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2013年7月

2013年7月31日 (水)

カナディアン・カヌーによる乙川視察

岡崎城下・家康公夏まつり カヌー体験

 7月28日(日)は、私にとって約50年振りの乙川水面への帰還の日となった。花火を打ち上げる祭り船に氏子の一人として乗船したことはあるが、カヌーで乙川を渡るのは初めてである。
 私が小学生の頃(昭和30年代)、乙川の殿橋とお城の近くに「ちどり」と「フカミ」という名の貸しボート屋さんがあった。当時は岡崎に愛知教育大学があったこともあって、未来の先生方のカップルが乗るボートで随分流行っていた記憶がある。そうしたボートに混じって、私共ワンパク坊主達は、小づかいを出し合って集めたお金でボートに乗っていたのである。確かその頃は200~300円で1~2時間借りられた。同級生の親が貸しボート屋でもあり、少しはおまけしてもらってもいた。
 そんなことで、私の仲間達は小学生の分際であったが、全員ボートを漕ぐことができた。川辺の探険もしながらのボート遊びは、ちょっとした海賊気分を味わうことができた。ボートの可動水域は、明代橋から殿橋、お城の南側辺りまでであり、名鉄の鉄橋より下流に行くと注意されたものだ。あの頃水面(みなも)から見た町の風景は、子供心にしっかり焼きついている。河川敷は今のようにきれいに整地されておらず、デコボコの丘陵地が続き、その間には四つ程の池があり、フナなどがけっこう釣れていた。
 ボートで川を下ってゆくと、水鳥がエサをもらいに寄ってきたり、青大将が川を横切って泳ぐのを見たこともあった。ある時直径30cmくらいの甲羅の亀を捕らえ、家に持って帰ったものの飼うこともできず、再び川に返しに行った覚えがある。沈む夕陽をゆったりと川面に映していたあの頃の乙川は、間違いなく私達の母なる川であった。

 時の移り変わりと共に河川整備が進み、貸しボート屋は消え、コンクリート製の護岸は子供達を川から引き離す役割を果たしてきた。日本のことなかれ行政の象徴のような「良い子は川では遊ばない!!」の看板の通り、少しでも危険なことは一切やらせないというつまらない世の中になってきたような気がする。そうしたことが逆に自ら危機対応のできない人間を増やしてきているのだと思う。

 今回のカヌーは、「岡崎活性化本部」の白井さんの音頭取りのもと、岡崎カヌー協会の皆さんのご協力を頂いて実現した。お城の西の伊賀川から8艇ほどのカヌーとカヤックに分乗して出発したが、なぜそこから出発なのかはよく分からない。
 私が試乗したのは、二人乗りのカナディアン・カヌーであった。当初、議長と一緒に、より安全性のある三人乗りに乗る予定であったのだが、私が「当方、海系のスポーツには、いささか腕に覚えあり」と大口を叩いたせいで二人乗りに昇格させてもらえたようである。
 自分で言うのも何であるが、ヨットには高校時代から親しんでいるし、大学生の頃は8mくらいの高さの崖の上から当たり前のように海に飛び込んでいた。潜水は子供の頃から得意で、学生の頃はスキンダイビングで深さ8m、2分くらいは大丈夫だった。モーターボートの運転も水上スキーもできる。カヌーやサーフィンも遊びで経験している。(軍隊があったら、絶対に海軍に行く口である。)
 伊賀川から乙川に出た私達は軽快に川下へと向かった。川辺に繁茂する緑が、両岸から我々をやさしく包み込む。とても市街地を流れる川沿いの風景とは思えない、こんなに素晴らしい景観が長いこと放っておかれていたことが全く信じられない思いである。河川使用を全くの自由にする訳にもいかないとは思うが、季節や時間を決め、安全管理のルールも定めて、カヌーの練習くらいできるようにしてもいいのではないかと思う。そうすれば近隣の高校にカヌーのクラブが出来るかもしれない。ついでに貸しボートもぜひ復活させたいものである。

岡崎城下・家康公夏まつり カヌー体験

 ふだん川の水位はもう少し低いのであるが、8月3日の花火大会のため現在は深めの設定に水が貯められている。右手に八帖クリーンセンターの白い建物を眺めると、その先には乙川の水位の調節弁の役割を果たしている乙川頭首工が見えてくる。ここまで来た記念の写真を皆で船を寄せて撮り、川上へと向かう。
 久し振りに船と水に触れることができてゴキゲンな私であった。初乗りの二人乗りカヌーは、水面をすべるように快適に進んでくれた。やがて、左手のお城と共に、前方に殿橋が視界に入ってきた。こういう風景をバックにして、潜水橋の上あたりからカメラで撮ってほしいものである。

岡崎城下・家康公夏まつり カヌー体験

岡崎城下・家康公夏まつり カヌー体験

 まもなく下船となるので、殿橋を背景に一枚写真を撮ろうと船の位置を変えた。その時、一瞬の油断で船が転覆してしまった。ヨットの場合センターボードがあるので、あの程度の傾きで転覆などしないものだが、艇位を変える時に二人そろって腰を浮かしたためバランスを崩すことになった。よりによって、接岸して下船する直前、新聞社のカメラが待ち構えているところへ、まさにウケをねらったヤラセのように転覆したのである。カナディアン・カヌーは一度中に水が入ると簡単に復元しないこともわかった。
 しょうがないので背泳ぎで岸へ向かった。久し振りの水遊びが、今年の初泳ぎになるとは思わなかった。
 岸辺に上がると、カメラの放列と共にカメラマンのうれしそうな顔が並んでいた。

