間から誤解を受けたり、攻撃の材料として使われたりする元になるのだろうと思っている。またこのところ〝嫁姑問題〟がまことしやかに週刊誌上を面白おかしくにぎわしているが、そんなことは古くからどこの長男の家庭でも大なり小なりあることである。私はジェネレーション・ギャップ(世代意識の差)からくる生活習慣、価値観の違いによる一種の文化摩擦に過ぎないと思っている。

 私の知る総理の母上、安倍晋太郎先生夫人・洋子奥様は知る人ぞ知る賢婦人である。岸信介総理の娘ということばかり言われるものの、御本人そのものも大変な胆力と知力を備えた方である。私が秘書の頃、応対していた地元の支援者が「ダンナ(晋太郎先生)もいいけど、奥様が男じゃったらオヤジ(岸総理)よりスゴイ政治家になったかもしれん」という話を何度も耳にしたことがあった。
 また当時、御本人からも、父上(岸氏)が戦犯として巣鴨に収監されている間、手のひらを返したような世間の風の中で、長女として家族を守るために御苦労された話をうかがった覚えがある。
 一升ビンに入れた玄米を、竹の先に布切れを巻いたものでつつき、自宅で精米を自らされていたそうであるし、ただの苦労知らずのお嬢様ではない。

安倍晋太郎先生

 私個人もこんな思い出がある。
 「年末に先生の自宅で大そうじがあるので手伝ってほしい」と事務所から言われ、当時独身でヒマな私もお手伝いに行くこととなった。ところが事務所から言われた時間より他の秘書は早く到着しており、私が着いた時には大きな荷物は片付いてしまっていた。おまけに、そうじをするのだからとジーパンにバックスキンの皮ジャン姿(しかも途中までレイバンのサングラスをかけていた)で出かけた私に対し、他の秘書は皆背広姿であった。この点が当時の私の意識が世間とズレていた点であるが、そんな見当違いの新参者の秘書に対しても大奥様は全く分け隔てなく接して下さり、帰りにはオミヤゲまで下さった。そのやさしさと心遣いは、今も大変印象深く心に残っている。
 もちろん他人に対する接し方と、跡取りの嫁に対する対応が同質のものであろうはずがない。活発に自分の意志で社会活動を展開する昭恵さんに対して、長州の名門の伝統的価値観を体現する大奥様が時に苦言を呈することがあったとしても、それはしごく当然のことである。
 私は、お二人ともそれぞれの生き方を尊重しつつ、安倍家の伝統を継承していかれる賢さを備えられた女性であると思っているので、この件に関しては全く心配はしていない。

 それよりも困ったことは、昭恵さんがウチの嫁さんに「総理や首長というのは周りがお世辞ばっかり言うものだから、家の中では私達が耳に痛いことを本人に伝えるようにしなければいけないのよ。だからあなたもガンバってネ」などとハッパをかけるものだから、最近ウチの家内の鼻息の荒さには少々閉口することがある。
 安倍総理も、テレビのインタビューの中で「夫婦生活をうまく続けるには、夫の方が妻に全面降伏するに限る」というようなことを述べられていたので、「それが大人の智恵というものか」とは思うが、私はまだとてもそんな境地にはたどりつけていない。
 ついつい「やかましい」とか「黙っていろ」とかいう言葉が先に出てしまう。自分の修行の足りなさを少し反省しているこの頃である。

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2014年3月22日 (土)

『リバ!』2014年4月号

『リバ!』2014年4月号

こんばんは。内田康宏事務所です。

『リバ!』2014年4月号が発行されました。
リバーフロント部会の会員である編集長の浅井寮子さんが、「これからの乙川リバーフロント」と題した文章を執筆されています。また、「乙川リバーフロントアイデアコンコール」で選ばれた絵も掲載されています。市長のコラムは先日の「江田島・海軍兵学校、海上自衛隊の池太郎校長」のダイジェスト版です。
よろしくお願いします!

乙川リバーフロントアイデアコンコール、結果発表!

