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2013年12月

2013年12月29日 (日)

「公約と政策の実施」について

 民主主義の政治体制にある、あらゆる為政者を悩ませる課題が公約の優先順位というものである。
 私も当選後一年を経過して、準備の整ったものから順番に公約を手がけてきた。予防医学の見地に立ったワクチン接種の推進や、私学の授業料補助はすでに実施している。また、市民の声をお聞きする市民対話集会の開催や目安箱の設置、民間活力を取り入れた政策を推進するための「岡崎活性化本部」の設置なども導入できた。
 先日、12月議会で「小中学校の給食費無料化の公約が進んでいないのでは?」という御指摘を頂いた。この問題については担当部局から現況調査研究中である旨答弁したが、休憩時間に自室に戻った時に、改めて選挙用パンフレットの記述を確認した。

岡崎市長選挙 リーフレット

 写真にもあるように、確かに私は「小中給食の無料化と私学助成の復活と拡大を目ざします」と記している。追記として「教育費の負担軽減ができる策を実現します」とも書いてある。
 昨年市長に就任して間もなく、給食費の無料化について早速担当部局と協議に入ったことを覚えている。就任前に考えていたよりも大きな金額がかかるということと、こうした問題を推進するにあたっては、隣接する自治体への影響に対する考慮も必要であることを伝えられた。
 現在、給食費の無料化を実施している自治体は、小規模の自治体であり、全国でも兵庫県の相生市と北海道の三笠市(小学校のみ)を除けば、比較的軽い財政負担で済む町村でいくつかあるのみである。中核市では群馬県の前橋市が第三子補助を行っている。多くの自治体がなかなか対応できない理由は、高額な出費が継年的に続くことになるからである。仮に岡崎市において無料化を実施した場合、毎年16億円が必要となる。
 軽減措置を行っている県内の自治体は、半額補助は大口町のみで、大治町が月150円の補助、岩倉市は第三子の補助を行っている。これらを岡崎市で実施した場合、半額補助で年間約8億円、月600円補助で約2億2000万円、月150円補助で約5400万円がかかることになる。給食費補助も公約に掲げた一つであることは間違いないのであるから、現在、今期中には何らかの手立てをするつもりで部内検討をしている。ただ、公約の実施順位については、庁内におけるこれまでの政策優先順位のあり方もあるし、何よりも私自身の政策優先順位への考え方もある。

 私は、政策推進のためには、まず税収の向上を企(はか)ることが必要であると考えている。岡崎の豊かさの基盤は「モノづくり」であり、モノづくりを重点政策とすることは今後も変わらない。しかし岡崎を活性化するためには、独自の伝統的文化遺産や川を中心とした自然環境を生かした観光産業について新たな試みをしなければならないと考えている。そうすることによって更に元気で魅力的な町にしたいと思っている。
 具体的には八丁味噌等に加え北のブドウ狩り、南のイチゴに、去年からスタートした「岡崎まぜめん」も加え、伝統産業である石工の技も生かしてゆきたい。またジャズストリートで盛り上がっている「岡崎のジャズ」や、ゆるキャラの雄となった「オカザえもん」や「葵・武将隊」のパフォーマンスもとり入れ、新旧とりまぜた岡崎の魅力を総合的にアピールしたいと考えている。

むらきかんにて 2013年4月13日

岡崎ジャズストリート2013

 現状の税収を割り振りするだけでは、おのずからできることに限界がある。分割するパイの総量自体を大きなものにしようとする発展のある試みこそ今必要であると考える。
 金の卵を生むアヒルや打ち出の小ヅチをお持ちの政党ならいざ知らず、全体を見渡して責任ある政策を行おうという政党ならば、まず財源確保の算段から考えるものである。

 もう一つの公約としてツインブリッジ建設の構想がある。各種会合や講演、HP、ブログなどで私は繰り返しこう述べてきた。
「まだ使える橋を壊してハデな橋を新しく造るということでは決してない。老朽化して危険な状態にあり、構造上の欠陥により水流も妨げられている橋を建て替えるというのである。その場合に併せて岡崎の伝統や文化を尊重した夢のある橋を造りたい」
 何度も言ってきたことだが、未だに「ムダな政策」と言われることがある。ツインブリッジと名付けはしたが、県道に架かる橋の工事主体はあくまで県であり、リバーフロント整備は、国の補助金の対象になる。更に言うならば現在も毎日2~3万台の車が通過しているこの橋の橋脚には写真にあるように一目でそれと分かる大きな亀裂さえ見られるのである(クリックすると拡大します)。

