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2013年5月

2013年5月29日 (水)

オカザえもん騒動について その2

オカザえもん

 絵画芸術の世界には、1960年代以降のコンセプチュアル・アートという潮流がある。作品の物質的側面よりも観念性、思想性を重視して記号や文字、パフォーマンスによる表現を目指す芸術手法をそう呼ぶ。オカザえもんの作者、斉と公平太(さいと こうへいた)さんもそうした流れを継承する作家の一人であり、岡本太郎賞を受賞する日本の現代アート界を代表する若手(?)有望アーティストである。
 賛否両論かしましいオカザえもんであるが、若い人達には「キモかわいい」として面白がられているのも事実である。ネット投票による「ご当地キャラ総選挙2013」においても、中部地区で上位3位の中に入ったそうである。
 先日ゆかりのまち30周年で訪れた茅ヶ崎市の市民まつりにまで、オカザえもんは自費で出張出演していた。やはりこのときも子供達は警戒して遠巻きに怖々(こわごわ)とオカザえもんを眺めていたそうである。ところが現場にいた若い茅ヶ崎市の職員達には「アレは何だ!」と大変な評判、注目度であったという。その存在感は大したものだと思う。

Papua New Guinean Mask

 作者の斉と公平太氏の評判も関係者にはすこぶる良い。物腰は低く、謙虚で、礼儀正しく常識人であるという(巨匠と呼ばれる芸術家で、こういうタイプはあまり聞いた覚えがない)。彼の人となりを知る者は、誰しも応援したくなるような人物であるらしい。オカザえもんの人気も作者の人柄によるところが大きいという。
 私は前回、オカザえもんについて「安直な発想」と失礼なコメントをしてしまったが、斉と氏は決していい加減な気持ちでオカザえもんを製作した訳ではない。「まず第一印象から強いインパクトを与えるため、パプア・ニューギニアのお面や能面の、シンプルで無表情の中にある美しさやユーモアを表現したい」と考えたそうである。そして次に岡崎という〝全国的知名度いまいち〟の都市をどうしたら有名にして観光に訪れる人を増やし町を活性化できるかを徹底的に考え抜いたという。その結果が、あの誰が見ても「岡崎」と認知できる「オカザえもん」であったということである。
 マスコミの会見で斉と氏は、
「賛否両論頂いたが、話題になったということだけでも十分目的は達したと思う」
 と答えている。私もその通りであると思うし、この点、作者には感謝している。

 しかし、一方こうした動きもある。先日岡崎の某女性団体の役員の皆さんがおそろいで市役所までおいでになり、「岡崎のイメージ・キャラクターをもっと可愛らしい誰にでも親しめるものにしてほしい」と強い申し入れをしていかれた。こうした意見を私に言われる方が結構多いのである。オカザえもんの存在感は認めるが、それが一般受けするモノでないところが限界となっている。とはいえ、いつの時代でも新しいことをやる芸術作品は冷遇されてきたものである。また騒動となったことは作品としてのオカザえもんの価値にもつながったと言える。

葵博 岡崎 ’87 パンフレット

 オカザえもんだけでなく、これまで岡崎には市制70周年の「葵博」におけるあの手塚治虫御大の手によるハクセキレイのピー子ちゃんはじめ、おかざキング、てんかくん、味噌崎城(みそざき じょう)など様々なキャラクターが乱立しているが、それはそれとして新しくもう一つ岡崎のイメージにふさわしく、万人受けするキャラクターを作ってもいいのではないかと私も思っている。
 すでに浜松市に「出世大名家康くん」を先取りされた今、幼名の「竹千代君」という線もあるが、対外的に「竹千代って何だ?」ということになってしまいそうである。
 そこで私としては、私案として、ドラゴン(龍)をモチーフとしたカワいらしいキャラクターを、プロも交えて公募してみたらどうかと考えている。そもそも岡崎市の市章は龍城にちなんだ「龍と玉」である。そんなことを基礎に考えてみたらどうかと思っている。(つづく

