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2013年11月

2013年11月30日 (土)

中核市サミット2013 in 下関

中核市サミット2013 in 下関

 11月7日(木)から8日(金)にかけて、山口県下関市で〝中核市サミット〟が開かれた。このサミットはほぼ毎年この時期に行われ、今回で18回目を数える。岡崎市が中核市に移行したのは平成15年(2003年)4月1日なので、岡崎市はそれからの参加となる。
 一口に「市」と言っても、日本の市は政令によって以下のように分類される。

「政令指定都市」20市――人口50万以上が要件(大阪市、名古屋市など)

「中核市」42市――人口30万以上で市独自の保健所を保有することが要件(豊橋市、豊田市など)(注)

「特例市」40市――人口20万以上が要件(春日井市、一宮市など)

「それ以外」687市――人口5万以上であることが市であることの要件

 全国市長会というものもあるが、都市の規模、成立要件によって各地域の課題も当面の問題も異なるし、とりあえず人口区分で分類しないと議論がかみ合わないため、こうした区分でそれぞれの市長会が活動を行うことになったことと思う。

中核市サミット2013 in 下関

 下関での「中核市サミット2013」には、38の中核市の市長と市議の代表者、随行の職員が出席している。初日には元内閣官房副長官・石原信雄氏の基調講演があり、「環境問題」、「行財政運営」、「防災対策」の三つの分科会に分かれ議論を重ねた。それぞれ各市の掲げる課題、対応、実績について実例をまじえて話を進め、相互に大変実り多いものであったと思う。各分科会での会議後の総会において、今サミットにおける以下三項目の下関宣言を採択した。


  1. 中核市は、地球温暖化対策における国と中核市の役割を明確にしながら、将来世代へ負担を押し付けることのない、持続可能な低炭素社会を実現するための取り組みを推進する(環境問題)
  2. 中核市は、厳しい財政状況下、公共施設を適切に管理運営し、住民サービスを安定的に提供していくため、中核市間の情報交換、情報共有を密にし、課題解決に向けた取り組みを推進する(行財政運営)
  3. 中核市は、自主防災組織の育成、強化に加え、学校教育における防災教育のあり方を考え、地域の自発的、主体的な防災・減災活動への取り組みを促進するとともに、相互連携のもと、災害に強いまちづくりを推進する(防災対策)

 私たち中核市は、諸課題の解決を通じて、中核市の元気アップのみならず、日本全体の活性化に資するため、実効性のある地方分権を目指す先導者としての役割を十分認識し、「行動する中核市」として地域の声を広く発信していくことをここに宣言します。

平成25年11月7日 中核市市長一同


 中核市42市にしぼって共通の課題を議論し、国に対して足並みを揃えて要望していこうというのが中核市サミットの本音であると思うが、実際はそれほど簡単ではない。都市の要件というのは人口や面積だけでは計れない多様な条件で成立している。それぞれの都市でも海岸線に位置するか、内陸部に位置するかでその課題は変わってくる。主要産業が第一次産業(農業、漁業、林業など)か否かによっても違ってくるし、何よりも財政が交付金に依存しているかどうかの差は大きい。ことに最後の要件は、都市間において水と油の関係となることもある。
 ただでさえ都市部の自治体は国税の納付額が高い上に、2007年の福田政権の折、法人事業税の一部国税化がなされた。さらに現政権下では、来年4月の消費税8%化に合わせて、地方の重要な財源である法人住民税も一部国税化しようとの動きもある。
 東京都や愛知県など税収の多い地域は、減収となるわけで、当然、上記の一部国税化については反対である。東京都、神奈川、愛知、大阪の4都府県は総務省に対し廃止の緊急要請書を提出している。
 一方、国から交付金を受ける側の地域の自治体は増収となるわけだから、賛成である。
 ただし、このところの国の予算執行に無駄がないとは言い難い面もある。平成23年度決算では、一般会計7030事業のうち、予算を50%以上消化しなかった事業が1129もあり、1兆1300億円が未執行となっている。ゆえに「そうした未執行の国費から地方格差の是正に充てるべきだ」というのが東京都をはじめとする大都市圏の主張である。平等をとるべきか。公正でゆくべきか。何やら個人の問題にも通ずるところがあるようである。
 しかし議論を聞いていて、豊かな愛知県だからと言われるかもしれないが、「この国はいつから社会主義国になってしまったのだろうか?」と思わないでもなかった。