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2014年3月18日 (火)

「犬が死んじまっただーっ」

アル

 去る1月22日以来、私の頭の中では四十数年前のフォーク・クルセダーズのメガ・ヒット曲「帰ってきたヨッパライ」の替え歌(?)がグルグルと鳴りっ放しである。まさに、「犬が死んでしまった」のである。
 その日の朝、犬のオシッコを済ませてから、いつものごとく役所に出かけたところ、昼過ぎになって、ふだん「ヨメさんより大事な犬」と言っていた犬の死を嫁さんから電話で知らされることとなった。
 前日の晩、籠田公園まで散歩に出かけた時にはけっこう軽やかに歩いていたので、にわかに犬の死を信じることができなかった。ユスったら起き上がってくるのではないかとも思ったが、すでに冷たくなっているとのことであった。死に顔が穏やかであったことが救いだった。
 仕事を終え帰宅し、犬に対面できたのは夜8時過ぎとなっていた。毛布にくるまれて動かない犬を見て、初めて相棒の死を納得した。毎日当たり前のようにシッポを振って送り迎えてくれた友がいなくなったことが、これほど心に大きな空洞をもたらすものであるとは思わなかった。嫁さんは一晩泣き明かしたそうであるが、私はなぜか涙が出ず、かわりに重苦しい喪失感が心の中を占拠するばかりであった。

 段ボールで棺桶をつくり、犬の遺体を整え、花束をたむけながらこの犬と過ごした時間を一人で反芻(はんすう)していた。その後、一人でいつもと同じ散歩道をめぐった。犬の好んだ草や公園の土をひとつまみすくって持ち帰り、お棺の中に収めてやった。
 犬のいない一人だけの散歩道はどうにもやりきれない。なにせ18年間家にいる限り毎日一緒に歩いてきた相棒の死である。ただその習慣も翌日から途絶えることとなった。
 私は散歩をしながらいつも犬に向かって様々なことを語りかけていた。もちろん返事などないが、彼とのそうした一方的な会話の中にかけがえのない癒しの時間があったことに犬がいなくなって初めて気がついた。

 最後の別れを告げるために、夜半に別れの手紙を持って棺桶のフタを開けたところ、言いつけもしなかったのに、家族全員それぞれに別れの手紙が書き入れてあった。
 現在日本にいない長男もアメリカから電話を寄こし、「携帯電話を犬の耳元に寄せてほしい」と言って犬に別れの言葉を告げていた。この犬が家族の一人一人からいかに愛されていた存在であるかが改めて分かるものだ。
 とはいえ、何といっても一番ショックの大きいのは私であり、何日にもわたってなんとなく元気が無く、ボーッとしていることが多くなってしまった。これがペット・ロスの症状かと自ら気がついた。
 嫁さんからは「こんなに女々しい男だったとは思わなかった」とお褒め頂き、娘からは「いい年していつまで引きずっとるの」といたわり(?)の声を掛けられた。唯一、下の息子だけが、自ら製作した犬の写真集に一文を添えたものと30分にまとめた元気な頃の犬の動画DVDを黙って机の上に置いてくれた。

 おかげでこのところなんとか回復してきた。
 彼は亡くなりはしたが、家族や多くの人から惜しまれ愛され一生を終え、家の中で最後の時を迎えることができたのである。
 18年前に処分されていたかもしれない小さな一つの命が与えてくれたたくさんの幸せを思っただけでも、彼の犬としての一生は大きな意義があったと思う。彼はその慈愛を猫達にまで注いでいたのだ。毎日のように鼻先をスリ合わせていた犬の姿が見えなくなってから、五匹の猫共もさすがにおかしいと思ったのか、数日経った頃から順番に犬のいた場所のニオイをかぎ回っているようだった。

アル

 愛犬「アル」が「帰ってきたヨッパライ」の主人公の男のように、突然畑のど真ん中に落ちて来て生き返ることなどはありえないが、せめて彼にとって「天国よいとこ」で「ネーちゃんはきれいだ」といえる所であることを祈るものである。

 こんな文章を書いているとフザけていると思われるかもしれないが、実際は「悲しくて悲しくて、とてもやりきれない」のである。

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2014年3月14日 (金)

握手の難しさ

 握手をするタイミングというのは、実に難しいものである。世の中には「そんなことの何が難しい」とばかりに初めから誰とでも握手のできる御仁もおみえになるが、私は今もって要領を得ない。
 私達のように選挙に携わる業界で生きてゆく者は、相手のことを知っていようがいまいが、誰とでも親しげに握手をするように教育されるものである。ある程度の経験を積めばタイミングをとるコツも会得し、その場に適した対応ができるようになる。