(オカザえもん写真提供: 株式会社リバーシブル様)

岡崎市の市章

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2013年5月28日 (火)

オカザえもん騒動について その1

岡崎アート広報大臣 オカザえもん

 いずれブログに書くつもりで機会を見ていたが、このところ、あまり各方面から賛否両論の御意見を頂くため、ここで一度「オカザえもん」についてしっかりと触れておこうと思う。
 私が初めてオカザえもんを見たのは、昨年11月、県市合同で開かれたプレ・トリエンナーレ岡崎会場のオープニング・セレモニーのときであった。テープカットが行われる前から周囲をうろうろしているけったいな着ぐるみの物体がオカザえもんという出品作品であることを、そのとき初めて知った。当初は学生がウケねらいでフザけてやっていることだと思っていた。なにせ「岡崎の〝岡〟の字をデフォルメしてそれを顔にし、白い体操服のようなものの胸のあたりにムナ毛と称して〝崎〟の字を配する」というあまりに安易な発想。しかも犬とも猫ともつかぬ変な顔であり、カワイらしさも感じられない。長身(180cm)で、黒ヘルメットのようなオカッパ頭?が妙な威圧感があるせいか、子供達も怖がって近づかなかった。私もまさかこれがプロの作家の手によるモノとは思わなかった(失礼)。
 次に出会ったのは、担当部局から「トリエンナーレがらみで一年限定ということで決まっておりますのでよろしく」と言われ臨んだ、「岡崎アート広報大臣・任命式」の席においてである。
 「思ったことを率直にコメントして頂いて結構です」という話であったので、「発想が安直でまるで高校生の文化祭のよう」と評したら一部から抗議の声が来た。「せっかく岡崎のためにガンバってくれているのに失礼だ!」というのである。
 その一方で、「一体、岡崎市は何を考えているのか? あのようにグロテスクで死神を連想させるモノを広報大臣にするとは! 誰が決定したのか? 審美眼とセンスを疑う! 怖がって泣く幼児の感覚こそ正しい!」という内容のお手紙を何通も頂いている。
 最後に認可のハンコを押したのはほかでもなく私であり、皮肉なことにアート広報大臣の決定者は私ということになるが、オカザえもんが浮上してきたことの経緯は今もってよく分からない。
 オカザえもんはおおむね50代以上の皆さんにはウケが悪いようだ。あのシュールで、生物でありながら無機質な感じの風貌に感覚的についていけないらしい。

 私も県会議員の頃、かつてのデザイン博のミミズのようなシンボル・キャラクター(もはや名前すら思い出せない)や、愛知万博のモリゾーとキッコロ(公表当初はまだ名前が無かった)のデザインにも不満があった。なんだか分からないうちに珍妙なシンボルキャラクターが決まってしまったのである。愛知万博のときはさすがに不評の大きさに気がついたのか途中から笑い顔のモデルもつけ加えるようになったが、私は当初のブキミなイメージのせいでどうしても最後まで好きになれなかった。
 あのようなものを製作して使うくらいなら、万博会場内にトトロの家まで作ったのだからスタジオ・ジブリに使用料を払ってもトトロをイメージ・キャラクターにした方がよかったと思う。またこの愛知県には、世界に誇る「ドラゴンボール」、「Dr.スランプ アラレちゃん」の作者であるマンガ家の鳥山明氏もいる。なぜそうした純国産で国際的認知度も高い才能を用いずに、奇をてらったヘンなモノを使いたがるのか、私には今もって当時の関係者の意図が分からない。
 どちらにしても、こうしたものの決定については、いつも不可思議なことが多く、判然としないケースが目につく。「それが芸術というものだ」と言われてしまえば返す言葉が見つからない。