(注) その後、以下の6つの市が新たに加わり、現在の中核市の数は「48」となりました。
 大阪府枚方市(平成26年4月1日)、埼玉県越谷市(平成27年4月1日)、東京都八王子市(同左)、広島県呉市(平成28年4月1日)、長崎県佐世保市(同左)、青森県八戸市(平成29年1月1日)。

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2013年11月27日 (水)

安倍晋太郎先生墓参

 11月6日(水)、かつて若かりし日に秘書としてお仕えしていた安倍晋太郎先生(現総理の父)の墓参をした。
 晋太郎先生は、私が県議二期目の時、総理の座を目前にして、膵臓がんのため67歳の若さで亡くなられた。平成3年(1991年)5月17日、東京都港区の増上寺で行われた葬儀では、安倍家とかつての同僚秘書の御好意で、棺の先頭を担わせて頂いたことを今も思い出すものである。
 その後、県会議長になった折や市長職に就いてからも「一度墓参を」と思っていたが、なかなか個人的に山口県まで足を運ぶことができなかった。

 今度の墓参のきっかけは、安倍晋三総理と昭恵さんが山口でお墓参りをしている様子をテレビで見た後援会の方からお電話を頂いたことに始まる。東京の安倍事務所と連絡をとったところ、安倍家のお墓は下関ではなく、同じ山口県でも日本海側の長門市にあるとのことだった。簡単に考えていたが、新幹線で名古屋から3時間、在来線で2時間の旅ということになった。
 新幹線の新山口駅から在来線を三度乗り換え、長門市を目指すことになった。在来線と一語で言うも、一車両編成で車掌兼務の運転手が一人きりで、停まる駅は無人駅ばかりであった。乗客はまばらで、地元の高齢者が多く、途中乗車してきた旅行者もまた高齢者のグループであった。学校の下校時に時折学生も乗って来たが、これでは経営の維持は大変なことだろうと思う。車両にはトイレと空調設備だけはあった。
 現地に到着して最初に受けた言葉は、「へーっ電車でおみえになったと。こちらは車社会ですけん」であった。車社会にも色々ある。個人主義のため公共交通機関の利用が進まないアメリカのような所と、まともな移動手段が車しかない車社会とである。

安倍晋太郎先生(昭和54年)

 思えば、私が安倍晋太郎先生の秘書となったのは、今から34年も前のことである。当時26歳で、アメリカ留学から帰ったばかりであり、父の3回目の市長選の直後であった。
 父の友人を通じ、政治評論家の飯島清先生の御紹介で安倍代議士のもとでお世話になることになったのである。
 昭和54年(1979年)春、初めて国会の第一議員会館602号室を訪れた日のことは今もはっきりと覚えている。福田赳夫内閣の内閣官房長官の職を終えたばかりの御本人の面接を受けることとなった。
「政治の世界は水商売と同じで浮き沈みの激しい所であり、今この建物にいる代議士も選挙の度に三分の一は入れ替わる」
 という話や、
「親のカタキと笑って握手ができるようでなくては、この世界では生き残ることはできない」
 というその時の先生の言葉は、まるで将来の私の姿を暗示していたかのような気がしている。

 いずれにしても、そんな経緯で始まった安倍家との御縁であるが、私が国政選挙を失敗したあとの最初の県議選の折には、自民党の総務会長であった晋太郎先生の応援を頂いた。また、晋三秘書官(当時)にも決起大会をはじめ、3回も岡崎まで駆けつけて頂いた。ましてや昨年の市長選には、晋三総裁、昭恵夫人のお二人で都合3回応援に来て頂いているわけで、私にとって安倍家は足を向けられない存在である。