内田康宏

内田康宏

 もちろんそれでも若い頃は恥ずかしさが先に立つ。しかも握手の相手は男性ばかりではない。ふだん女の人とあまり話をする機会もなく過ごしてきた人間が選挙に臨まなければならなくなった時は、まさに始末の悪いこととなる。支援者から「積極的に握手をしろ!」とハッパをかけられ、オズオズと手を差し出せば、相手から怪訝(けげん)な顔をされる。「しまった」と思って手を引っ込めれば、タイミングが遅れて相手の手が出てきたりすることもある。そんなバツの悪い思いを何回も繰り返して、政治生活を送る者は握手の仕様を覚えてゆくのである。

 私も齢(よわい)60を数えることとなり、もはや恥ずかしがる年ではなくなっている。ところが最近こんなことがあった。
 表彰式の式典が終わって、表彰者との集合写真や個別の写真を撮った。その時、1グループの御婦人達に手持ちのカメラで「一緒に写真を撮ってほしい」と言われ、たまたま撮影後話を交わすことになり、「これからもよろしく」と握手をする流れとなった。
 しばらくして舞台から立ち去る時に、「アチラの女の人達が、私達には握手してくれなかったと言っていましたよ」と小声で忠告を受けてしまった。単なる偶然のタイミングの問題に過ぎないのであるが、それでも配慮不足と言われれば、お詫び申し上げたい。

 はたから見れば、誰彼構わず恥ずかしげもなく握手をしているように見える我々政治家だが、本来は握手するにもマナーというものがある。特に相手が女性の場合、西欧的ルールでは相手の女性に握手をする意志の見られない限り、男の方から先に手を出すことはインポライト(無作法)の技となるのである。
 しかし、そんなことを厳密に考えていたらやってられないのがこの仕事である。時に〝流れ作業〟的に握手しているように見えることがあるかもしれないが、「女性よりも、お年寄りや子供を優先して」と気配りをしているのが常である。それでもこうした誤解が生まれてしまうものなのである。

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2014年3月10日 (月)

江田島・海軍兵学校、海上自衛隊の池太郎校長 その2

海上自衛隊幹部候補生学校

 1月6日午後2時5分前、海軍のしきたり通り「5分前」に到着されたという報告を受け、「さすがだな」と思いながら第一来賓室へ向かった。池太郎氏は岡崎市立葵中学校、愛教大附属高校を経て、昭和54年、防衛大学校に進まれた。27期生として卒業後、海上自衛隊の航空コースを歩まれ、P-3C対潜哨戒機のパイロットを務められた。その後舞鶴地方総監部幕僚長を経て、平成24年(2012年)7月、江田島にある海上自衛隊幹部候補生学校長に就任された。
 こういう表現の仕方が良いかどうか分からないが、対面した池さんは私より少し小柄ではあるが、引き締まった体軀に軍人らしい精悍な雰囲気をまとった方であった。声は大変やさしくも歯切れよく、顔は温和な笑みを浮かべながらも、目はいっときも緊張感を解いていなかった。「武人の顔とはこういうものか」と思いながら、自分より8歳下の現代の海のサムライの顔を拝見していた。
 話題は今の自衛隊がいかに近代的な組織として機能しているか、そしてその中にも兵学校以来の伝統と精神が息づいていることを熱く語られた。

 私も以前訪問した時の思い出話をなつかしくお話させて頂いた。
 英国産の赤レンガで築かれた校舎は今日も健在で手入れも十分ゆき届いている。白い砂利の敷かれた前庭は、今も熊手によって枯山水のような美しい線が引かれている。以前訪問した折に私は「教育参考館」というギリシャ風の立派なつくりの歴史資料館を訪れた。そこには数万点にのぼる貴重な資料と共にネルソン提督(英)、東郷平八郎元帥、山本五十六元帥の遺髪が並べて飾られている。また特攻隊員の遺書と霞ヶ浦に建てられていたという山本元帥の巨大な胸像部が安置されていたのが印象的だった。
 今もなお敷地内には戦艦「陸奥(むつ)」の4番砲塔や特殊潜航艇、戦艦「大和」の2m近い主砲弾などが飾られており、この地の特殊な歴史を今日に伝えている。

岡崎市 東公園

 そういえば戦艦「長門」の副錨と三景艦の主砲弾が岡崎の東公園に展示してあるが、旧海友会の方々にお聞きしてもどうしてそれらが岡崎にあるのか判然としない。どなたかいきさつをご存じの方がいればぜひ教えて頂きたいと思っている。

