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2013年5月 5日 (日)

ゆかりのまち茅ヶ崎市 その2(大岡越前公)

大岡忠相公

 折角の機会なので、大岡公と茅ヶ崎市についてもう少し記述したい。
 大岡忠相(ただすけ)公は、延宝5年(1677年)、1700石の旗本・大岡忠高の四男として生まれ、後に同族の家に養子として迎えられる。将軍吉宗が享保の改革として幕政改革に着手した折は、江戸町奉行として多くの都市政策の改編に携わることとなった。
 市政において、町代(町役)の廃止など町政改革を行い、当時火事の多かった江戸の防火体制の強化体制として現在の消防団(自主防災組織)の元とも言える町火消組合を創設し、公の防火負担を軽減した。そのため、大岡家の法要には今も東京の木場あたりから町火消しの流れをくむ人々により木遣り唄の奉納が行われている。また瓦屋根や土蔵など、防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などにも彼の業績は及んでいる。こうした具体的な施策によって、江戸の防火体制は以後、大幅に強化された。

岡崎市役所 目安箱

 庶民対策として、直接訴願のために目安箱を設置し(岡崎市も実施中)、その目安箱からの要望を受け、貧しい病人のために現在の病院と言える小石川養生所を開設している。また、さつまいも先生として有名な青木昆陽を登用し、飢饉対策としてサツマイモの栽培を奨励している。
 米価対策としては米会所を設置して公定価格の安定を企(はか)り、株仲間の公認により組合政策を指導し、貨幣政策として貨幣の流通量の拡大を進言したりしている。さらに江戸近郊の新田開発や河川整備、さらには儒学教育の振興にまで手を尽くしている。そうした多方面への貢献により、寺社奉行時代には5920石取りとなり、間もなく江戸付き旗本としては珍しい1万石の大名格となった。1752年、将軍吉宗が死んだ年と同じ年の12月、75歳で亡くなっている。

 小説やマンガ、映画やテレビドラマなどで人情味あふれる庶民の味方として描かれてきた大岡越前公であるが、数ある物語の中で実際に本人が奉行として裁いたのはわずかのことである。現在「大岡裁き」として伝えられているものの多くは、当時の様々な奉行がおこなった裁きの中から抽出されたものを講釈師が広めてきたもののようである。
 信頼できる資料として自らが記述した「大岡越前守忠相日記」というものが残っている。そこには公人としての大岡公の職務記録が淡々と記されており、生真面目な官吏の一人であったことがうかがえるという。

柾木太郎市議、新海正春市議、内田康宏

 次は茅ヶ崎市について。
 現在、東京近郊の手近なベッドタウン(東京まで1時間から1時間半)として都市化しつつある茅ヶ崎市であるが、元々は小さな漁村であった。明治期に東洋一と言われたサナトリウム(結核療養施設)の南湖院が開設され、国木田独歩をはじめ多くの著名人が入院し、併せて東京の富裕者による保養地、別荘地として発達したことにより、今のような市街地が形成された。
 海岸沿いの漁村風景と共に瀟洒(しょうしゃ)な別荘が立ち並び、徳川につながる松平家や土井家の別邸、また俳優・加山雄三氏の祖先である明治の元勲・岩倉具視公の別荘もあったという。戦後は外国人も別荘を構えていたそうだ。そういえば加山氏が子供時代にピアノを師事しようとして訪ねたところ、「君はまだ小さいから」と言ってお弟子さんを紹介されたという、高名なピアニストのレオニード・クロイツァー氏もこのあたりに住んでいたそうだ。
 加山氏は現在茅ヶ崎在住ではないが、親族は今も住んでおられる。茅ヶ崎市議会の柾木議長のお話によると、加山氏の甥が柾木氏の近くに住んでいるそうだ。加山氏の甥は自分の先祖が五百円札の肖像となっている岩倉具視であることを知らなかったので、あるとき、「『バカヤロー』と言って頭をコヅイてやった」そうである。こんな話は地元でないと聞けないことである。
 茅ヶ崎の市政施行は昭和22年(1947年)で、現在人口23万6000人とのことである。(つづく

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