安倍晋太郎先生のお墓

安倍晋太郎先生のお墓

 初めて訪れる長門市は緑豊かな地方都市という風情であった。かつての連合艦隊旗艦であった戦艦「長門(ながと)」の艦名となった町にしては穏やかな町並みである。長門市の安倍事務所は駅の近くにありすぐ見つかったが、安倍家のお墓はタクシーで30分程の郊外の山の中腹にあった。名家のお墓とはこうしたものかと思わせる程大きく、立派な墓石であった。ゆるやかなカーブの石段を登った奥にあるお墓は小公園程の面積がある。周囲の敷地まで含めると1000平方メートルはありそうであり、観光名所となっても十分対応できそうである。
 長年の御無沙汰をお詫びしながら、丁重にお墓参りをし、記帳所で記帳をおこなった(個人の墓でも事務棟と記帳所があるのである)。現地では、秘書の篠原勝己さんと共に後援会の緑風会の会長の小野弘子さん達からお迎えを頂いた。「安倍先生も喜んでおみえだと思いますよ」と言われた時、やっと義務を果たすことができ、ホッとした気持ちがした。

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2013年11月23日 (土)

岡崎市議会 平成25年11月臨時会

岡崎市議会 平成25年11月臨時会

 11月15日(金)に開かれた臨時会において、岡崎市議会役員人事が決まりました。
 議長は新海正春さん(会派:無所属、以前は自民清風会)が2期目を務めることとなりました。副議長には竹下寅生さん(会派:民政クラブ)が選出されました。竹下さんは就任と同時に無所属となりました。
 そして「空き家等対策検討特別委員会」と「バイオマス調査検討特別委員会」と「病院経営検討特別委員会」の3つの特別委員会が新たに設けられました。議会ではこのように時事の問題に的確に対応できるように毎年委員会の編成替えを行っております。

 今回の臨時会で決まった主な役員人事は以下のとおりです。(敬称略)

議長 新海正春 (無所属)
副議長 竹下寅生 (無所属)
監査委員 畔柳敏彦 (公明党)
監査委員 野村康治 (自民清風会)
総務企画委員長 吉口二郎 (自民清風会)
福祉病院委員長 山崎泰信 (自民清風会)
環境教育委員長 加藤学 (民政クラブ)
経済建設委員長 神谷寿広 (自民清風会)
議会運営委員長 柴田泉 (自民清風会)
空き家等対策検討特別委員長 加藤義幸 (自民清風会)
バイオマス調査検討特別委員長 原田範次 (民政クラブ)
病院経営検討特別委員長 簗瀬太 (自民清風会)

  (→昨年の臨時会はこちら

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2013年11月20日 (水)

『リバ!』2013年12月号

岡崎市長選挙(2012年10月21日)

内田康宏事務所からお知らせです。
『リバ!』12月号が本日発行されました。今回の市長のコラムは、「市長就任、満一年に思う」です(当選確定と同時に就任しましたので、投開票日にあたる10月21日で満一年を迎えました)。よろしくお願い申し上げます。

<発行誌のお問い合わせ先>
株式会社リバーシブル
岡崎市康生通南3-20 ステージビルⅡ 3F
TEL. 0564-21-0684

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2013年11月17日 (日)

「地域・買い物バス・むらさき号」始まる

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 11月13日より地域自主事業のモデルケースとして、藤川学区の福祉委員会が事業主体となり、〝買い物バス〟事業が始まりました。
 これは本市の「地域福祉計画」に基づき、地域団体と行政が協力して、地域住民の生活に役立つ事業を行って、より良いまちづくりを目指すものです。
 〝買い物バス〟とは、毎月2回、午前9時半から11時半頃にかけ、藤川学区内10数ヶ所の乗り場をマイクロバスで巡回しながら利用者の方が買い物などを楽しめるサービスです。藤川駅に隣接する「道の駅・藤川宿」、蓑川新町の「マグフーズ美合店」、「ドミー美合店」などを巡回し、1時間ほどの買い物をした後、再び同じ経路を反転して地元に帰って来るというものです。
 高齢で自動車の運転のできない方、一人暮らしで不便をきたしている方で、介護なしで行動可能な皆さんを対象としています(介護を要する方々には、別途ヘルパー事業があります)。ドミー、マグフーズ、道の駅などで様々な買い物をし、喫茶店でおくつろぎ頂くこともできます。中には薬屋(Vドラッグ)や100円均一ショップもありますので、それぞれの目的に合った時間を過ごして頂けます。