江田島

 もうひとつこの施設の面白い点は、玄関となっている入口の校門が正門ではなく実は裏門になっているという点である。兵学校あるいは幹部候補生学校の課程を終え無事巣立っていく士官の卵達は、海に面した桟橋から海上の艦船まで小型船で乗り継ぎ卒業、実習遠洋航海に向かうのである。「まあなんとロマンチックなことか」と思うが、かつては帆船により世界一周を1年、今でも155日、6000kmにのぼる航海は最後の仕上げとしてかなりハードなものになるという。よってこの施設の表門・正門は、海に面した、表桟橋なのである。
 かつて、どれだけの青少年達がここから出航することを夢見ていたことかと思い、胸が熱くなる思いがした。(戦時は当然、遠洋航海などはできなかったのである。)

江田島

江田島

 私はアメリカ留学時代、先輩が寮に残していった音楽テープの中の軍歌特集を、勉強中自分を励ますためのBGMとしてよくかけていた。そのため今でも兵学校の校歌である「江田島健児の歌」(正式には愛唱歌)が歌えてしまう。その話をしたところ池さんも笑ってみえた。

 見よ西欧に咲き誇る
 文化の影に憂い有り
 太平洋を顧り見よ
 東亜の空に雲暗し
 今にして我勉めずば
 護国の任を誰(たれ)か負う

 ああ江田島の健男児
 時到りなば雲喚(よ)びて
 天翔け行かん蛟龍の
 地に潜むにも似たるかな
 斃(たお)れて後に已まんとは
 我が真心の叫びなれ

 六番まである歌詞のうち私は上記の二つが特に好きである。
 この面会の後ほどなくして、池さんより人柄を偲ばせる御ていねいな礼状を頂いた。しかしまだ御返事が出せないでいる。できれば本文をもって返礼とさせて頂くことでお許し願いたい。

五省

 なお私の手帳にも書いてある、兵学校のモットーであるこの「五省」は、英訳されてアメリカ海軍でも使われているという。

(写真の一部は『伝統の継承 ~海軍兵学校から幹部候補生学校へ~』から拝借いたしました。)


江田島・海軍兵学校、海上自衛隊の池太郎校長 1 (2014.03.07)

日本の国防と安全を支える人々 (2015.04.21)

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2014年3月 7日 (金)

江田島・海軍兵学校、海上自衛隊の池太郎校長 その1

海上自衛隊幹部候補生学校 池太郎校長

 本年1月の早々、すごい来客を迎えることとなった。
「岡崎出身で、海上自衛隊でガンバっている人がいるからぜひ一度会ってほしい」
 ということであったので二つ返事でお引き受けした。
 仕事始めの日である1月6日、海上自衛隊幹部候補生学校の第42代校長、池太郎海将補(昔の少将)が岡崎市役所に来訪された。
 この名称ではピンとこない方もおみえかもしれない。要するに、かつて広島県の江田島にあった海軍兵学校の場所に、戦後、海上自衛隊のリーダー養成のために作られた学校である。確かに現在の自衛隊と旧帝国海軍とでは、その成り立ちもあり方も異なっている。しかし、そこで学ぶ人々の心に流れる精神的伝統、海の国防という職務において共通のものが伺えるのではないかと思っている。
 今回、池さんとお会いすることになったのは、私の大学の先輩でもあるタニザワフーズ社長の谷澤憲良さんの御紹介があったからであるが、正直、私自身お会いするのが楽しみであった。海上自衛隊幹部候補生学校といえば、江田島であり、江田島といえばやはり、かつて世界三大海軍兵学校の一つに数えられた日本海軍兵学校の地である(あとの二つは、アメリカ・アナポリスにある合衆国海軍兵学校と、イギリス・ダートマスにある王立海軍兵学校)。

 ある程度の年輩の日本人男性ならば、一度はあの海軍二種軍装の真っ白な上下制服に錨(いかり)のマークの制帽、腰に短剣姿の服装を身にまとってみたいと思われたことがあると思う。
 戦前・戦中のモノは、その多くが戦後否定され忘れ去られつつあるが、まぎれもなく、こうした学校で培われた伝統及び精神は我々日本人のバックボーンとして今日もこの国を支え続けてきているものと思っている。