岡崎城下・家康公夏まつり カヌー体験

 夕方5時15分からは「岡崎城下・家康公夏まつり」のセレモニーがある。着替えるために一旦家に帰り、出直すことになった。
 7月28日から8月2日までの6日間、民間主導の夏まつりが開催される。岡崎ではこれから歴史遺産を活かした観光のまちづくりに向けて、各種事業が展開されることになるが、その先駆けとしてのこの夏祭りをぜひ楽しいものにしたいと思っている。

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カヌー試乗とミライの水 (2015.08.24)

乙川の清流にて想う (2014.08.17)

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2013年7月30日 (火)

おかざきコウエンナーレ2013開幕

おかざきコウエンナーレ2013開幕

 岡崎公園イベントサミット、「おかざきコウエンナーレ2013」がいよいよ7月27日(土)から始まりました。これは8月10日から開幕する「あいちトリエンナーレ2013」に連動して岡崎公園で開催される行事であります。
 会期のはじめには、「岡崎城下・家康公夏まつり」や花火大会、会期末には秋の市民まつりや岡崎ジャズストリートが開催されます。そのほかにも「岡崎ジャズメッセンジャーズwithオカザえもん」のパフォーマンスショー、グレート家康公「葵」武将隊の演武、岡崎城・家康館の企画展、水木しげるの「妖怪道五十三次」、東隅櫓(ひがしすみやぐら)や能楽堂でのジャズイベントなど、岡崎公園内で開催される様々な催し物を集約した、7月27日から11月3日までの100日間にわたるイベントサミットであります。これらの催しを通じて、岡崎の文化、歴史、観光など岡崎の魅力を全国に情報発信して参りたいと思います。この機に多くの皆様方にお越し頂き、現代アート鑑賞と同時に岡崎公園をはじめ岡崎のまちを歩いて、歴史や景観をはじめとする、本市の素晴らしさを味わって頂きたいと思っております。
 その間できれば市民の皆様ひとりひとりが、岡崎の観光案内人になったつもりでご協力頂ければこれに勝る力はないと考えます。どうぞよろしくお願いいたします。

岡崎城下・家康公夏まつり

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2013年7月29日 (月)

平成25年度 岡崎市平和祈念式

平成25年度岡崎市平和祈念式

 7月19日(金)、岡崎市民会館のホールで「岡崎市平和祈念式」が開催されました。以下は、国歌斉唱と黙とうの後に私が述べた式辞です。

 戦没者ご遺族の皆様、市民の皆様ならびにご来賓の皆様方におかれましては、ご多忙の中、本日の岡崎市平和祈念式へのご参列を賜り、心から御礼申し上げます。
 第二次世界大戦の終戦から68年の歳月が過ぎ、往時を直接知る世代が数少なくなる今日ですが、多くの方々が戦争の犠牲となり亡くなったことを決して忘れてはなりません。
 ここに、日清・日露戦争から先の大戦において、祖国の安泰を願い、家族を案じつつ戦場に散った方々、そして終戦間近い昭和20年7月20日未明の岡崎空襲による犠牲者など、本市における戦没者および戦災死者に対して、謹んで哀悼の意を表します。最愛の肉親亡きあと、幾多の苦難を乗り越えて来られたご遺族のご心労を察するとき、痛恨の情を禁じ得ません。
 東日本大震災の発生から2年5ヶ月が経とうとしています。この震災による死亡者、行方不明者は1万8千人を超えております。ここに、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
 昨今、東日本大震災のみならず、世界各地において大きな震災が発生し、多くの方々が被災しています。東海地方では南海トラフ巨大地震が発生した場合には、従来の想定をはるかに上回る甚大な被害が予想されます。
 去る7月1日の市制施行97周年記念式の席上におきまして、「ゆかりのまち」の神奈川県茅ヶ崎市、長野県佐久市、岐阜県関ケ原町と、「災害時相互応援協定」を締結いたしました。この相互協定は、東日本大震災において自治体間の相互支援が注目されたことを受け、地震等の災害対策の一環として結んだものであります。

 さて本市は、先人のたゆまぬご努力により、今日では人口も37万8千人を超え中核市として順調な発展を遂げております。昨年10月に市長に就任して以来、わたくしも「次の新しい岡崎」に向けて議会ならびに市民の皆様のご意見を生かし、数多くの施策を着実に進めているところです。
 この4月には「岡崎活性化本部」を発足させ、活気あるまちづくりの取り組みを開始しました。7月28日からは、「岡崎城下・家康公夏まつり」が花火大会の行われる8月3日の前日まで開かれます。この新しいイベントが市内外に向けて岡崎の魅力を存分にアピールすることを期待しております。
 次に「ツインブリッジ計画・リバーフロント構想」です。これは、乙川に架かる殿橋と明代橋を岡崎の新しいシンボルとなる橋として整備し、観光都市岡崎をつくるための第一歩となる計画です。先日は市民の皆様に議論して頂くたたき台として、私の考えを提示させて頂きました。

 このように、今日我々が平和で安心した市民生活を送れるのは、ひとえに戦争によって心ならずも命を落とされた方々の犠牲の上に成り立っているものと思います。悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、平和の尊さを次の世代に語り継いで行き、二度とこうした悲劇を起こさないことが私たちに課せられた責務であります。時は移り変わりましても、過去を謙虚に振り返りつつ、未来に向かって進んで行かなければなりません。「平和祈念式」も遺族の皆様だけでなく広く一般市民の皆様にも参加して頂けるように名称を変更して3年目となりました。37万8千人市民の皆様とともに戦争や災害のない平和な日本を築くため、決意を新たにするところでございます。