 今回藤川でこの事業が実施に至ったのは、富士観光のマイクロ・バスが他の仕事で出動する関係でこの業務の兼務が可能となり、安い費用で請け負って頂けるためであります。
 御参加希望の方は事前に電話予約(080-9691-6833)が必要で、片道100円、往復200円の運賃がかかります。
 藤川学区福祉委員会では、当面月2回ほど運行し(第2・第4水曜日)、来年度は毎週1回実施したいと考えているそうです。御年配の皆さんの利用が予想されますので、しばらくは各町役員が交代で添乗同行します。また、①出発時間の厳守、②積み残し予防(点呼)、③別行動(片道のみ)される方の確認、などについて御本人の御協力も必要となります。
 藤川における買い物バス事業は、今年度は福祉委員会の自主財源で運行されますが、来年度は市民協働事業として実施を予定していると聞いています。今後各地の状況を見て独自の支援策を検討したいと考えています。御要望のある学区は、各学区の福祉委員会を通じて岡崎市福祉総務課(23-6851)まで御連絡頂ければ幸いです。
 多様化する現代社会において行政だけでは成し得ない公共サービスを、行政と地域の市民活動団体が協力して住民に提供しようというものが地域福祉であり、「市民協働事業」であります。今回の藤川の買い物バス事業はその一つであり、他にも市民の皆様からの多種多様な活動アイデアを期待しております。
 何はともあれ買い物バス事業の成功を祈ります。

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(バスの側面につける磁石式のプレートです)

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2013年11月15日 (金)

第8回市民対話集会(2013.11.30)のお知らせ

岡崎市役所福祉会館

先月台風接近のため延期になった、井田・広幡・連尺学区の市民対話集会の日程が決まりました。

第8回 市民対話集会
日時: 平成25年11月30日(土) 午前10時~11時30分
会場: 岡崎市役所福祉会館6階ホール
対象: 井田学区、広幡学区、連尺学区の住民の皆様

上記対話集会は通常と異なり、平日ではなく、土曜日に行います。対象学区をうたってはおりますが、お時間があれば、学区外の方もお気軽にご参加下さい。よろしくお願い申し上げます。

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2013年11月13日 (水)

第7回市民対話集会(2013.11.19)のお知らせ

ぬかた会館(岡崎市樫山町)

豊富・夏山・宮崎・形埜・下山学区にお住まいの方々を対象として、来週、7回目の市民対話集会を行います(延期になった10月25日の分は回数から省きました)。ご都合よろしければ会場までぜひ足をお運び下さい。事前のお申し込みは不要です。

第7回 市民対話集会
日時: 平成25年11月19日(火) 午後7時~8時30分(開場は午後6時30分)
会場: ぬかた会館2階
対象: 豊富・夏山・宮崎・形埜・下山学区の住民の皆様

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2013年11月 9日 (土)

エターナル・ゼロ その2(零戦と堀越二郎)

 皇紀2600年(昭和15年)の末尾のゼロをとって「零式艦上戦闘機」と名付けられたことは有名な話であるが、零戦は初期の1・1型に始まり最終の63型まで合計10,425機生産されている。(ちなみに型番の最初の数字は発動機の型、2番目の数字は機体の形状を表している。)
 その一見きゃしゃな飛行機は、スピード、旋回性能、航続距離、戦闘能力、どれをとっても当時世界第一級の万能戦闘機であった。今では当たり前となっているが、時代に先駆けた水滴型(ティアドロップ型)風防と低翼単葉(胴体の下に一枚の翼)で引き込み脚を持つ全金属製のスマートな機体は、当代の他の飛行機と比べるとズバ抜けて美しかった。空を舞う姿はとても戦う飛行機とは思えない。
 当時自動車と言えばT型フォードぐらいしか日本にはなかったが、そんな自動車すら滅多に見たことのない田舎育ちの軍国少年達の心をさぞや釘付けにしたことだろうと思う。まだ塗装が施されていない段階の銀色の姿と、曲線の多い機体のフォルムは、むしろ女性的とすら言える。受ける印象は「レディ・ゼロ」と呼んでもおかしくないほど美しく繊細だ。大工場の流れ作業による大量生産を前提とした、欧米の無骨で精悍な戦闘機の外見とは一線を画している。ちょうど切れ味と美しさのどちらも追求した日本刀と、破壊力と強度を重視した外国の刀剣との違いのようだ。そこには共に日本人独自の美意識とこだわりの集大成のようなものを感じてならない。