the mayor

 以前、広島で国体が行われた折、県議として広島まで出向いたことがある。その時に私は江田島を一人で訪問した。自衛隊の岡崎出張所を通じて訪問の希望を伝えておいたところ、県議一人の訪問にもかかわらず、一佐(昔の大佐)が随行案内役として付いて下さり、大変感激したものである。
 広島県呉市のJR呉駅の近くにある中央桟橋からフェリーで20分ほどの海路の先に江田島(市)はある。途中、水上航行している潜水艦や自衛艦と当たり前のようにすれ違ったりする風景が見られるのも、この地域の独特な風物であると言える。思えば瀬戸内海の呉市近辺の海域は源平合戦終盤の戦場となった場所であり、村上水軍の発祥の地でもある。そして帝国海軍華やかなりし頃は、連合艦隊艦船の一大集積地であったのである。
 今日もなお、そうした歴史的面影を当地でうかがえることに、一人の男として何か心うれしいものを感じる。今でこそ海上自衛隊の幹部候補生養成のための学校となり、時代を反映して女子学生も学ぶ施設となっているが、かつての海軍兵学校はプロのネイビー士官を輩出する男の牙城であった。この学校のOBという方にこれまで何人もお会いしたことがあるが、皆、年はとっても背筋のピンと通ったスマートなおじいさんばかりであった。

江田島・海軍兵学校

 軍人と言うと一見無骨な印象があるが、兵学校では太平洋戦争中であっても英語は必須科目であり、軍艦という近代兵器を動かす必要から理系の学科の能力が重要視される学校であったという。
 もちろん、ただ頭が良いだけでは合格することはできず運動能力も必要とされ文武両道に通じた海の男を育てる学校であった。当時から「東大に入るより難しい」と言われ、陸軍の士官学校と並んで、全国の旧制中学の俊英達がこぞって、憧れ、目標としていた学校でもあった。ウチのオフクロの世代の人の話では、若かりし頃町で兵学校生徒の白服の短剣姿を見かけると遠巻きにキャーキャー言って見ていたそうである。ちょうど今の流行りのSMAPや嵐を見るような気分だったのかもしれない。

 海軍兵学校は元は東京都中央区の中央卸売市場の土地の一角にあった。明治2年(1869年)9月に「海軍操練所」として始まり、翌明治3年より「海軍兵学寮(へいがくりょう)」に改称される。この年に入学した生徒から第一期生と数えられている。第二期生には〝日本海軍育ての親〟と言われる山本権兵衛大将(後首相)がいた。一方、東郷平八郎元帥は開校時すでに23歳であり、イギリスのウースター商船学校で教育を受けている。当時の記録によると東郷青年は「俊英とは言えないが、たいへん生真面目な学生であった」と学籍簿に記してあるという。明治初頭の頃の日本の青年の気負いと木訥さが伺えるような気がする。
 明治政府は海軍兵学寮の開設にあたって、当時世界一の海軍国であったイギリスから教官団を招聘している。当然のことながらイギリス海軍士官流の紳士教育を前提とした教育がなされ、それが後に、「海軍士官は粋で、ナイスで、スマートに」と言われる気風の素地となったのかもしれない。またこの時にイギリスのダグラス少佐の主張により、鉄拳制裁も採用されたということである。鉄拳制裁は日本軍だけのものではなかったのである。イギリス教官団は士官、下士官含め34名で来日し、その教育は教室での座学よりも屋外での実地訓練を中心としたものであったという。以後、日本海軍は英国海軍をお手本として成長していった。
 海軍兵学寮は明治9年に校名を「海軍兵学校」と改称。この頃から繁華になった東京から地方への移転論議が活発となり、明治21年、東京築地から新たに広島の江田島に移転開校となり、江田島が兵学校の代名詞となったのである。以後昭和20年10月20日付けで正式に閉校となるまで、創立以来77年の輝かしい歴史を紡ぐこととなった。卒業生総数1万1187名、うち戦公死4012柱、その95%は太平洋戦争で〝海ゆく屍〟となった。
 昭和25年、米軍によって「警察予備隊幹部教育施設・江田島学校」となり、戦後10年間は米英連合軍の管理下に置かれた兵学校の施設として機能した。昭和31年に日本に返還されたのち横須賀の「海上自衛隊術科学校」が移転。翌年昭和32年、「海上自衛隊幹部候補生学校」が独立開校し、今日に至っている。 (つづく

(写真の一部は『伝統の継承 ~海軍兵学校から幹部候補生学校へ~』から拝借いたしました。)

海上自衛隊幹部候補生学校


江田島・海軍兵学校、海上自衛隊の池太郎校長 2 (2014.03.10)

日本の国防と安全を支える人々 (2015.04.21)

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2014年3月 4日 (火)