殿橋

 もしこの橋が崩落して大きな被害が出たとしても「ムダな政策」と言えるのであろうか?
 公共の事業は、予算の切り分けや経済政策としてのみ意図されているのではない。美しく豊かな自然景観の中で、市民がくつろぎ、伝統文化に触れる場にするためのものである。そして何より岡崎で生まれ育った子供達がふるさとに愛着を感じ、誇りを持ち、愛郷心を育むものであってほしいと考えている。私はそんな岡崎を市民と共に築き上げてゆきたいと思っている。
 これから10年、20年と経過した折に「あの頃から岡崎は変わったんだよネ」と喜びをもって振り返って頂ける、そんな一年にしたいものである。

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2013年12月27日 (金)

平成25年 仕事納め式

平成25年 仕事納め式

 本日12月27日(金)は岡崎市役所の仕事納めの日でした。午後4時、平成25年の仕事納め式を福祉会館でとり行いました。今日私が話したものをここに掲載します。

 平成25年の仕事納めにあたり、御挨拶申し上げます。
 今年もこうして年末の仕事納めができますのも、日頃の皆さんの御努力・御尽力があってこそと心から感謝申し上げます。
 さて、本市の1年を振り返りますと、夢ある「次の新しい岡崎」の実現に向け、着実に事業を進めることができた1年であったように思います。
 4月1日、公約のひとつである「岡崎活性化本部」が発足しました。民間ならではの知恵や経験、幅広い人脈や企業とのつながりを活かして、アイデアに富む思い切った「まちおこし」を推進いただいています。活性化本部が主催した「岡崎城下 家康公夏まつり」では、6日間の期間中に目標を上回る12万5千人もの方に御来場いただき、大きな成果をあげることができました。

岡崎城下 家康公夏まつり

市民対話集会(2013年11月19日)

 7月25日、市民の皆様の生の声を行政に反映させていくことを目的に「市民対話集会」を開始しました。私自身が直接地域の皆様と対話をさせていただくことで、それぞれの地域の課題や要望など、貴重なお話を伺うことができました。
 8月から10月まで開催された現代アートの国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2013」では、岡崎会場に約8万1千人もの方に御来場いただき、市外からお越しになった多くの方に現代アートを体感していただくとともに、岡崎の魅力を感じていただきました。
 そして岡崎アート広報大臣である「オカザえもん」は、8月の「ご当地キャラ総選挙」では全国2位、11月の「ゆるキャラグランプリ2013」では参加総数1580体の中で22位と大健闘し、岡崎の名を広く全国にPRしていただきました。

あいちトリエンナーレ2013 岡崎会場

オカザえもん

 このように多くの事業が着実にその成果を挙げた1年であったわけですが、一方で残念なこともありました。12月には、本市職員の手当受給に関して、不適切な事例があり、市民の皆様の市役所に対する信頼が大きく損なわれる事態となりました。私たちはこの事態を市役所全体の問題として重く受け止め、信頼回復に努めていく必要があります。職員の皆さんには、年末年始の休暇を利用して、公務に携わる自らの姿勢を真摯に見つめ直す機会を持っていただきたいと思います。再びこのような事態を起こさないよう、管理監督者は自らの行動により率先してその範を示すとともに、部下職員の厳正な指導監督を行っていただき、不適切な事務処理がなされることのないようチェック体制の強化に努めて下さい。市民の皆様からの批判は「期待の裏返し」でもあります。公務員としての誇りを持ち、全職員一丸となってこの事態を乗り越えていく決意であります。

 今年も残りわずかとなりました。この年末年始の休暇中も多数の職員(延べ3,135名)が勤務されると伺っております。大変御苦労をかけますが、よろしくお願いします。
 最後に、全職員が輝かしい新年を迎えられますよう御祈念申し上げ、仕事納めの挨拶といたします。良い年をお迎え下さい。一年間御苦労様でした。

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2013年12月24日 (火)