 戦没者および戦災死者の御霊(みたま)の安らかならんこと、ご遺族の皆様のご健勝、そしてご列席の皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げ、式辞といたします。

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2013年7月28日 (日)

オイル・ロードを行く 第5回~第7回

『オイル・ロードを行く』 第5回~第7回

内田康宏事務所からお知らせ申し上げます。
ホームページを更新しました。『オイル・ロードを行く』(東海愛知新聞、2000年1月19日~3月4日連載)の続きをUPしました。
内田康宏ホームページ - オイル・ロードを行く

第5回「ロレンスとアタチュルク」、第6回「クウェートの霰(あられ)」、第7回「湾岸戦争の爪痕」の三編です。「ロレンスとアタチュルク」から一部を抜粋します。

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 今日、中東において問題となっている事柄の多くは当時、中東における利権を巡って西欧列強が謀略を策したことに始まっている。第一次大戦前、アラブ人たちは中東におけるオスマン・トルコの長期支配に不満を持ちながら、アラブ人同士の部族間対立のため効果的な抵抗運動を展開することができなかった。国家という理念を理解しない、そうした放牧の民の前に現れたのがロレンスであった。当初、英国陸軍の情報部に配属されていたロレンスであったが、アラブ人の運動に関わるに連れ、本来の任務よりもアラブ人の抵抗運動そのものにのめり込んで行ったようだ。
 ロレンスの著書『知恵の七柱』によれば、彼は戦いに臨んでアラブの衣装を身にまとい、銃弾と白刃の中を先頭に立って敵陣に突撃して行ったという。決して口舌の徒ではなかったのである。ロレンスは度重なる戦闘のため、体中に数十カ所の負傷を受けている。それらの事実が、アラブ人の彼に対する絶対の信頼と英雄視を生むことになる。
 ロレンスのアラブに対する献身とは裏腹に、本国イギリスは帝国主義的野心に基づいて駒を進めていた。当初イギリスは、ドイツ、トルコとの戦争に勝利するため欧米のユダヤ人財閥の資金援助を得るべく、ユダヤ国家再建を唱えていた(バルフォア宣言)。同時に、中東からトルコを駆逐するために、アラブ人に対しても同様の独立国家建設の約束をした(マクマホンの約束)。その中で、一つしかないパレスチナの地をユダヤとアラブの双方に与えるという二枚舌外交をしたことが今日の混乱の発端である。
 おまけに、フランスとはトルコ帝国崩壊後の中東を両国で分割する「サイクス・ピコ協約」を結んでいた。はじめからユダヤやアラブとの約束を守る気などなかったのだろう。これが、今日もきれいごとを並べながら対外交渉をおこなっている西欧の本性である点を再認識すべきである。

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2013年7月23日 (火)

第84回 都市対抗野球大会

始球式。オカザえもんと私

 この度、三菱自動車岡崎・野球チームが都市対抗野球大会に4年振り、9回目の出場の栄誉に輝くこととなった。7月15日(月)がその第一試合目である。出場が決定してから、初日には市長として始球式と応援の挨拶に行く約束となっており、朝から上京した。
 まさかこの私が、この歳になって、東京ドームのマウンドに立つことになろうとは思ってもいなかった。おまけに今回が東京ドームへの初めての入場でもある。後楽園時代においても最後に訪れたのは38年も前。大学四年生の秋の、長嶋茂雄氏の引退試合の時のことである。大学のゼミを終えてから、友達と中日・巨人戦のダブル・ヘッダーの第二試合を観に行ったのである。(その年、中日ドラゴンズは20年振り、二度目の優勝!)
 当時は、私が応援に行った試合でほとんど負けた記憶がない。それが最近は全く逆で、私がテレビをつけた途端、勝っていたゲームまで逆転されることが多い。もちろんそんなことは私のせいではないし、4年振りの都市対抗出場に向けて、奇跡の(?)三連勝で決めた地元代表チームに影響など無いと信じている。
 いずれにせよ、地域や会社が一つになれる、こうしたスポーツ大会あるいはチームを持てるということは素晴らしいことである。人は理屈だけではなかなか一つにまとまることはできない。同じチームを応援するという、心情的同一感の喚起によって、立場を超えて一つになれるというのがスポーツの良い所かもしれない。

 三菱自動車岡崎は、2001年の大会では決勝まで進み、惜しくも敗れはしたが白獅子旗(準優勝)を獲得している。今回は、王子製紙や日本生命などの強豪チームが負けるという番狂わせもあり、伸び盛りの若手を擁する三菱自動車岡崎にとってチャンスとも言える。
 分かったようなことを書いてはいるが、私は都市対抗野球の応援に来たのもこれが初めてである。この大会の歴史は古く、第一回大会は昭和2年(1927年)に神宮球場で始まり、大戦中の中止をはさんで今日まで続いている。昭和13年(1938年)から新設の後楽園に会場が移り、昭和24年(1949年)の第20回大会より日本社会人野球協会が主催者に加わり、毎日新聞社との共催となった。優勝チームには黒獅子旗が授与されることになっている。なぜ優勝が黒で、二位が白、三位が黄なのかはっきり分からないがデザインは同一である。また各地区予選で優勝し、第一代表となったチームには青獅子旗が与えられるという。これも色やデザインの由来については分からない。
 今年、全国各地区の予選を勝ち抜いて来た32チームが、7月12日から23日まで勝ち抜き戦を行う。いわば実業団の甲子園ともいえる。この大会で活躍した選手は、毎年プロ野球のドラフト候補に名を連ねることになる。高校や大学で今一歩だった選手が、実業団に入って大きく花開くことがあるのも楽しみの一つである。