 このところ巷(ちまた)で「内田市長はオカザえもんが嫌いだそうで云々」というようなことをよく言われることがある。確かに好きではないが、別に毛嫌いしているわけでもない。
 私はダリの絵画や人物像にも興味があり、本やDVDも持っている。であるから、決してシュールレアリスムを否定するものでもないし、あの不思議な世界観、それぞれの画家の個性的な作風も面白いと思っている。しかしそうだからと言って、デザイン博や愛知万博のキャラクターやオカザえもんのようなモノを自分の趣味や美意識を越えて理解する必要もないと思っている。第一私は芸術評論家ではない。ただの一愛好家にすぎないのである。

Pablo Picasso 1

 個人的な話であるが、私は、スペイン内戦の無差別爆撃に抗議の意を込めたピカソの大作「ゲルニカ」でさえ芸術作品と考えることができない。有名人である彼の政治的メッセージとしての価値は認めるし、ピカソが絵画、芸術の世界における新たな領域を切り拓いた巨人であることも理解できる。しかし子供の頃から様々な本や映像でその存在を知り(最初に知ったのは手塚治虫のマンガであった)、長じてから本物を見たこともある「ゲルニカ」などの作品と私の美意識が結ぶことはないのである。
 私はピカソの初期の作品は好きなものがある。例えばたまたま市長室の隣の第一来賓室に複製画が飾ってある「腕を組んで座る軽業師」の絵など、ウチの長男の横顔に似ていることもあり、気に入っている。しかし「ゲルニカ」などについて専門家はともかく一般の人が本当に理解しているとは思えない。ピカソというビッグネームの権威と何十億円という絵の価格に恐れ入っているだけとしか考えられないのである。そしてそういうふうにしか感じられない私の感性を古いという人がいても構わないし、変えようとは更に思わない。(つづく

(オカザえもん写真提供: 株式会社リバーシブル様)

Pablo Picasso 2

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2013年5月26日 (日)

佐久市訪問 その2(バルーンフェスティバル)

佐久バルーンフェスティバル2013

 5月5日(日)、早朝6時にホテルを発つ。熱気球のフライトには風の少ない早朝が良いそうである。先日のグライダーに続き、「煙となんとかは高いところに行きたがる」のたとえ通り、またしても私は大空高く舞い上がる乗り物に試乗することになった。今度は茅ヶ崎市長と新海議長も道連れである。
 我々の乗るバルーンは「佐久の鯉太郎」号であった。バルーン下のカゴに乗って浮き始めると、一斉にカメラのレンズが向けられる。上から「最後の写真になるかもしれないから上手に撮ってネ」と声をかけると、下から「遺影を撮るときは『イエーイ!』と言って指サインをして下さい」と返ってきた。要望に応えその通りにするところが我々の世代の良いところである。

佐久バルーンフェスティバル2013

佐久バルーンフェスティバル2013

 バルーンは上空450mあたりまでゆるやかに上昇し、地上の会場の周囲を一周するような形で30分近く浮遊した。遠くには頂(いただき)に雪を残した山々が見える。会場のまわりにはのどかな田園風景が広がっている。私達は会場の隣の田んぼにゆっくりと着地した。当初1000mくらいまで上昇すると聞いていたが、上空は強い気流があったため、流されてレースの邪魔にならないように高度を調節したということであった。高度によって吹く風の向きが違い、熱気球はハンググライダーのように簡単に向きをコントロールできない。そんな中、自然の風に乗り、どれだけ正確にゴールに近づけるかを競うのがこのレースである。そのため競技は、一般的に風の穏やかな早朝か夕方に行うのだそうだ。強い風ばかりでなく、雨や露でも競技中止になることがあるという。「上空は寒い!」と言われ厚着をしていったが、450mくらいでは大したことはなく、逆にガスバーナーの熱で頭が焦げそうであった。
 佐久では毎年この大会が終わるまで農家の方達が田んぼに水を入れずに待っていてくれるそうである。大会終了と同時に水を引き、田植えが始まるという。

