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2013年5月29日 (水)

オカザえもん騒動について


岡崎アート広報大臣 オカザえもん

 いずれブログに書くつもりで機会を見ていたが、このところ、あまり各方面から賛否両論の御意見を頂くため、ここで一度「オカザえもん」についてしっかりと触れておこうと思う。
 私が初めてオカザえもんを見たのは、昨年11月、県市合同で開かれたプレ・トリエンナーレ岡崎会場のオープニング・セレモニーのときであった。テープカットが行われる前から周囲をうろうろしているけったいな着ぐるみの物体がオカザえもんという出品作品であることを、そのとき初めて知った。当初は学生がウケねらいでフザけてやっていることだと思っていた。なにせ「岡崎の〝岡〟の字をデフォルメしてそれを顔にし、白い体操服のようなものの胸のあたりにムナ毛と称して〝崎〟の字を配する」というあまりに安易な発想。しかも犬とも猫ともつかぬ変な顔であり、カワイらしさも感じられない。長身(180cm)で、黒ヘルメットのようなオカッパ頭?が妙な威圧感があるせいか、子供達も怖がって近づかなかった。私もまさかこれがプロの作家の手によるモノとは思わなかった(失礼)。
 次に出会ったのは、担当部局から「トリエンナーレがらみで一年限定ということで決まっておりますのでよろしく」と言われ臨んだ、「岡崎アート広報大臣・任命式」の席においてである。
 「思ったことを率直にコメントして頂いて結構です」という話であったので、「発想が安直でまるで高校生の文化祭のよう」と評したら一部から抗議の声が来た。「せっかく岡崎のためにガンバってくれているのに失礼だ!」というのである。
 その一方で、「一体、岡崎市は何を考えているのか? あのようにグロテスクで死神を連想させるモノを広報大臣にするとは! 誰が決定したのか? 審美眼とセンスを疑う! 怖がって泣く幼児の感覚こそ正しい!」という内容のお手紙を何通も頂いている。
 最後に認可のハンコを押したのはほかでもなく私であり、皮肉なことにアート広報大臣の決定者は私ということになるが、オカザえもんが浮上してきたことの経緯は今もってよく分からない。
 オカザえもんはおおむね50代以上の皆さんにはウケが悪いようだ。あのシュールで、生物でありながら無機質な感じの風貌に感覚的についていけないらしい。

 私も県会議員の頃、かつてのデザイン博のミミズのようなシンボル・キャラクター(もはや名前すら思い出せない)や、愛知万博のモリゾーとキッコロ(公表当初はまだ名前が無かった)のデザインにも不満があった。なんだか分からないうちに珍妙なシンボルキャラクターが決まってしまったのである。愛知万博のときはさすがに不評の大きさに気がついたのか途中から笑い顔のモデルもつけ加えるようになったが、私は当初のブキミなイメージのせいでどうしても最後まで好きになれなかった。
 あのようなものを製作して使うくらいなら、万博会場内にトトロの家まで作ったのだからスタジオ・ジブリに使用料を払ってもトトロをイメージ・キャラクターにした方がよかったと思う。またこの愛知県には、世界に誇る「ドラゴンボール」、「Dr.スランプ アラレちゃん」の作者であるマンガ家の鳥山明氏もいる。なぜそうした純国産で国際的認知度も高い才能を用いずに、奇をてらったヘンなモノを使いたがるのか、私には今もって当時の関係者の意図が分からない。
 どちらにしても、こうしたものの決定については、いつも不可思議なことが多く、判然としないケースが目につく。「それが芸術というものだ」と言われてしまえば返す言葉が見つからない。

 このところ巷(ちまた)で「内田市長はオカザえもんが嫌いだそうで云々」というようなことをよく言われることがある。確かに好きではないが、別に毛嫌いしているわけでもない。
 私はダリの絵画や人物像にも興味があり、本やDVDも持っている。であるから、決してシュールレアリスムを否定するものでもないし、あの不思議な世界観、それぞれの画家の個性的な作風も面白いと思っている。しかしそうだからと言って、デザイン博や愛知万博のキャラクターやオカザえもんのようなモノを自分の趣味や美意識を越えて理解する必要もないと思っている。第一私は芸術評論家ではない。ただの一愛好家にすぎないのである。