 その日私は新幹線で上京し、東京駅で昼食をとり、早々にドーム入りした。自分が試合に出るわけでもないのに、何となくソワソワして落ち着かない。通路で三菱自動車工業本社の益子社長にお会いして御挨拶をし、選手控え室に向かった。もちろん、こんな所まで入るのも初めてだ。
 上着を脱いでユニフォームに着替え、ズック靴と野球帽姿になる。若い頃ならもう少し似合ったことだろうが、鏡に映った我が姿は「馬子にも衣装」とは言えないようである。その後ダッグアウトに入れてもらい、選手のウォーミングアップ終了後、監督と選手に挨拶をする。応援のオカザえもんと写真に収まり、全員で一塁側グランドに整列し、観客にお礼の挨拶をする。チームのメンバーと共に記念撮影をした後、名前を呼ばれマウンドに向かう。

第84回 都市対抗野球大会

 慣れないことはどうもうまくいかない。「プレイボール」と言われるものの、どのタイミングで投げていいのかよく分からなかった。緊張の内に投じたボールは、ワンバウンドするも一応キャッチャーミットに収まった。暴投にならずによかったが、投球後、体勢が崩れて転びそうになった。
 我々は、いつもテレビの画面を見ながら勝手なことを言っているが、18mの距離から時速140キロ前後のボールを全力で投げて、上下左右に変化をさせてコントロールするというのはスゴイことだと改めて思った。石のように硬い硬球を使って軽快にプレーをする野球選手という人達は、我々とは違う人種のような気がする。

第84回 都市対抗野球大会

 試合は、大阪府門真市のパナソニック(松下電器)チームを相手に一進一退の攻防が続いた。互いに塁は埋めるものの決定打が出ない。三菱の打球は、いい当たりであっても野手の正面をついたり、ファールとなってしまう。試合にはツキも必要なのである。残念ながら、3回裏にエラーがらみで2点を奪われ、そのまま3対0で初戦敗退となった。
 今回、私の他、新海議長はじめ有志の市議会議員、神明太鼓の「響」(ひびき)の皆さんや葵武将隊の面々、そしてオカザえもんも応援にかけつけていたが、そうした人々の思いも実ることはなかった。
 しかし、三菱のチームは先ほど述べたように若手が多い。この経験を貴重な糧として、ぜひ来年以降、捲土重来を期してもらいたいものである。

第84回 都市対抗野球大会

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2013年7月22日 (月)

『リバ!』2013年8月号

『リバ!』2013年8月号

内田康宏事務所からお知らせ申し上げます。

『リバ!』8月号の表紙は、リバーシブルさんのマスコットキャラクター・味噌崎城と、オカザえもんのお二人です。
市長のコラムは「グライダー試乗体験記」です。
「あいちトリエンナーレ2013」の特集が組まれていますので、ぜひ一度お手にとってみて下さい。

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2013年7月18日 (木)

親善都市・福山市へ その2(ばら祭)

広島県福山市訪問

 前夜の晩餐会では各友好都市の代表の皆さんと同様にお上品に挨拶を済ませ、翌日に控える「ばら祭」と「ローズ・パレード」のために夜更かしをせず早く眠ることにした。
 2日目は昼からのパレードの前にもう一つ仕事があった。ばら祭の展示会場において、切りばらコンテストの審査をしなくてはならないのである。そこで岡崎市長賞のばらを選ぶのが私のお役目である。
 その結果を述べる前に、福山市とばらの関係について少し説明をしておこうと思う。

 福山市は、先の大戦の米軍による空襲によって市街地の8割を消失している。戦後、「荒廃した街に潤いを与え、人々の心に和らぎを取り戻そう」と市民の有志の手によって、昭和31年(1956年)にばらの苗1000本が植え付けられた。この結果、昭和43年(1968年)には「全国美しい町づくり賞」の最優秀賞を受賞することとなった。昭和60年(1985年)には市の花にも制定され、ばらを通して培った思いやりの心(ローズマインド)は「100万本のばらのまち福山」づくり運動となって推進され、今日に至っているのだそうである。ばらと言えばお隣の西尾市もばらが市の花である。「市の花がバラなんてロマンチックでいいな」と思う一方、私はばらと聞くともう一つ思い出すことがある。

 大学生の頃、神田の本屋で難しい漢字のシャレた装丁の本を何気なく手にとった。その時の「薔薇族」という名の本の印象が強すぎて、ばらというと今もそちらを連想してしまうのである。(ただし私はそちらの気はありませんので、念のため。)そう言えば、本の表紙の絵を描いていた内藤ルネさんというイラストレーターは岡崎出身であったと記憶している。筋肉質で痩身の青年が半ズボン姿で一輪のばらを持ち、横顔で立っている絵が今でも思い出される。

第46回福山ばら祭

 話を元に戻すと、当初私は最終選考に残った5つの作品の中から岡崎市長賞を選ぶということで、一番大柄な花をつけていた白バラを選ぶつもりでいたのだが、隣から「こいつは肥料のやり過ぎだ」というつぶやきが耳に入り、近くの赤いバラを選択してしまった。後で同行の太田副議長も、岡崎市議会議長賞に赤バラを推したことを知り、そんなことなら白バラにしておけばよかったと思ったものである。こんなことで審査は決まるのであるから、選に漏れた方はあまりガッカリしないで下さいと言いたい。