佐久バルーンフェスティバル2013

 早朝の熱気球のフリーフライトを終え、ホテルに戻り朝食をとり、再び会場に向かう。バルーン・レースの出発会場はすっかりお祭り広場に模様替えされていた。養鯉(ようり)業はこの地の伝統産業であり、海から遠い山間地において貴重なたんぱく源であった。そのせいかこの地で鯉は食用専門である。
 大人の体ほどもある木彫りの鯉の載った台車のおみこしを引きながら、はっぴ姿の子供達が場内を一周する。その後壇上で始まった式典で鯉拝領の儀式があった。龍岡藩主に扮した人から各町の代表に、生きた鯉が口上を述べながら手渡された。そして我々の登壇挨拶となった。

 考えてみれば、歴史的つながりとは不思議なものである。一言で縁と言ってしまえばそれまでであるが、百年以上前の出来事がこうして遠く離れた地域の人々に友好関係をもたらしており、そして今、岡崎のゆかりのまちである佐久市と茅ヶ崎市が岡崎を通した縁によりこの度防災協力都市協定の縁組みをすることになった。こうした友好と助け合いの輪が広がってゆくことが、より良い日本を造ることにつながると私は信じたい。

第51回 佐久鯉まつり

第51回 佐久鯉まつり

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2013年5月22日 (水)

佐久市訪問 その1(ゆかりのまち30周年)

佐久バルーンフェスティバル2013

 5月の連休中の二日間、ゆかりのまち30周年の第二弾として長野県佐久(さく)市を訪問することとなった。「岡崎市と佐久市がなぜゆかりのまちなのか?」という嫁さんの質問に明確に答えられなかったので、改めて調べてみた。
 そもそもの始まりは、江戸末期の文久3年(1863年)、第8代奥殿藩主であった松平乗謨(のりかた)公、のちの大給恒(おぎゅう ゆずる)が岡崎市の奥殿にあった陣屋を信州佐久1万2千石の中心地臼田(うすだ)に移し、龍岡(たつおか)藩主となった縁による。その後、昭和58年(1983年)7月1日に岡崎市と臼田町が旧縁をもとにゆかりのまち提携をすることとなったのである。

 今回訪れたのは、ゆかりのまち30周年記念を寿ぐと同時に、当地で21回目となる「佐久バルーンフェスティバル2013」に参加し、フリー・フライトに試乗し、同日行われる第51回目の「佐久鯉まつり」に参加するためである。岡崎市がゆかりのまち提携をしたのは臼田町であったが、2005年4月に佐久市、臼田町、浅彩町、望月町が合併し、新しい佐久市となったため現在は佐久市とゆかりのまち提携を続けている。
 面白い話として日本中で海から一番遠い地点、海から一番遠いスシ屋の所在地でもある。とは言え、佐久という名前は私達にあまりなじみが無い。合併して10万人程の新しい市であり、長野県と言っても東部にあるため経済的には関東圏の影響下にある。四辺を山々に囲まれた、佐久平と呼ばれる盆地に位置する。住民の気質は穏やかであり、近隣の市町との関係も良好な住み易い所だそうである。
 市内を千曲川が貫流し、耕地の広さが目につく農業地帯でもある。古くは中山道と甲州道の結節点の宿場町として始まったという。現在は上信越自動車道が通り、長野新幹線の駅まであることがうらやましい。駅周辺では将来を見越して、機能的に整備されている。周囲の田畑となっている土地が区画整理され市街化されれば、将来の発展性は高い。新幹線で東京まで70分という立地を考えると、一度都市化の流れが始まると、急速に市の外観が変容してゆくことが想像できる。一つ不思議であるのは観光地という訳でもないのにホテルが5~6軒も存在していた点である。軽井沢に近いことがその理由かもしれない。