Pablo Picasso 1

 個人的な話であるが、私は、スペイン内戦の無差別爆撃に抗議の意を込めたピカソの大作「ゲルニカ」でさえ芸術作品と考えることができない。有名人である彼の政治的メッセージとしての価値は認めるし、ピカソが絵画、芸術の世界における新たな領域を切り拓いた巨人であることも理解できる。しかし子供の頃から様々な本や映像でその存在を知り(最初に知ったのは手塚治虫のマンガであった)、長じてから本物を見たこともある「ゲルニカ」などの作品と私の美意識が結ぶことはないのである。
 私はピカソの初期の作品は好きなものがある。例えばたまたま市長室の隣の第一来賓室に複製画が飾ってある「腕を組んで座る軽業師」の絵など、ウチの長男の横顔に似ていることもあり、気に入っている。しかし「ゲルニカ」などについて専門家はともかく一般の人が本当に理解しているとは思えない。ピカソというビッグネームの権威と何十億円という絵の価格に恐れ入っているだけとしか考えられないのである。そしてそういうふうにしか感じられない私の感性を古いという人がいても構わないし、変えようとは更に思わない。

オカザえもん

 絵画芸術の世界には、1960年代以降のコンセプチュアル・アートという潮流がある。作品の物質的側面よりも観念性、思想性を重視して記号や文字、パフォーマンスによる表現を目指す芸術手法をそう呼ぶ。オカザえもんの作者、斉と公平太(さいと こうへいた)さんもそうした流れを継承する作家の一人であり、岡本太郎賞を受賞する日本の現代アート界を代表する若手(?)有望アーティストである。
 賛否両論かしましいオカザえもんであるが、若い人達には「キモかわいい」として面白がられているのも事実である。ネット投票による「ご当地キャラ総選挙2013」においても、中部地区で上位3位の中に入ったそうである。
 先日ゆかりのまち30周年で訪れた茅ヶ崎市の市民まつりにまで、オカザえもんは自費で出張出演していた。やはりこのときも子供達は警戒して遠巻きに怖々(こわごわ)とオカザえもんを眺めていたそうである。ところが現場にいた若い茅ヶ崎市の職員達には「アレは何だ!」と大変な評判、注目度であったという。その存在感は大したものだと思う。

Papua New Guinean Mask

 作者の斉と公平太氏の評判も関係者にはすこぶる良い。物腰は低く、謙虚で、礼儀正しく常識人であるという(巨匠と呼ばれる芸術家で、こういうタイプはあまり聞いた覚えがない)。彼の人となりを知る者は、誰しも応援したくなるような人物であるらしい。オカザえもんの人気も作者の人柄によるところが大きいという。
 私は前回、オカザえもんについて「安直な発想」と失礼なコメントをしてしまったが、斉と氏は決していい加減な気持ちでオカザえもんを製作した訳ではない。「まず第一印象から強いインパクトを与えるため、パプア・ニューギニアのお面や能面の、シンプルで無表情の中にある美しさやユーモアを表現したい」と考えたそうである。そして次に岡崎という〝全国的知名度いまいち〟の都市をどうしたら有名にして観光に訪れる人を増やし町を活性化できるかを徹底的に考え抜いたという。その結果が、あの誰が見ても「岡崎」と認知できる「オカザえもん」であったということである。
 マスコミの会見で斉と氏は、
「賛否両論頂いたが、話題になったということだけでも十分目的は達したと思う」
 と答えている。私もその通りであると思うし、この点、作者には感謝している。

 しかし、一方こうした動きもある。先日岡崎の某女性団体の役員の皆さんがおそろいで市役所までおいでになり、「岡崎のイメージ・キャラクターをもっと可愛らしい誰にでも親しめるものにしてほしい」と強い申し入れをしていかれた。こうした意見を私に言われる方が結構多いのである。オカザえもんの存在感は認めるが、それが一般受けするモノでないところが限界となっている。とはいえ、いつの時代でも新しいことをやる芸術作品は冷遇されてきたものである。また騒動となったことは作品としてのオカザえもんの価値にもつながったと言える。

葵博 岡崎 ’87 パンフレット

 オカザえもんだけでなく、これまで岡崎には市制70周年の「葵博」におけるあの手塚治虫御大の手によるハクセキレイのピー子ちゃんはじめ、おかざキング、てんかくん、味噌崎城(みそざき じょう)など様々なキャラクターが乱立しているが、それはそれとして新しくもう一つ岡崎のイメージにふさわしく、万人受けするキャラクターを作ってもいいのではないかと私も思っている。
 すでに浜松市に「出世大名家康くん」を先取りされた今、幼名の「竹千代君」という線もあるが、対外的に「竹千代って何だ?」ということになってしまいそうである。
 そこで私としては、私案として、ドラゴン(龍)をモチーフとしたカワいらしいキャラクターを、プロも交えて公募してみたらどうかと考えている。そもそも岡崎市の市章は龍城にちなんだ「龍と玉」である。そんなことを基礎に考えてみたらどうかと思っている。