ラブレターの季節

 ロマンチックな題名をつけたが、そんな話ではない。
 毎年人事の時期が近づいてくると、直接、間接的に様々なルートを通じて色々な要望の声が聞こえてくる。ふつうに上がってくる様々な情報については、それなりに尊重して部内で検討してもらうことにしている。
 ところが、こうした時期になると度々匿名で特定の人物を誹謗中傷した手紙が送付されてくる。昨年も同様であったが、中には本人だけでなく、家族やプライベートな問題にまで中傷が及ぶことがある。注意が必要と思われる事柄については当然確認をしているが、ほとんどの場合ねたみ心から発した悪口に過ぎないことが多い。そういった類いの手紙が届いた時に、担当に「またラブレターをもらったよ」と言って苦笑しながら手渡しているのである。

今年のラブレター

 今年もまたご多分にもれずこうした手紙が秋口から何通か送られてきている。文面からして送り主がどういう人物であるか大体察しはつくが、匿名で自分だけは安全地帯の高みに身を置いて、他者をおとしめようとする心根が卑しい限りである。文句があれば正当な方法で堂々と主張すればいい。私は異論を述べたからというだけでその人物を冷遇したりするつもりはない。結局これらの手紙は、表玄関から持ってこられない程度の内容なのである。
 中には「内容をマスコミに通報する。告訴も辞さない」というような脅迫めいたことを書き送ってくるものまである。私は正当な要求ならば、誰の話でも聞く姿勢でいるが、こうした低劣な手段をとる相手の要求に対しては一顧だにするつもりはない。

 役所には役所のルールやしきたりのようなものもある。基本的にはそうしたものを尊重するつもりでいる。ただ政策の変更、機構改編によって、適材適所の配置にあたっての見解の相違が出るのは避けられないことである。それが自分の気に入らないものだからと言って、匿名で卑劣な文書をばらまくというのはただのワガママであり、大人気ない所業であると思う。
 しかしそうしたことが、子供を教え導くべき立場にある教職者の人事においてさえ見られるというのは一体どういうことであろうか? 私の知っている教職員の方々は皆、教養豊かな常識人ばかりであるが、時にこうした人物が混じっていることがあるようだ。
 何事も頭で考え、頭だけで割り切ろうとしても、世の中はそのようには動かない。また自分の考えだけが唯一絶対と考えることも思い上がりであろう。
 私自身も自分が絶対などと思ったことはない。問われれば、自分の意見を述べるが、それはあくまで個人的見解であり、何事も実施にあたってはできる限り多くの人の意見を承って、その上で決定するようにしている。
 ことに人事の問題はデリケートな要素が多く、そのことはこの一年の経験で十分理解しているのでより慎重を期して臨んでいる。個々の人員配置については本人の希望や適性を基礎にしながら、適材適所という観点に心を配っているつもりである。

 来年3月末の最終決定までに、これからもこうした匿名のラブレターが様々な形で送られてくることになると思うが、どんなに熱烈な文面であろうと、その内容によって私や幹部職員の心が動かされることはないことを御理解頂きたいと思っている。
(最後にひとこと。どのように一方的で無礼な文章であろうと一応全文に目を通していることをここに付け加えておく。)


またも来ましたラブレター (2014.10.04)

怪文書の季節来たる! (2016.07.18)

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2013年12月21日 (土)

『リバ!』2014年1月号

『リバ!』2014年1月号

おはようございます。内田康宏事務所です。
『リバ!』2014年1月号発行のお知らせです。市長のつれづれ連載コラムもこれで二年目に入りました。「オカザえもん騒動 その後」、です。

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2013年12月15日 (日)

「2014 内田康宏をかこむ新春の集い」のお知らせ

「内田康宏をかこむ新春の集い」ご案内

内田康宏事務所からご案内申し上げます。
恒例の「内田康宏をかこむ新春の集い」を、2014年の新春に開催いたします。年初殊のほかご多忙と存じますが、多数の皆様のご参加を謹んでお願い申し上げます。

日時: 2014年2月1日(土) 午後2時
会場: 岡崎中央総合公園 武道館 (岡崎市高隆寺町峠1)
会費: 1,200円

ご不明な点がありましたらお気軽に事務局(0564-21-2030)までお問い合わせ下さい。

内田康宏をかこむ新春の集い(2013年2月2日)