臼田宇宙空間観測所

 5月4日の午後、佐久市到着早々、新海議長と共に臼田にある宇宙空間観測所の視察に行った。細い山道を抜けてしばらく行くと、白い円形の巨大な建造物が山の中腹に見えてくる。これが日本一大きな直径64mの大パラボラアンテナであることが、到着後に教えられる。堂々と説明する女性はJAXA(宇宙航空研究開発機構)の博士かと思っていたが、佐久市の職員であった。あの宇宙探査機「はやぶさ」の帰還の折、微弱な電波を最初に受信したのはこの施設だそうである。施設の中核をなす64mのパラボラアンテナは総重量が2000トンもあり、部品として運んだとしてもどうやってあの細い道を通ってきたものか疑問が残る。牽引型のトラックで運んだとすれば神業である。

 その夜、バルーン・イリュージョンの見学に出かけた。これは、地上に固定したバルーンに翌日開催のレースに備えガスバーナーの火を当てる催し物である。それから歓迎夕食会に向かった。
 個々のカラフルで個性的なバルーンは闇夜のネオンサインのように輝いていた。(つづく

佐久バルーンフェスティバル2013

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2013年5月20日 (月)

『リバ!』2013年6月号

『リバ!』2013年6月号

内田康宏事務所からご案内申し上げます。

本日発行の『リバ!』(株式会社リバーシブル)6月号の市長のコラムは、「ボーイスカウト、備えよ、常に!」です。
真ん中に写っている男の子が、岡崎第9団(旧)時代の内田康宏市長です。

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2013年5月17日 (金)

新生・「葵」武将隊・出陣!

グレート家康公「葵」武将隊

 4月30日、新たなメンバーを加えた「グレート家康公『葵』武将隊」が再出発した。当日は小雨降る中会場変更があったが、若い女性ファンを含む300人以上のお客様をお迎えし、岡崎公園能楽堂にて新メンバーの紹介と新しい演武の披露がなされた。メンバー変更して間もなくであるのにもかかわらず、演技内容もスピードもレベルアップしていることに驚かされた。個々のメンバーの役者としての才能の豊かさもさることながら、プロデューサーも兼ねている家康役の小澤寛さんが、文字通りグループの御大将として若いメンバーを束ねてきていることが察せられる。
 2年前、国の雇用促進事業による補助を受け、岡崎においても武将隊が結成されることになった。名古屋の「おもてなし武将隊」の二番煎じでどの程度のものができるのか訝(いぶか)しい思いがしたというのが、当時の偽らざる気持ちである。しかし、出来上がった初代武将隊の構成メンバーは、私が想像した以上に練られたものであった。ダンスも洗練されており、年配者向けに西川流の振り付けによる「堪忍音頭」まで用意されているという念の入れ方であった。名古屋の後追いではあったが、十分に将来的発展性の感じられる出来栄えであった。
 その後の初代メンバーたちの、岡崎PRのための活躍ぶりは皆さんご案内のとおりである。十二分に市の内外への岡崎市とその歴史、家康公を中心とした人物像を再認識させる役割を果たしてくれたものと思う。

グレート家康公「葵」武将隊

 今回初代メンバーのうち4人が、それぞれの人生の新たな挑戦のために旅立ち、替わって3人の新メンバーを加え、一人が配役変更をするという新しい陣容となった。同じメンバーで団結し続けるのもひとつの価値ではあるが、こうして適宜に新しい血を加えることも、マンネリ化を防ぎ、集団を活性化させる意味で大きな効果がある。そのことは既にAKB48の例を見てもよく分かることであり、結果としてよかったと思っている。新メンバーには、ぜひ〝岡崎市制100周年〟の平成28年までは頑張ってほしいと期待している。
 これまでの2年間、十分な手当てもない中、衣装の修理も自分たちの手で行い、岡崎を盛り上げようという心意気で頑張って来た旧メンバーの皆さんには心から感謝申し上げると共に、新メンバーの方たちがもう少し余裕を持って仕事に取り組めるよう、岡崎市としても心配りの必要があると考えている。