(オカザえもん写真提供: 株式会社リバーシブル様)

岡崎市の市章


 現状報告のつもりで「オカザえもん騒動について」と題してその1、その2を書いたところ、えらいことになってしまった。ブログに載せてから1週間足らずの間のアクセス数が1万2千を超えていた。私のブログとしてはこれまでの最高記録である。
 今まで、こうした「好きか嫌いか」、「プラスかマイナスか」という二元論の議論にはあまり触れないようにしてきた。プロ野球やサッカーチームのひいき論と同じで、理屈で分かりあえる話ではないからだ。好きなものは何であれ、ファンにとっては神のように絶対的存在である。それこそ、こうした問題には「さわらぬ神に祟(たた)りなし」である。利口な大人は近づかないものだ。
 しかし今回は職責上、賛否両論の立場の方々よりそれぞれ強い要望を頂いているため、一度はこのことにふれざるを得なくてブログ上で取り上げることとなった。
 先日、地元の南中学校に「次の新しい岡崎へ」の講演に出かけたところ、演題にはなかったオカザえもんについての質問や意見が出た。中学生の間でも賛否両論あることが分かり、たいへん面白かった。

オカザえもんパン

 どちらにしても、これだけ岡崎の名前を冠したものが話題になったことは、作者・斉と公平太氏の作戦が当たったということであり、感心している。最近、岡崎のピアゴ洞店の「サンクレール」で売られている「オカザえもんパン」(一日50個限定)は、連日売り切れの好評とのことだ。市役所にも「どこに行ったらオカザえもんに会えますか?」という問い合わせが来ている。また九州の岡崎さんという方からは「子供が学校でオカザえもんと呼ばれていじめられている。どうしてくれる!」と真剣に苦情が来た。
 こうした大フィーバー(?)にもかかわらず、「製作費だ、使用料だ」と一言も言わない斉と氏はいまどき珍しい奇特な方である。(とは言え、オカザえもんには毎月、アート広報大臣としてのパフォーマンスに対して、時間給で給与は支払われている。)

 また彼は、病気の子供がオカザえもんの熱烈なファンであることを知ると、ベーブ・ルースや力道山、長嶋茂雄じゃあるまいに、その子供のお見舞いに出かけるといった心温まる活動もしている。こういう評判を耳にすると、「おっ、オカザえもん、なかなかいいじゃないか!」と思わないでもないが、一般に人の好悪の感情というものはそれほど単純なものではないようだ。いまどき親が仕事で世話になっているからと言って、気に染まぬ相手のところに嫁に行く娘などいないのと同じことである。

 今回、その1、その2のブログに対し、様々な方より、多くの参考となる御意見やお便りを頂き感謝している。元々、感情的でヒステリックな話は初めから問題にする気はなかったが、意外にクールで論理的な意見が多く、私がよく知らなかった事情をお教え下さった方もあり、そうした皆様には心からお礼を申し上げたい。ただここで一つ気をつけなければならないことは、とかくこうした議論は、声の大きな方が主流のようなイメージを与える点である。ブログ世代だけでなく、少し離れたところから顔をしかめて見ている「声なき声」の人々の存在も忘れてはならない。とはいえ、私自身も先々週から人に頼まれ、オカザえもんバッジを胸につけている。「今まで言ってきたことと違うじゃないか!」とおっしゃる向きもあろうが、そんなところに私の置かれている立場が御理解頂けることと思う。
 お便りの中にいくつかご返事をした方がよいと思われるものがあったので次回で採り上げてみようと思う。

味噌崎城とオカザえもん

 まず加藤正嗣先生の御意見に対して。私が忘れていたデザイン博の「デポちゃん」の名を思い出させて頂き、ありがとうございました。
 ただ「選定プロセスは明確で――」という点には異論があります。「公募し、デザイナーによる審査があった」そうですが、いつも思うことですが、その選考委員というのは一体誰がどんな基準で選任したのでしょうか。個々の委員にはそれぞれ好みの傾向があり、その人を選考委員にすればどういう傾向の作品が選ばれるか、おのずから予想できることもあります。
 また仮にグッズが売れていたとしても、マスコミを使って大宣伝して、イベントを盛り上げ、キャラクターグッズがそれしかなければ、ある程度売れるのは大衆社会において当たり前のことです。そのためのプロの請負業者(会社)もあるのであります。
 もう一つ言えば、あのイモムシのデポちゃんが出て来たときに、委員会で多くの議員が首をかしげて笑っていたことをはっきり覚えています。さらに非難していたのは名東区の県議一人ではありませんでした。