内田康宏をかこむ新春の集い(2013年2月2日)

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2013年12月12日 (木)

アジアの窓から 第3回~第6回

東海愛知新聞

こんばんは。内田康宏事務所です。ホームページを更新しました。
内田康宏のホームページ - アジアの窓から

『アジアの窓から』(1997年1月24日~3月6日、東海愛知新聞)の続きを掲載しました。第3回「行き神様・クマリ」、第4回「シャカ族の末裔?」、第5回「ミャンマーの光と影」、第6回「大東亜戦争に思う」の四編です。
「大東亜戦争に思う」から一部をご紹介します。

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 日本人が他のアジア人に対して優越意識を持つ心理的背景は、日露戦争の勝利以来、敗れこそすれ先の大戦まで欧米列強の白人国と唯一渡り合って来たアジアの国家であるという自負心と、戦後の荒廃から短期間で現在の経済大国を築き上げた自信によるものと思われる。
 しかし、歴史的認識には立場によって異なる見解があるもので、フランスの英雄ナポレオンや太閤秀吉とても、周辺諸国にとっては憎むべき侵略軍の親玉に過ぎない訳である。先の大戦においても、侵攻した日本側にどんな大義名分があったとしても、それを受けた側がどう感じたかによって、行為の意味はまったく違ったものとなる。
 当時は、「五族共和の大東亜共栄圏建設」「新秩序確立」「八紘一宇」など、表向きは植民地解放の聖戦を思わせる美辞麗句が並び、国民もそれを信じ込まされたようである。今、客観的に当時の事実を顧みれば、軍部及び国家の上層部が自国の勢力圏の拡大に主眼を置いていたことは明らかである。後進帝国主義国であった日本が、先進帝国主義国の包囲網による経済封鎖のため「開戦止むなきに至った」という論理は判るが、それは、あくまで帝国主義国同士の事情である。被支配国であったアジア諸国にとっては預かり知らぬ問題である。その点を日本人が理解しない限り、戦争認識の格差の問題は、どこまで行っても擦れ違いのままと思う。

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2013年12月 8日 (日)

エターナル・ゼロ その3(日独の撃墜王たち)

 平成12年(2000年)9月22日、神奈川県厚木基地で行われた米海軍西太平洋艦隊航空司令部50周年記念の祝賀夕食会に、かつての日本海軍航空隊のエース・パイロットの一人として名高い坂井三郎氏は来賓として招かれ、自らの人生について語り、食事を終えた後、体調不良を訴え、帰らぬ人となった(享年84)。
 太平洋戦争が終了してから50年以上の歳月が経過していたのに、なぜかそのニュースを耳にした瞬間、〝零戦の時代〟の終わりを感じた。飛行機としての零戦を生み出した三菱の堀越二郎氏は、その18年前の昭和57年に78歳ですでにこの世を去っていた。生みの親と育ての親(?)が共に亡くなったような気がしたのだ。
 大戦中の有名な零戦搭乗員は他に何人もいる。しかし、戦後その著書『大空のサムライ』によって、零戦という飛行機の存在と活躍を世界中に伝えた坂井氏こそが、育ての親と呼ぶにふさわしい人物だと私は思う。(『大空のサムライ』は外国でもベストセラーとなり、また映画化もされた。)

坂井三郎

 坂井三郎氏は日本海軍航空隊のベスト10に入る撃墜王(エース)であり、中国戦線に始まり、台湾の台南航空隊、南太平洋のラバウル航空隊、そして硫黄島での戦いも含め、目を負傷して本土に送還されてからも戦い続けた。撃墜スコア64機と言われ(日本軍は個人撃墜を認定せず、部隊戦績として記録していた)、アメリカのエース協会(撃墜5機以上)の正規メンバーの一人としても認められている。
 アメリカという国の面白さは、戦争で戦った相手国の人間であっても、勇者と目される人物にはそれなりの敬意を払うという一種のフェア・プレイ精神のある点である。終戦直後、占領軍・GHQ(総司令部)が戦犯被疑者の逮捕と共におこなったことの一つに、各戦地の戦闘の状況分析のための当事者に対する聴き取り調査があった。
 戦後、占領軍から召喚状を受け取った坂井三郎氏は、米軍の迎えのジープに乗せられた時に「銃殺されるかもしれない」と覚悟したそうである。ところが、相手の対応はきわめて紳士的で、各空戦における状況証言を克明に記録されたそうである。それをアメリカ側の記録と照合して、行方不明兵士の戦死確認をするという目的もあった。坂井氏はその後、オミヤゲ付きで自宅まで送り返されている。