葵武将隊 2013年5月19日

 市民まつりの会場に出かけてみると、今日もいました葵武将隊。前回の茅ヶ崎市のお祭りの時と同様、彼らの積極性とガンバリには頭が下がるが、武将隊は二人ではちょいと迫力不足な気がする(この日は水野勝成と稲姫の二人だった)。せっかく演武までさせるならば、三人以上でないと様(さま)にならないだろう。この点もう少し岡崎市としても考えなくてはならないと思う。
 昼食後、ばら公園のバラを横目で見ながら出発地点まで向かう。私は「天気男」でいつも通しているが、調子に乗ってそのことをブログに書いてから雨が続いている。これで二連敗だ。やはり、そういうことを文章にするとジンクスも途切れるのかもしれない。雨空を見上げながら少々責任を感じた。

福山市 ローズ・パレード

第46回福山ばら祭

 パレードはオープン・カーをやめて、バスで行うことになったが、少々の雨ならばオープン・カーの方が良かったと思う。途中から雨が上がっただけにこの点は残念であった。しかし、そんな天候にもかかわらず、ミッキーマウス・パレードや「ブルガリア共和国バラの女王」の登場もあって、沿道は人で埋め尽くされていた。いかにローズ・パレードがこの町の人々に愛されている催しであるかが分かる。
 パレード終了後、ばら公園内にある前岡崎市長が友好の印に送った「なかよしの像」を見に行った。よく目立つ所に配置されていたが、贈呈者名と説明が裏に彫ってあるため何のモニュメントだかよく分からない。そのせいか、隣に福山市の御配慮で白の解説板が立てられていた。これも雰囲気になじめず興醒めの感があった。
 茅ヶ崎市に贈呈された「なかよしの像」の前面下に贈呈市長名と説明が彫ってあった意味がこの時ようやく分かった。モノゴトは何でも現場に行って見ないと分からないものである。

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2013年7月15日 (月)

親善都市・福山市へ その1(鞆の浦)

広島県福山市訪問

 「第46回福山ばら祭」が5月18日(土)、19日(日)、広島県福山市で開催された。5月以来の度重なる県外での会議や6月議会への準備のため、記述が2ヶ月も遅れてしまったが、親善都市である福山市を訪問した時のことを報告しておこうと思う。
 今年は茅ヶ崎市、佐久市との「ゆかりのまち30周年」と2月の石垣島新空港の開港に加え、親善都市42周年を迎える福山市への訪問により、関ケ原町をのぞくすべての友好関係にある都市への新市長としてのご挨拶が済むこととなる。岡崎市の代表として各地を訪問させて頂いて、改めて首長としての職責の重さを再認識させられた気がする。

 広島県の福山市と愛知の岡崎市がどの様な縁で結ばれているかと言えば、古く江戸時代の初期に遡ることとなる。徳川家康公のいとこにあたる刈谷の水野勝成公が初代の福山城の城主として福山の地に移封されたことによるのである。そうした古い機縁のもとに、昭和46年(1971年)11月9日、奇しくも私の父親が市長の折に、岡崎市と福山市が親善都市の提携を結ぶこととなった。両市は、城下町として栄えたことだけを共通の歴史に持つものではない。先の大戦において戦禍に見舞われながら、両県の中核市に成長したことも、共通点として挙げられる。更に市制施行日も同じ大正5年(1916年)7月1日であり、3年後には市制100周年の大きな節目を迎えることになる。
 現在、岡崎東公園の動物園にいる象の「ふじ子」は、福山から岡崎への友好の印として岡崎に寄贈されたものである。象を送って頂いたことには大変感謝をしているが、一匹だけで生活しているふじ子の姿は見る度に哀れでならない。ふじ子のおかげで多くの岡崎の子供達が身近に象を見られる機会を得られたことは喜ばしいことであるが、これからの動物飼育の原則としては、「群れで生活する動物は、多頭飼いをする」べきであって、できなければ飼うべきではないと思っている。

 今回福山へは岡崎市だけでなく、親善友好提携5周年を迎える米国ハワイ州マウイ郡の郡長ならびに訪問団一行、韓国・浦項(ぽはん)市の訪問団の皆さんも招かれていた。
 当日は福山到着後、夜の歓迎会まで時間があったため、福山市の御好意に甘えて、瀬戸内海国立公園の景勝地として名高い鞆の浦(とものうら)へ足を運ぶことにした。県議の時にこの地を訪れたことがあったが、今回は観光ボランティアとして有名な宮本和香(かずこ)さんという御婦人の案内によりこの地を訪れることとなった。おまけに役所の随員も宮本さんである。
 市内から14km南にある沼隅半島に向かう経路には、芦田川という大きな川とそこにかかるいくつもの橋があり、そんな風景にも岡崎との共通性を感じさせられる。夏にはこの川沿いで花火大会が催されるそうだ。
 鞆の浦は瀬戸内海国立公園を代表する景勝地であり、穏やかな瀬戸の海には、弁天、仙酔など小粋な名前の島々が浮かんでいる。
 最初に訪れたのは、福禅寺という寺の境内にある「対潮廊」(たいちょうろう)という江戸時代(1690年代)に建てられた客殿だった。前にも来たことがあるが、今回は天気もよく座敷からの眺望は素晴らしかった。以前NHKの番組が、この地を訪れた朝鮮通信使の一行がここから海を臨む景観に心を打たれ、「日東第一形勝」(日本一の景勝の地)の書を残したことを紹介していたが、まさにその通りの美しさであった。
 少し前、このあたりの海に橋を架けるの架けないので、地元と県の間で大モメしたと聞くが、その計画は鞆の浦の景観に直接かかわるものではなかったようだ。「地元生活の利便性の向上のためには橋が必要」という声と「美しい自然景観を守れ」という声がせめぎ合っていたそうだ。いずれにせよ、今は橋の建設計画は取り止めとなっている。こうした問題はいずこも同じである。