 Wさん、基礎生物学研究所のお仕事で忙しい中、私のブログまで御注目頂きありがとうございました。
 Kさん、Hさん、それぞれ温かいアドバイス感謝します。

 私や葵武将隊をゆるキャラと同列に扱っているご意見もありましたが、機能や目的の違うものを同じ土俵で論ずることはそもそもおかしいように私には思えます。
 それから「人気があるから知名度があるからいいじゃないか」という感覚論もいくつか頂きました。そうした数値化されない、空気のようなものに頼ってモノゴトを判断することは行政としては慎重にした方がいいでしょう。そうしたものは一時的な現象であることもあるからです。さらに言うならば、そもそもオカザえもんは「岡崎アート&ジャズ2012」の出展作品であり、一年間限定のアート広報大臣であります。岡崎市の正式なシンボル・キャラクターというわけでもありません。ちなみに船橋市の「ふなっしー」はTVに出て、CMにまで採用されるほどの人気者ですが、未だに船橋市からも商工会議所からも認知はされておりません。
 「ゆるキャラ」の提唱者であるみうらじゅん氏はその条件として次の三つを挙げております。

  1. 郷土愛に満ちあふれた強いメッセージ性があること
  2. 立ち居振る舞いが不安定かつユニークであること
  3. 愛すべきゆるさを持ち合わせていること

 これを見て頂いて分かるように、みうら氏の定義はあくまで「地方の村起こし的、地域の振興のためのキャラクター」であり、この定義によれば、まずその地域に愛され、その町で認知されることが一番大切であると考えられます。もちろんオカザえもんがこの定義にあてはまらない訳ではありませんが、地域で広く認知されているとまでは言い切れない気がします。世の中には「どうしても嫌い」「理解できない」という人たちが確かにいるのです。
 他の地域の方からも様々な御意見を頂きましたが、Kさんの御指摘にあるようにまずは岡崎市民の声を大切にしていきたいと思います。
 一般的に、くせの強いキャラクターは波に乗ると一気にブレイクすることがあります。それと同様にアキられるのも早いことは、芸能界における数ある例からもよく分かります。オカザえもんもそうなると言っている訳ではありませんが、地元や地域で広く理解と認知を得るという意味では少々限界点のあるキャラクターであると言えます。このことは決してオカザえもんの存在を否定するものではありません。オカザえもんを全国区とするなら、地域の伝統に根ざし、幅広い世代に愛されるキャラクターがあってもいいのではないかということです。要するにそれぞれの個性を生かして併存すればいいということです。

 「税金を使って云々」という意見もいくつかありました。しかし税金をきちんと納めてみえる市民の中から要請の声が多ければ、それは正当なものとなります。それでも問題だと言うのであれば、寄付を募って対応してもいいし、やり方はいくつもあります。先々週、議会で「市長が『ドラゴンをモチーフとした新しいキャラクターを云々』とブログに書くのは勇み足だ」という発言を頂きました。これもあくまで「例えば」ということであり、岡崎市の伝統ある「龍と玉」の市章に敬意を表して述べただけのことです。
 当初、新キャラクターのために有名なマンガ家の方に頼むことも考えましたが、製作費、所有権、使用料など、そのたびの契約問題などお金のかかりそうなことが多く想定され、なかなか難しいと考えます。今は、やるなら一般公募が良いのではないかと思います。
 また「新キャラクタープランはオカザえもんを抹消するためのもの・・・」という御意見もありましたが、仮にその程度のことで消滅するとしたら所詮それだけのモノであったということです。私はオカザえもんはもっとしぶといと思います。エルヴィス・プレスリーが出てきた時も、ビートルズが出てきた時も、世の中の評価は真っ二つでありました。それを吹き飛ばすパワーがあってこそ、本物であります。
 先程述べたように、一市一キャラクターである必要はありません。合併のせいで4つも5つも町のキャラクターを持っている市も存在しております。
 すでに岡崎でもオカザえもんと味噌崎城はしばしば同一行動をとっていますが、将来、オカザえもんや他のキャラクターと新キャラが肩を組んで登場できるようになればよいのではないかと考えております。ちょうどミッキーマウスがミニーやドナルドダック、グーフィーやプルートに囲まれているような形になってもいいじゃないかと思います。