 戦後の東京裁判における戦犯認定のあり方や、戦勝国が敗戦国を一方的に裁くという裁判のやり方そのものに異論をお持ちの方もあるだろう(あれは一種の〝国際的政治ショー〟であったという指摘もある)。ただ、戦勝国の敗戦国への対応の仕方が、その国の国家的成熟度、民族的体質や文化的特徴、あるいは宗教的影響、時のリーダーの資質等の要素によって異なるということは御理解頂けると思う。そしてまた、アメリカの対日占領政策の最重要事項が日本の武装解除と日本人の精神的価値観の変換にあったことは忘れてはならないことである。

エーリッヒ・ハルトマン

 日本の撃墜王・坂井三郎氏を記述したついでに、ドイツの例にも触れてみたい。
 第二次大戦中の最高撃墜記録保持者は352機撃墜の独空軍(ルフトヴァッヘ)のエーリッヒ・ハルトマン大尉である。彼は親が飛行機の教官という環境に育ち、若くして操縦桿を握る機会にも恵まれ、超・スーパー・エースの道を歩むことになった。ハルトマンの主戦場はヨーロッパ東部戦線であり、敵機は性能の劣るソ連機であった。また、爆撃機相手のスコアも多く、数字を過小評価する意見もあるが、いずれにせよ一人で352機というのは尋常な数字ではない。後にも先にもこんな記録を残したのは世界で彼ただ一人であり、空前絶後であろう。
 日本やアメリカの撃墜王は30~50機、最高でも100機くらいと言われているのに、ドイツではハルトマンは別格としても200機撃墜以上が15名、100機以上は100人以上も数えられる。一度、本当なのか調べたことがあるが、独軍は個人記録を賞賛して認めていただけにその認定基準も厳しく、二人以上の目撃証言に加え、内陸戦であったために敵機の墜落現場の確認まで行われることがあったという。

ハンス・ヨアヒム・マルセイユ

 同じく独空軍のハンス・ヨアヒム・マルセイユ中尉は西部戦線において、高性能の英米戦闘機を相手に短期間で158機を墜としている。何とそのうち60機はひと月の間に撃墜したという。
 アフリカ戦線における戦車戦の武勲により「砂漠の狐」の異名をもつロンメル将軍も「アフリカでの勝利は、彼の力なしでは考えられない」と激賞している。華々しい活躍と、若くハンサムな容姿に加え、ハデな言動が国民的人気を呼び、「アフリカの星」というニックネームまである(戦後、西ドイツで同名の映画も作られた)。今で言うロック・スターかサッカーの得点王のようなもので、そうした人気を戦意高揚に政治的利用しようとするアドルフ・ヒトラーのお気に入りとなり、何度も勲章を受けている。メッサーシュミットの機体に描かれた〝黄色の14番〟は彼の代名詞となった。マルセイユは新型機のエンジンの不調と脱出時のアクシデントにより、アフリカの砂漠上空であっけない最期を遂げている(享年22)。ドッグファイトにおける旋回中の「見越し射撃の天才」と呼ばれた彼が長く戦い続けることができたなら、ハルトマンの記録に近づいたことだろう。しかし、これが人の運命というものである。