広島県福山市訪問

 漁村から発展してきたという町並みを眺めながら散策をしたとき、このあたりの風景をどこかで見たことがあることに気がついた。私はご承知のとおり映画マニアであるが、アニメもけっこう好きである。スタジオ・ジブリの『崖の上のポニョ』というアニメ映画に出てくるポニョという女の子が小さい頃のウチの娘によく似ていたため、ついついDVDを買ってしまった。お店の若いニイちゃんが「このオジさん本当にコレ買うの?」という顔で一瞥(いちべつ)したことを今も覚えている。
 何が言いたいかというと、このアニメに出てくる町や海岸線の風景が鞆の浦の一帯とほんとによく似ているのである。私の気のせいかと思っていたら、ある街角のウィンドウの中に、ポニョの人形と手作りの島の造形が飾られていた。地元の人に話を聞いたところ、宮崎駿氏はあのアニメを製作する前に、構想を固めるためにこの地で3ヶ月程逗留していたことが分かった。案外私の勘も捨てたものではないと思った。
 宮崎氏が毎日コーヒーを飲みに来ていたというひなびた喫茶店に入ったとき、私としては珍しく、目にとまった販売用のコーヒーカップを衝動買いしてしまった。後で箱を見たらメイド・イン・ギフであったが、現在このカップは役所で愛用している。(つづく

福山市とポニョ

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2013年7月12日 (金)

中学生と語る「未来の岡崎」Ⅱ ―城北中学―

 先回の南中学に続き、6月14日(金)、城北中学において2回目の「次の新しい岡崎」についての講演をさせて頂きました。
 若い人と話す楽しさは、彼らが素直で率直なモノ言いをしてくれる点であると思います。大人は変な遠慮をしたり、余計な思惑が邪魔して本音を言わないことがあります。また思想的違い(モノ事の考え方の違い)から、自分と異なった考えを理解しようとせず、相手を攻撃し、誹謗中傷すること(悪口を言うこと)に生きがいを見出しているかわいそうな人達もいます。こうした大人達との対話は、しないよりした方がいいとは思いますが、時に、おこなったというだけであまり実りのあるものとならないこともあります。
 思ったことを率直に述べてくれる若い人との対話は、一般の人の本音を推し量る意味でも大変参考になります。
 城北中は私にとって母校であり、私が初代校長の鈴村正弘先生のスパルタ教育時代の卒業生であるせいか、もう何十年も経っているのに、この学校の正門をくぐるたび、なぜか今もって体が緊張感に包まれます。

2013年6月14日 岡崎市立城北中学校

 また今回も講演後ほどなくして生徒さん達からの感想文集を頂き、大変参考になり、また心温まる思いがしました。ページをめくる度に個々の生徒の岡崎への思いが伝わってくるような気がしました。こうした機会を与えて下さった皆様に改めて心から感謝申し上げます。

 しかし今回もまた、言葉の難しさということを痛感しました。初代校長のモットーが「勉強だけできてもダメだ、スポーツだけでもダメだ、両方できなくてはダメだ」というものであったため、「昔の城北中の伝統は?」という問いに対しその言葉を返したところ、どうやら私自身がそう思っていると受け取った生徒さんがたくさんいたようです。
 私の考えとしては、初代校長はそういう高い目標を掲げてみえましたが、実際に「文武両道に秀でる」ということは誰しも簡単なことではなく、それはあくまで努力目標であると言いたかったのです。「人にはそれぞれ個性や特徴があり、そうしたものを活かした生き方を模索してもらいたい」というのが私の真意であります。それに我々の時代の常識やモットーを数十年後の現代にとりあげても、それは時代錯誤(時代に合わないこと)となってしまうことでしょう。これからはもっと丁寧なモノ言いをしなくてはいけないと反省しております。

 講演後の質疑応答は、城北中の生真面目な伝統のせいか事前に伝えられた通りの政策的な質問が主であり、おおむね好意的なものでしたが、中には、「ツインブリッジやリバーフロントのような計画では名古屋に勝てない」という厳しいご意見も頂きました。全校生徒のそろったあのような場で、堂々と異論を述べた後輩の勇気と着眼点に頼もしいものを感じたものです。
 しかし私としては、初めから名古屋と競争するつもりなど無く、ただ岡崎を中核市にふさわしい町にしたいと思い、あの計画を発表したのです。そもそも名古屋は230万都市であり、政令指定都市で、かつ県庁所在地であります。岡崎は中核市とはいえ人口38万。予算規模は名古屋は愛知県の半分近くもあり、大体毎年、岡崎市の約5倍です。岡崎が競争する相手としては大きすぎると思います。
 またついでに言えば、名古屋市長の政策には、「尾張名古屋共和国構想」のように一都市ですべての施設を保持しようとするのではなく、尾張地域全体で施設計画や運営を考えて、共有できるものは共同使用して利用率も上げるという合理的なものもあります。しかし、中にはあまり賛成しかねるものもあります。
 例えば「名古屋城・木造化計画」です。コンクリート造りとは言え、空調も効いたあの美しいお城を壊してまでやろうとする意味が私は分かりません。まだ耐用年数も耐震強度も大丈夫ですし、お城の解体費用だけで数十億円はかかるでしょう。これから木造で本格的に造るとすれば数百億円の建設費を要しますし、本格的にやればやるほど、資材の調達が大変ですし、何より建築基準法をどうやってクリアーするかも問題です。今まではエレベーターで上階まで上がれた高齢者や身障者、幼児も簡単には登城できなくなるでしょう。「はたして、そんなモノを大金をかけてまで造る必要があるのか?」というのが外から見ている私の意見です。大都市名古屋ですから、やる気になればできるでしょうし、寄付金も期待できるし、人も集まると思いますが、一度木造にした場合、維持管理の方も大変なお金がかかります。姫路城のように本物の歴史的遺産でもないのに、木造であるがゆえに定期補修費用もバカにならない額となるでしょう。あえて実施するならば、天守閣の最上階のみ木造化するとか、内装を木質化するという方法も考えられますが、将来市民の重荷にならないことを祈るばかりです。いずれにしても、それを選択するのは名古屋の市民です。
 私としては、名古屋には東京や大阪、横浜に負けない都市づくりを目指してもらいたいと思っています。