スミソニアン航空宇宙博物館にて

 一般に欧米の軍事研究者は、こんな手のかかる飛行機を当時の日本が1万機以上生産したことにとても驚く。もともと設計主任技師であった堀越二郎氏は、初めからこうした飛行機を造ろうとした訳ではない。海軍からの無理難題になんとか応えようと懸命の努力をし、工夫を繰り返した結果、この傑作機が生まれたのである。
 しかし、無理をすれば様々な所にヒズミが出るのは何事も同じことである。軽量化のためあらゆるムダ(余裕)を削り落としたボクサーの体のような機体は、急降下時の機体強度に限界があり、無理をすると空中分解するおそれがあった。また、戦闘能力と航続距離にこだわったために、操縦者を守るべき防弾鋼板や燃料タンクの防御が軽視されることとなり、あたら多くの優秀なパイロットの命を失うこととなった。グラマンのパイロットシートの後方は、厚さ25mmの人型(ひとがた)の鋼鉄板で守られている。零戦にはそんなものはなかった(52型以降はある)。
 機体の造りだけ比べてみても強度の差は否めない。零戦の外板は超々ジュラルミンを使ってはいるが、0.5mmでしかない。その厚さならハサミで切れてしまうだろう。かつてワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館に行った時、グラマンの機体をゲンコツで叩いたところカンカンと音がした。近くにあった零戦は手のひらで触れるとペコンペコンとへこんだことを思い出す。ちょうどドラム缶とコカコーラの空き缶の感触の違いである。
 資源の少ない日本にとって致し方ないことであったとはいえ、こうした人命軽視の対応が戦いの最終的収支決算として、大戦末期の熟練パイロットの不足を招き、若く経験不足なパイロット達による神風特別攻撃隊としての体当たり作戦へとつながって行くのであった。彼ら若いパイロットの力ではもはや、高性能で数の多い敵機相手の空中戦などできない有り様となっていたのだ。
 そうした状況下にあって、本土決戦用に雷電や紫電改などの新型機がようやく開発されてきた。そんな新型機ではなく、使い慣れて性能もよく分かっているせいもあると思うが、「俺が死ぬ時はコイツと一緒だ」と言って零戦に乗って飛び発って行ったというベテラン搭乗員達の意地と心意気は、なんとなく分かるような気がする。

 零戦を美しい飛行機と感じるのは決して私一人の思い込みではなく、真珠湾攻撃に遭遇したアメリカ軍人ですら「その日、ライトグレーのスマートな飛行機が真珠湾上空を乱舞していた」と表現しているくらいである。現在でも世界の航空ショーにおいてデモ飛行が行われると、「ビューティフル!」という言葉が必ず聞けるという。プラモデル飛行機としても、日本はもちろん海外でも売れ筋の一つである。
 アメリカ西海岸にある「プレインズ・オブ・フェイム航空博物館」には、エドワード・マロニー氏が生涯をかけて収集した第二次大戦中の飛行可能な機体が多数保管されている。この博物館の現館長であり、レシプロ機(プロペラ機)によるリノ・エアレースで名を馳せたスティーブ・ヒントン氏は、「ゼロ・ファイターは今でも優れた機体であり、大戦初期においては間違いなく世界一の戦闘機であった」と述べている。事実大戦初期にあって、アメリカ軍は零戦との一対一の空中戦を禁じていたくらいであった。