Messerschmitt Bf109

 「見越し射撃」とは、クレー射撃を飛行機に乗りながら行うのに似ている。ちょうど斜め上空に投げたドッジボールが放物線を描いて落ちてくるのを、野球ボールを投げてはじき飛ばすようなものである。現在ドッジボールが位置する所を目がけて投げても当たらない。数秒後の未来位置を予測して、その空間にボールを投げなくては当てることはできないのだ。
 しかも空中戦の場合、飛行機は相手の射弾をかわすために数百キロのスピードで高速旋回して移動している。それを追う側も同様に旋回移動しているわけである。旋回する機体から撃ち出される弾丸には外向きのG(加重)がかかるため、弾は外側に流れて飛んでゆく。ちょうど水が勢いよく出るホースを軽く上下に振れば、水もそり上がる原理と同じことである。そうした誤差を瞬時に読み取り、高速旋回する相手の未来位置を予測し、何もない3Dの空間に射弾を送り敵機を撃破するのである。その瞬間、双方のパイロットの体には、顔もゆがむほどの4Gから5Gの遠心力による負荷がかかっている。中には失神(ブラックアウト)する者もいた。またマルセイユの機動は独特なものであり、編隊を組む僚機でさえ、ついて行けなかったという。
 まさに人間枝を超えた能力であり、マルセイユは若くしてこの技術の達人であったそうである。しかも無駄弾も少なく、出撃の度に弾丸を残して帰還したという。これも一種の天才と言えるだろう。
 一方ハルトマンは撃墜を重ね終戦まで生き残ることができたものの、ソ連軍の捕虜となった。ソ連側はハルトマンを戦犯のように扱い、10年間も抑留されることになった。解放後、彼を待ち続けた愛妻ウルスラのもとに戻れることになるが、相手が英米であればそのような対応はなかったはずである。それはまた、大戦中、愛機の機首に〝黒いチューリップ〟のマークをつけていたハルトマンが、いかにソ連側に怖れられ、重大に考えられていたかの証しと言えるかもしれない。
 先程も記したように、なぜドイツ空軍のエース達の撃墜スコアがこんなに突出して多いのか疑問に思ったものであるが、やはりこれには理由がある。ドイツの戦いが主に内陸部の戦いであり、機体が破壊されてもパラシュートさえあれば脱出して生還する確率も高く、リターン・マッチのチャンスがあったからである。失敗を教訓にして経験を積むことができれば、さらに優れた存在となりえることは何事においても同じである。ハルトマン自身、三回の被撃墜を体験しているが、その都度生還している。
 そしてもう一つ、基地から遠くない戦場ならばそれだけ良いコンディションで戦いに臨むことができる。本人の腕が確かならば、出撃回数に比例して撃墜数も増えていくことになるのである。

 対して、戦場が南太平洋であった日本軍は悲惨である。
 うまく海に不時着しても、そこは外洋性の大型ザメの群生地である。さらに日本人パイロットはパラシュートの装着を潔しとしない考え方があり、身に着けずに出撃する者も多かったという。何より日本側はアメリカほど人命救助に熱心ではなかったし、またその余裕もなかった。
 米軍は各機に食糧や医療品、救命セット付きの小型ゴムボートを常備させていた。生存者がいれば、すぐに双発のカタリナ水上機や潜水艦で救助に向かった。簡単に自爆して果てようとする日本と比べ、この差は大きい。
 また日本の飛行機は、終戦近くまで無線機がほとんど役に立たなかったという。坂井三郎氏などは「役に立たないモノはいらない」と無線機をとりはずして機体を軽くし、アンテナものこぎりで切り落としていたそうである。そのため日本機は手信号を用いたり小型黒板にチョークで字を書いたりして意思の疎通をしていた。真珠湾攻撃の際に信号弾による合図が編隊全体にうまく伝わらず、念のために二発目を撃ったために「奇襲攻撃」の指令が「強襲」となってしまい、雷撃機、爆撃機の攻撃の順番に混乱が生じたことはよく知られている。しかしこのエピソードは、それでも攻撃をそつなくこなした当時の日本海軍航空隊の腕前と練度の高さを裏付ける話でもある。
 アメリカは高性能の無線機によって相互連絡をとりながらチームプレーで零戦に立ち向かっていった(サッチ・ウィーブ戦法)。日本側は、零戦の長い航続距離に頼った長距進攻作戦を継続的におこなった。軍令部(参謀本部)で作戦を立てている秀才達の頭からは、前線で戦っているのが生きた人間であるという配慮が欠落していたのである。無理な作戦を継続しために、パイロットの疲労、消耗は激しく、生き残って帰途についても機上で眠ってしまうことがあった。そうした時にも、降下してゆく仲間の機が海面に激突するまでただ見送ることしかできなかったという。良質の無線機があれば助かった命もあったはずだ。
 そのような劣悪な条件の中で戦い、生き残り、撃墜数100機以上とも言われた西澤広義中尉や、終戦まで生き延びた岩本徹三中尉(本人の日記には202機の記述がある)の存在は驚異的とさえ言える。