 古代ローマの英雄、ユリウス・カエサルは今から2千年以上前に、
「人間ならば、誰にでも現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」(『内乱記』)
 という言葉を残しています。今、この言葉をしっかり噛みしめたいと思っています。

(オカザえもん写真提供:株式会社リバーシブル様)


オカザえもん

 オカザえもんについて私が「個人的には趣味ではない」とコメントしたことが未だに新聞のコラムに載ったり、議会質問の中でヤユされたりすることがある。友人からも「あんたも、いつまでもしぶといネ」などと言われる始末だ。今までに何度も書き、言ってきていることであるが、「趣味ではないが、別に毛嫌いしているわけでもない」。それどころか、岡崎のPRのために一種の使命感を持ってガンバってくれている作者の斉と公平太氏には本当に感謝しているし、尊敬の念すら抱いているくらいである。
 ただ好悪の感情とか、芸術に対する感性とか、主義主張というものは、多数決で決めるようなものではないと思っている。それはあくまで個人の領域に属するものである。
「古い奴だとお思いでしょうが、私はあくまでこだわる人間である」
(どこかで聞いたセリフですが)

 もっとわかりやすく言えば、仮に某左翼政党が日本で政権をとったとしても、私は間違ってもマルクス・レーニン主義を唱えてシッポを振って権力にすり寄ったりはしない。
 ところが近年の若い政治家の中には(年寄りでもいるが)、この辺の思想的貞操観念の希薄な、あるいはそんなものは初めから持ち合わせていない人間が増えてきているように見える。私にはそれが気になってしょうがない。またそういう人間は極めて功利主義的であり、人としての信義を軽くみる輩が多い。そういう人物が政界に増えるほどに、政治は混乱し、国民からの信を失う結果を招くものと思っている。
 政治家が選挙を意識して行動するのは当然のことであるが、当選のためなら傍目(はため)もはばからず次から次へと政党を移り替わってゆくという姿勢が私にはどうしても理解できない。そういった人間よりも、生き方としては、拷問の末、獄中死しても主義主張を変えなかった近代の左翼主義者達の方に親近感を覚えるくらいである。学生時代、革命を唱え、ヘルメットをかぶり角材や鉄パイプを振り回していた友人も今は田舎の一市民として平和に暮らしている。普通人ならばこれも許されるだろう。
 しかし政治家とは主義主張に生きる存在であるべきではなかったのかと自らに問うことがある。自作の言葉として「我が志によって立ち、我が旗のもとに倒れる、もって悔いなし」というものがある。私はそんな人生を送りたいと思っている。

愛知県議会 1987年

 オカザえもんに話を戻すと、先日新聞の県内版に、市役所幹部の弁として「美人は三日で飽きると言うが、初めて見た時は『何じゃこれ』と思ったオカザえもんにも慣れてきた」というコメントが載っていた。よく言われる「美人は三日で飽きるが、そうでないのは三日で慣れる」という言葉はウソであると思う。真実は「美人には三日で慣れ、美人であることを当然と思うようになるが、そうでない場合は三日間アキラめる努力をする」ぐらいであり、実際多くは、「アバタもエクボ」といったところが本当だろう。
 いずれにせよ当の女性達本人でも、美人の方が良いと思っているに決まっている。そうでなくては、化粧品が時代を超えてあんなに売れるはずがないし、韓国にまで美容整形に出かける人達がいるはずがない。あのクレオパトラですら、ハチミツを体に塗り、ミルク風呂に入っていたという。
 美の追究、利権や名誉、地位に執着するのは、人間の持つ性(さが)であり業(ごう)であると考える。それを直視せずに発せられたいかなる言葉にも、ウソがある。

 しかしそうは言いながら、最近もう一つ感じていることがある。人は年齢と経験によって考え方にも変化が起きてくるのではないかということである。人は美を追い求めるものであるが、年齢と経験によって、世の中には美を超越した価値があるということに目覚めることがある。思想的にも、自らと異なる考え方に対してより寛容の心が働くようになって来るのである。
 そうしたところに、人間としての成長、長く生きることの意味があるのかもしれないと思う今日この頃である。

追伸
 せっかく騒ぎが収まってきたのだから、もうオカザえもんについては触れまいと思っていたのに、また書いてしまった。これこそ私の業であると思っている。

(オカザえもん写真提供: 株式会社リバーシブル様)


→「オカザえもん、おそれいりました!

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