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2013年11月 9日 (土)

エターナル・ゼロ その2(零戦と堀越二郎)

 皇紀2600年(昭和15年)の末尾のゼロをとって「零式艦上戦闘機」と名付けられたことは有名な話であるが、零戦は初期の1・1型に始まり最終の63型まで合計10,425機生産されている。(ちなみに型番の最初の数字は発動機の型、2番目の数字は機体の形状を表している。)
 その一見きゃしゃな飛行機は、スピード、旋回性能、航続距離、戦闘能力、どれをとっても当時世界第一級の万能戦闘機であった。今では当たり前となっているが、時代に先駆けた水滴型(ティアドロップ型)風防と低翼単葉(胴体の下に一枚の翼)で引き込み脚を持つ全金属製のスマートな機体は、当代の他の飛行機と比べるとズバ抜けて美しかった。空を舞う姿はとても戦う飛行機とは思えない。
 当時自動車と言えばT型フォードぐらいしか日本にはなかったが、そんな自動車すら滅多に見たことのない田舎育ちの軍国少年達の心をさぞや釘付けにしたことだろうと思う。まだ塗装が施されていない段階の銀色の姿と、曲線の多い機体のフォルムは、むしろ女性的とすら言える。受ける印象は「レディ・ゼロ」と呼んでもおかしくないほど美しく繊細だ。大工場の流れ作業による大量生産を前提とした、欧米の無骨で精悍な戦闘機の外見とは一線を画している。ちょうど切れ味と美しさのどちらも追求した日本刀と、破壊力と強度を重視した外国の刀剣との違いのようだ。そこには共に日本人独自の美意識とこだわりの集大成のようなものを感じてならない。

スミソニアン航空宇宙博物館にて

 一般に欧米の軍事研究者は、こんな手のかかる飛行機を当時の日本が1万機以上生産したことにとても驚く。もともと設計主任技師であった堀越二郎氏は、初めからこうした飛行機を造ろうとした訳ではない。海軍からの無理難題になんとか応えようと懸命の努力をし、工夫を繰り返した結果、この傑作機が生まれたのである。
 しかし、無理をすれば様々な所にヒズミが出るのは何事も同じことである。軽量化のためあらゆるムダ(余裕)を削り落としたボクサーの体のような機体は、急降下時の機体強度に限界があり、無理をすると空中分解するおそれがあった。また、戦闘能力と航続距離にこだわったために、操縦者を守るべき防弾鋼板や燃料タンクの防御が軽視されることとなり、あたら多くの優秀なパイロットの命を失うこととなった。グラマンのパイロットシートの後方は、厚さ25mmの人型(ひとがた)の鋼鉄板で守られている。零戦にはそんなものはなかった(52型以降はある)。
 機体の造りだけ比べてみても強度の差は否めない。零戦の外板は超々ジュラルミンを使ってはいるが、0.5mmでしかない。その厚さならハサミで切れてしまうだろう。かつてワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館に行った時、グラマンの機体をゲンコツで叩いたところカンカンと音がした。近くにあった零戦は手のひらで触れるとペコンペコンとへこんだことを思い出す。ちょうどドラム缶とコカコーラの空き缶の感触の違いである。
 資源の少ない日本にとって致し方ないことであったとはいえ、こうした人命軽視の対応が戦いの最終的収支決算として、大戦末期の熟練パイロットの不足を招き、若く経験不足なパイロット達による神風特別攻撃隊としての体当たり作戦へとつながって行くのであった。彼ら若いパイロットの力ではもはや、高性能で数の多い敵機相手の空中戦などできない有り様となっていたのだ。
 そうした状況下にあって、本土決戦用に雷電や紫電改などの新型機がようやく開発されてきた。そんな新型機ではなく、使い慣れて性能もよく分かっているせいもあると思うが、「俺が死ぬ時はコイツと一緒だ」と言って零戦に乗って飛び発って行ったというベテラン搭乗員達の意地と心意気は、なんとなく分かるような気がする。

 零戦を美しい飛行機と感じるのは決して私一人の思い込みではなく、真珠湾攻撃に遭遇したアメリカ軍人ですら「その日、ライトグレーのスマートな飛行機が真珠湾上空を乱舞していた」と表現しているくらいである。現在でも世界の航空ショーにおいてデモ飛行が行われると、「ビューティフル!」という言葉が必ず聞けるという。プラモデル飛行機としても、日本はもちろん海外でも売れ筋の一つである。
 アメリカ西海岸にある「プレインズ・オブ・フェイム航空博物館」には、エドワード・マロニー氏が生涯をかけて収集した第二次大戦中の飛行可能な機体が多数保管されている。この博物館の現館長であり、レシプロ機(プロペラ機)によるリノ・エアレースで名を馳せたスティーブ・ヒントン氏は、「ゼロ・ファイターは今でも優れた機体であり、大戦初期においては間違いなく世界一の戦闘機であった」と述べている。事実大戦初期にあって、アメリカ軍は零戦との一対一の空中戦を禁じていたくらいであった。

 この、強く、美しく、遠くまで飛べる飛行機があったからこそ、日本は対米開戦の決断ができたと言える。零戦なしには、真珠湾攻撃も、開戦後の半年間の破竹の勝利もあり得なかったであろう。ましてやラバウルから片道3時間の飛行の末、戦って帰って来るなどというガダルカナル航空戦の作戦計画など、立案すらできなかっただろう。それゆえに『永遠のゼロ』の著者は主人公宮部久蔵の口を通して「私はこの飛行機を作った人を恨みます」と言わせているのである。
 誰よりも生き残ることを望み、部下達に自爆することを戒めていた宮部自身が特攻を志願して終わるという皮肉な結末を迎えるのであるが、その理由は映画か小説あるいはマンガで御確認頂きたいと思う。
 「美しい飛行機を造りたい」という素朴な思いで航空業界に飛び込んだ若き堀越二郎技師の思いとは裏腹に、零戦は数々の栄光と共に、カミカゼの手段に使われるという悲運をまとうことになった。日本海軍の象徴でありながら〝沖縄水上特攻〟に向かわざるを得なかった戦艦大和と同様、今も日本人の心の琴線に触れる存在となっているようである。(つづく

零戦

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