 では岡崎は何を目指すべきか? 岡崎が目指すべきは人口38万都市の身の丈(たけ)に合った都市づくり、施設整備であると考えます。そして近未来の50万都市・岡崎を念願に置いた各市域の実情に合った都市計画を立てることが必要であると考えます。そのために将来は、次のような事業が不可欠になってくると思っています。
(1)愛環鉄道と名鉄本線が交差する場所に総合駅としての「岡崎中央駅」(セントラル・ステーション)を建設する
(2)岡崎城を中核とする岡崎公園の周辺を、史実に基づいて城郭公園化する
 もちろんこれは私一代でできることではありません。それともう一つ、新東名高速道の開通を考慮したまちづくりも重要なポイントであります。
 そして講演でも申し上げましたが、岡崎には他の都市にはない歴史的価値の高い文化遺産がたくさんありながら、質実剛健の土地柄のゆえ、観光政策というものが派手で浮かれたイメージとしてとらえられ、今日まであまり重要視されてきませんでした。もともと実利的な「モノづくり」を重視してきた地域性もあり、今も自動車、機械産業がこの地域の中核であり、大きな成果も出ていることもあって観光産業育成に対する熱意は高まらなかったものと推測しております(そのためこれまで大きなホテルが市内にできなかったのです)。
 もちろん、現在の岡崎の豊かさの源泉は「モノづくり」にある訳ですから、それをおろそかにはできません。これからもこの岡崎の産業特性である「モノづくり」にはしっかり力を込めて参ります。
 しかし、岡崎各地にたくさんある徳川にまつわる歴史遺産をはじめ、古くからの歴史文化遺産を、まちづくりや新しい経済の柱として活用しない手はないと思います。このままでは宝の持ちぐされです。そうした新たな経済の柱となる「観光おかざき」づくりに向けての第一歩が今回、私の提唱する「ツインブリッジ計画」であり、国の「かわまちづくり推進事業」に連動した「リバーフロント構想」であります。時々「歴史観光などくだらない」という御意見の方とお会いすることがありますが、ほとんどの場合、岡崎の歴史や伝統、文化、地域的特性を十分理解されていない方が多いようです。

 よその都市の成功例をマネしても、必ずしも岡崎に適しているとは限りません。岡崎市の特性、置かれている情況を踏まえ、市民の要請や投資効果も考慮に入れた上で、岡崎の持ち味を活かしたまちづくりを考えることが大切だと考えます。
 そのための最大のキーポイントが「川」であります。市域を分断する川を、市民生活を豊かにするための空間として十二分に活用することが必要であります。それを「新しい岡崎」への第一歩として、次の段階へ進んでゆくべきと考えます。
 こうした私の提案は、あくまで一つの基本プランにすぎません。これから岡崎活性化本部の専門家の皆さんも含め、多くの方々のアイデアを結集させて、より良い実施プランへ高めて参りたいと思っております。どうぞ積極的に御意見や計画案をお寄せ頂くことをお願い申し上げます。

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2013年7月 6日 (土)

悠紀の里・オープン

悠紀の里

 六ツ美地域の長年の願いであった、地域交流センター・六ツ美分館「悠紀の里」(ゆきのさと)が6月9日にオープンを迎えた。この事業は、六ツ美地域の住民の意向を受け、平成21年(2009年)から岡崎市が整備計画をすすめてきたものである。
 今回完成したのは、第一期の歴史民俗資料室としての部分である。ここでは長く農業を生活基盤としてきた六ツ美地域の独自の伝統、文化と歴史についての展示がなされている。来年度には、第二期としてホールや活動室を備えた地域交流ゾーンが隣接地に建設される運びとなっている。
 歴史民俗資料室では、市指定の無形民俗文化財としての「大嘗祭悠紀斎田」(だいじょうさい ゆきさいでん)に関する資料を中心に、これまで地域において収集されていた生活資料と共に六ツ美地域に関する歴史を幅広く展示している。農業がすっかり機械化されてきた今日、主に手作業でなされていた頃の古い農機具等は大変貴重な展示資料となろう。
 展示主会場の床が一面、緑と紺のじゅうたんで美しく飾られ、三河の地理関係が理解できるように図示される配慮も施されている。また隣の研修室コーナーは、地元の歴史や文化を伝承して行くための学習会や地域の方々が世代を超えて交流しながら学習のできる場として活用されることとなっている。