ペットとの共生と社会問題

岡崎市動物総合センター あにも

 昭和の時代も終わり頃までは、犬は屋外で飼う動物であった。
 しかし日本の住宅事情と人々の生活様式の変化に伴い、現在では大型犬をマンションで飼っているケースもよく見かける。
 そのように、人間世界に密着して生きるようになった犬猫であるが、その彼らが近年新たな社会問題になっていることを忘れてはならない。まずは古くからあるフン害とノラ猫問題であるが、これは犬猫ではなく飼い主のモラルの問題である。時の流行に左右されて単にかわいいからという理由で子犬や子猫を衝動買いして、飼い切れなくなるとモノのように捨てる無責任な人間がいる。(大体そういう輩の人生は、自らもろくでもないことが起こるものである。)かといって、かわいそうに感じ、無責任にエサを投げ与えるだけというのもこれまた困りものである。結果、不幸な運命を辿る動物が自然増殖することになるのである。
 現在各地で〝地域ネコ対策〟というものが試みられているようである。昨年ブログでお伝えしたように、地域ネコ対策とは具体的には「猫の避妊去勢手術」「捕獲檻による捕獲」「地域の責任において行う公園等での給餌」「猫のフン砂場の設置」などを指す。しかしこれを継続していくためには地域の合意と忍耐と努力と奉仕の心が必要とされ、よほどの覚悟が必要とされる。それよりもその地域の中できちんと飼ってくれる人を見つけることに労力を割く方が、あるいは良いのかもしれない。

岡崎市動物総合センター あにも

 なお岡崎市は平成26年6月から、猫の適性飼育の底上げ及び災害時における対応を容易にするために、市内の獣医師の協力を得て、避妊去勢手術の際における「猫のマイクロチップ埋め込み助成」を導入する予定である。現在は、飼い主のいない猫の問題については地域全体で取り組む「岡崎市ねこの避妊処置モデル事業」を実施している。

 こうした古くて新しい問題に対して、1960年に英国家畜福祉協議会において、健全なる動物福祉思想の普及のために「5フリーダム」(The Five Freedoms)が提唱されている。

1. 飢えと渇きからの自由

2. 不快からの自由

3. 痛み、負傷、病気からの自由

4. 自然な行動をする自由

5. 恐怖や抑圧からの自由

 以上は現在、世界獣医学協会(WVA)における動物福祉の考え方の基本方針となっている。
 こうした考え方のもと、日本の全国各地に動物保護管理センターのような施設(岡崎における「あにも」)ができ、飼い主のない犬猫の保護、管理、処分に当たっているのである。しかし、本来動物は家族の一員としてその一生を面倒みるのが常識である。近年の管理行政の高まりの成果として、年々総数こそ減ってきているものの、依然として毎年全国で16万匹の犬猫が殺処分されている。ここ岡崎においても、毎年犬は30~40頭、猫は300匹あまりが処分されているのである。
 繰り返して言うが、その原因と責任のすべては人間にある。私達はそのことを忘れてはならないと思う。

 ある県では「引き取って処分してくれ」という飼い主に対して、殺処分の現場に立ち会う義務を課すことにより、劇的に処分頭数を減らすことに成功したという。私は愛知県もそうするべきであると思っている。もっとも、売れ残ったペット用の犬猫を悪徳業者が不当処分するケースもあるそうで、課題は尽きない。
 一方で、人間関係がある意味希薄な社会となり、都市部において一人暮らしの方がペットを家族替わりにして生活するケースも増えている。ペットの同伴を認めるお店やレストラン、ホテルや旅館もまた増えている。彼らはもはやペットではなく、家族と同一の存在、コンパニオン・アニマルなのである。

岡崎市動物総合センター あにも

 しかし問題は、それが社会的な認知を得るところまでは行っておらず、当事者の間だけにとどまっている点である。世の中には動物を苦手とする人達もいるのである。それから一人でペットと暮らす場合、もしその人が先に亡くなったらそのペットはどうなるのであろうか? またペットに先に死なれた時のペットロスに対するケアはどうするのか? フン害やノラ猫問題ばかりではなく、私達自身が個人として考え、準備をしておかなくてはならない問題も多様化してきているのである。
 平成24年の時点で、我が国には2000万匹にのぼる犬猫がいて、人間と共に生活している。多頭飼いをしている世帯もあるが、一家5人家族とするとどの家でも犬か猫どちらか一匹はいる勘定になる。
 これ以上ペットが増え、問題が個人の手に余って行政への要求が高まることになれば、ペット税の導入も現実的な話題に上がることになるかもしれないと思うこの頃である。

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