 この、強く、美しく、遠くまで飛べる飛行機があったからこそ、日本は対米開戦の決断ができたと言える。零戦なしには、真珠湾攻撃も、開戦後の半年間の破竹の勝利もあり得なかったであろう。ましてやラバウルから片道3時間の飛行の末、戦って帰って来るなどというガダルカナル航空戦の作戦計画など、立案すらできなかっただろう。それゆえに『永遠のゼロ』の著者は主人公宮部久蔵の口を通して「私はこの飛行機を作った人を恨みます」と言わせているのである。
 誰よりも生き残ることを望み、部下達に自爆することを戒めていた宮部自身が特攻を志願して終わるという皮肉な結末を迎えるのであるが、その理由は映画か小説あるいはマンガで御確認頂きたいと思う。
 「美しい飛行機を造りたい」という素朴な思いで航空業界に飛び込んだ若き堀越二郎技師の思いとは裏腹に、零戦は数々の栄光と共に、カミカゼの手段に使われるという悲運をまとうことになった。日本海軍の象徴でありながら〝沖縄水上特攻〟に向かわざるを得なかった戦艦大和と同様、今も日本人の心の琴線に触れる存在となっているようである。(つづく

零戦

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2013年11月 6日 (水)

第6回市民対話集会(2013.11.11)のお知らせ

六ツ美市民センター(岡崎市下青野町)

公約に掲げておりました市民の皆様との対話集会を、来週行います。今回は、六ツ美南部学区、六ツ美中部学区にお住まいの方々を対象としております。ご都合よろしければぜひご来場下さい。事前のお申し込みは不要です。先回延期となりました井田・広幡・連尺学区対象の対話集会の日程は、後日発表します。

第6回 市民対話集会
日時: 平成25年11月11日(月) 午後7時~8時30分(開場は午後6時30分)
会場: 六ツ美市民センター体育集会室
対象: 六ツ美南部学区、六ツ美中部学区の住民の皆様

岡崎市役所HP 市長公室広報課 - 市民対話集会
(過去の会議録および後日回答の資料が閲覧できます。)

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2013年11月 3日 (日)

「てんかくん」がやってきた!

てんかくん、東海愛知新聞社・長坂和男社長

 10月22日(火)、市長就任式から満一周年を迎えた本日、天下君が市役所を訪問した。本当はひらがなで「てんかくん」と書くのだそうである。
 3年前に東海愛知新聞の創立65周年のイメージ・キャラクターとして登場。すでに新聞の4コマ・マンガなどでお馴染みのてんかくんであるが、バッジや着ぐるみ姿が現れたのはほんの最近のことである。

 後発のオカザえもんや味噌崎城に知名度で大きく水をあけられた感はあるが、ようやく満を持した形で19日の「岡崎ストーンフェア」の会場でデビューすることとなった。頭と体がほぼ同じ一等身の体型をどのように着ぐるみ化するのかと思っていたが、マンガのイメージを忠実に再現しており、ゆるキャラとしての市民一般の抵抗感はオカザえもんの時のようなことはないようであった。ただ形状から見て、中に入る人は大変そうである。足の長さが20cmくらいしかないため移動には苦労するだろう。成型の材料は浮き輪と同じようなビニール製らしい。着色はきれいに仕上がっているが、常時小型の換気扇によって空気を送り込まないとしぼんでしまうし、第一、そうしないと中の人が呼吸困難に陥る。
 本来のイメージのままかわいらしい外見だが、オカザえもん同様話もできず、筆談すらできないので通訳係がいつも必要となる。設定は竹千代が元服して、松平元康になった時の初陣の出で立ちとのことである。今更、浜松の「出世大名家康くん」と張り合ったとしてもかなわないと思うが、東海愛知新聞社の長坂社長によれば、「地元における地域キャラクターとして今後活躍の場を求めたい」とのことであった。11月2日、3日の「岡崎ジャズストリート2013」にも参加するという。
 着ぐるみはイラストと異なり、カブトの真ん中に「岡崎」の文字が記されている。かえってこの方が全体に締まった印象があって良いと思われる。
 正直言って、てんかくんが天下を取ることは難しいと思うが、てんかくんにはてんかくんらしく岡崎のPR役を担ってもらいたいものと考えている。

てんかくん

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