 〝悠紀の里〟の名称は、大正4年(1915年)の新天皇が即位後初めて行う「新嘗祭(にいなめさい)」(大嘗祭)で皇室に献上する米を作るために、東日本から六ツ美の中島町の水田が〝悠紀斎田〟に、西日本から香川県綾川町の水田が〝主基斎田〟(すきさいでん)に選ばれたことに由来している。
 歴代の天皇の即位の折にも、同様の祭事が行われていたはずであるが、なぜか歴史を越えてこの祭事を地元の伝統行事として今日まで伝えてきているのは、この六ツ美(悠紀)と香川県綾川町(主基)の二つと、昭和天皇即位の時の滋賀県野洲市(悠紀)の三ヶ所だけである。それはこの三つの地域が、斎田に選ばれたことを名誉に思うことに加え、その栄誉を後世に伝えたいという気持ちがより一層強かったことの現れであろうと思う。その結果、今日まで六ツ美において伝えられてきたのが、この「大嘗祭悠紀斎田お田植えまつり」である。
 以前は、近くの中島八幡社で早乙女達の「お田植えおどり」をおこなってからお田植え唄にあわせて田植えの儀式が催行されていたこともある。現在では専用の敷地を確保し、すべての行事を一ヶ所で行うことができる。
 今回の第一期の民俗資料室の開館と、来年の第二期工事の終了により、この施設は完成することになる。そして再来年の平成27年(2015年)には第100回目を迎えることとなり、地元では「悠紀斎田100周年記念事業実行委員会」を設立し、六ツ美地域を挙げての記念事業を計画している。100年の時を越えて、この施設がこれから先もこの地の新たな伝統と友和の象徴として発展することを願っている。

地域交流センター・六ツ美分館「悠紀の里」

六ツ美悠紀斎田お田植えまつり

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2013年7月 2日 (火)

矢作川・森の健康診断

第9回 矢作川・森の健康診断

 6月に入ってすぐ、第9回「矢作川・森の健康診断」が行われた。一般的に、私をはじめ町で生活している人間は、森林のもたらす役割というものを十分理解していない傾向がある。そこで以下に記してみる。
 山間地の森林には、主に次の六つの働きがある。

  1. 水源のかん養――雨水を土壌に貯め、ゆっくりとろ過しながら下流へ流す「緑のダム」としての役割。洪水を防ぎ、渇水を緩和する。
  2. 土砂災害の防止――地表面の低木や草、落ち葉や木の根などにより、土壌を崩れにくくし、災害を防止する。
  3. 生物の多様性を守る――多様な野生動植物の生息・育成の場となる。
  4. 地球環境の保全――森林によるCO2(二酸化炭素)の削減作用による地球温暖化対策と空気の浄化。
  5. 物質の生産――木材、香料や染料の原料、きのこや山菜などの生産。
  6. 保健・心理作用――グリーン・ツーリズムなどで森林を訪れる人々に心の安らぎと癒しを与える。

 このように多くの効用が森林から我々にもたらされているのである。
 岡崎市は平成18年(2006年)に額田町と合併したことにより、市の全面積の6割、約23,000ヘクタールが森林でしめられることになった。しかもそのうちの6割が人工林である。人工林の多くは、戦後の殖産振興策の一貫として植林されたもので、早く育つスギやヒノキなどの針葉樹が多い。そのため今日の花粉症の第一原因ともなっている。
 こうした森林は間伐、下草刈り、枝打ちなど適切な管理と整備が不可欠であるが、このところの木材価格の低下と所有者、管理者の高齢化により、そうした手入れができていない森林が増加している。
 このまま森林が放置され続けると、国内で良質な木材を作り出すことができなくなるだけでなく、上記の森林のもつ有益な働きも失われてしまう。ことに昨今多くなっている集中豪雨による、土砂崩れや河川の急激な増水による災害の発生が心配される。

 そうした情況の中で、矢作川流域の人工林の現状調査をするために、市民と森林ボランティア、そして研究者が一緒になり始まったのが、この森の健康診断である。
 過去8回にわたるこのプロジェクトで、矢作川流域の人工林約58,000ヘクタールのうち、504地点で〝森の健康診断〟をおこなったそうだ。この岡崎地区での実施は、平成20年(2008年)に続き2回目となる。
 私は今回朝の挨拶にうかがうまで地域の一行事であると勘違いしていたが、北は宮城県、南は福岡県まで全国から総勢220人の参加者を迎えるほど調査は大規模なものであった。中には、東京大学生態水文学研究所の蔵治准教授の指導のもと、20数名の東大の学生のボランティアはじめ、人間環境大学、豊田東高校など学生の参加もあった。
 参加者は27グループに分かれて、額田の森林の植生や木の混み具合など様々な実施調査をおこなった。その診断結果を元に、今後の森林整備計画が立てられ、額田の森林再生に活かされることになる。
 岡崎市は額田町との合併によって、市の東西を流れる乙川の水源を全て市域に含むことになった。乙川は岡崎の水道水源の半分を担う大切な川である。合併により水源地と消費地が同じ市域となったことを再認識して、これまで以上に水源地域の森林を適切に管理し、豊かな水源域を守り育ててゆくことが大切であると考えます。市民の皆様の御理解と御協力をよろしくお願いします。

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2013年7月 1日 (月)

市制施行97周年記念式・市長式辞

こんばんは。内田康宏事務所です。
本日7月1日、「市制施行97周年記念式」が岡崎市民会館でとり行われました。内田市長が述べた式辞が岡崎市のホームページに掲載されましたので、お知らせいたします。リンク先はこちらです。

市制施行97周年記念式・市長式辞

岡崎市・市制施行97周年記念式

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