  西澤広義 岩本徹三

 我々戦後世代の人間は、実体験としての戦争経験がないため、戦いの記録について新型自動車の性能の比較やプロ野球選手の記録を分析するように語ってしまう傾向があり、少々反省している。

 坂井氏と同様、中国戦線以来の零戦搭乗員であり、数少なくなった生き証人の一人である原田要氏(97歳)が今年の秋、『わが誇りの零戦』という本を著した。原田氏はある日若者の一人から「名機・零戦を駆って大空を飛び回った想い出は、さぞやすがすがしかったでしょうネ」と言われたという。そのとき彼は「重苦しく、嫌な記憶ばかりです」と答えている。また、戦後十年程の間、毎晩空中戦の夢を見てうなされ、叫び声を上げて飛び起きることもあったそうだ。実戦では一度も敵に後ろをつかれたことのない自分が、毎晩夢の中で敵に追われる立場となるのである。(こうしたものを「戦時トラウマ」と呼ぶ。)
 彼に限らず、前線で戦った経験者は自らの体験について一様に口が重いが、原田氏は「生ある限り、自らの体験を後世に伝えていきたい」と語っている。(つづく

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2013年12月 4日 (水)

ツインブリッジ構想・その後

 これまで「次の新しい岡崎」と題して、30回の各種講演会、そして8回の市民対話集会を通じて多くの皆様と話し合いを重ねて来ました。
 ツインブリッジについては、5月頃から「何をやろうとしているのかよく分からない」という声に応えて、仕事の合間に自ら描いた橋のラフ・スケッチを発表しました。これは皆さんの頭にあるイメージをふくらまして頂くために、叩き台として出したものであり、決して最終プランではありません。

 そしてようやくこの度、岡崎市と岡崎活性化本部の共催によって〝乙川リバーフロント・アイデアコンクール〟を行う運びとなりました。
 準備に時間がかかりましたが、市民の皆さんがそれぞれ持っておられる将来の岡崎への夢と希望を知るために絵と作文のコンテストを行うことは、もともと選挙直後から考えていたことでした。これは子供から大人まで、市民の皆様それぞれの乙川の風景や橋に対する思いや考えを表明して頂くものであり、「自分ならこんな橋をつくる」とか「川や河川敷でこんなことができるようにしたい」「川の周りの町並みはこんな雰囲気がいい」といった独自のアイデアを作文やイラストで表現するものであります。その中で優秀なアイデアについては表彰し、今後の整備計画の参考とさせて頂くことも考えています。
 来年の1月17日まで募集を行っていますので、ぜひ多くの市民の皆様の応募をお願いします。また入賞者はもちろん、参加者全員への記念品も用意しております。
 このような機会を通じて、橋や水辺空間の利用、そして岡崎のまちづくりに対して市民の皆さんの御理解と感心が高まることを期待しております。私もツインブリッジの第一プランをただ発表しただけではなく、その後専門家に相談し、建築工学的検証や河川法上の問題も検討して、自分のプランに修正を加えました。殿橋も明代橋も共に県道に架かる橋であるため、県との協働が重要です。また、国の「かわまちづくり支援制度」も使いたいと考えています。

岡崎市 殿橋

 いずれにしても両橋とも築後70~80年を経過しており、それぞれ老朽化が目立っております。ことに殿橋においては、写真のように橋脚の一部には少し離れた所からでもそれと分かる、幅2cm、長さ1mを超える大きな亀裂さえ見られます。この橋を今も一日2万3000台の車が往来しているのです。さらに、現在の河川法では許されない11本もの橋脚があるため、洪水時に上流から流れてくる流木などによって様々な危険も考えられます。

 ツインブリッジの計画は、こうした危険性を考慮して橋を新築する場合に合わせて岡崎の伝統を活かした「石の橋」と橋上公園化した「緑の橋」をつくりたいというものであります。この点をぜひ御理解頂きたいと思います。
 それでは市民の皆様のアイデアにあふれた作文とイラストをお待ちしております。どうぞよろしくお願い致します。
 (クリックすると拡大します。)

乙川リバーフロント・アイデアコンクール

乙川リバーフロント・アイデアコンクール

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