 先日、武将隊を支えるサポーターとの合同懇親会に初めて参加させて頂いた。多くの民間の皆さんが武将隊を支え、共に岡崎の歴史と文化をPRし、新たな発展を模索する活動をして見えることを知り、私自身元気づけられる思いだった。岡崎出身の歴史学者である市橋章男先生を始め、様々な立場、職業の方々の知恵と力を活かしつつ、あらゆる面から岡崎をアピールし、活性化する努力をしてゆく決意であります。

内田康宏

 また当日、私と議長もそれぞれ家康公、本多忠勝公の甲冑を身にまとい、ご挨拶に登場した。壇上で「私の着ているのがいちばん高い鎧(よろい)です」などと言いながら、おじぎした拍子に兜の飾りの先をマイクにぶっつけてしまい、あとで武将隊の面々から「あのギャグはなかなかのものですね」と冷やかされた。自分で着用してみて初めて分かったことだが、「昔の人は本当にこんなに動きにくいものを着用して戦いをしたのだろうか」と考えさせられた。刀を持って20分も戦ったらそれだけで息が切れてしまうだろう。そして改めて紙製とは言え、同様の甲冑を着用して飛んだり跳ねたりの演技をする武将隊の仕事の大変さを再認識できた気がする。
 新聞紙上で個別の紹介が丁寧に載っていたので、ここで再度個々の紹介はしないが、新生武将隊の新たな飛躍と活躍を心から期待している。市民の皆さんもしっかりバックアップして頂きますことを望みます。

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2013年5月13日 (月)

グライダー試乗体験記

岡崎飛行クラブ グライダー試乗会

 今回市役所内の体育協会事務局長のお誘いにより、「岡崎飛行クラブ」のグライダー試乗会に参加することとなった。

 私と岡崎のグライダー・クラブとの縁は古く、県会議員になったばかりの頃まで遡る。当時矢作川の河川敷内にあったグライダー倉庫の存在が、国の行政管理庁の査察で問題となり、「立ち退き要求を受け困っている」という陳情をもらい、県や国会議員事務所などへの対応をしたことに始まる。メンバーに友達が何人もいたこともあり、陳情処理がきっかけとなり何度か試乗の誘いがあったが、日程の折り合いがつかず、そのままとなっていた。それが今回25年振りに実現することになったのだ。
 もともと飛行機が好きで、高校2年生までは私もパイロット志望であった。近眼となってあきらめることになったが、航空関係のことには今も人一倍関心を持っている。家には「小型飛行機の免許のとり方」などという本も何冊かある。ちなみに高校時代の愛読書のひとつは、あの零戦撃墜王の書いた『坂井三郎空戦記録』である。この本はのちに『大空のサムライ』と改題され、映画にもなり、世界各国でベストセラーとなった。

岡崎飛行クラブ グライダー試乗会

 ようやく長年の念願がかなうことになった当日(4月14日)は子供のように朝からワクワクしていた。私が機乗することになったグライダーはドイツ製の二人乗りで、JA20CD・シェンプ・ヒルト式デュオ・ディスカス型機という、白くスマートな機体である。(以前所有していたヨットの船体と同じ合成樹脂タッチだった。)
 操縦者は千葉さんというトヨタ自動車に勤務してみえる方である。やはり若い頃はパイロット志望であったが、飛行学生への夢がかなわず、現在は車を造っているとのことであった。しかし空への夢は断ち難く、今もグライダーに乗ってみえる。どうもここらは、そういう夢追い人が集まる所らしい。

 乙川との合流地点より少し北側の、矢作川の河川敷が滑空場となっている。舗装していないため、雑草がまばらに生えた、イナカの空き地のようでもある。昔ジープで引っ張っていたと記憶しているが、現在はトラックに積んだ大型のウィンチによってグライダーを牽引している。
(以下、しばらく実況放送風に。)

 コクピットのシート(搭乗席)に収まり、両肩と腰の安全ベルトを締め、キャノピー(頭上のカバー)を閉めると、いよいよ待っていた瞬間がやって来る。ウィンチを巻き始めたとき、にぶい金属音と共に心地良い衝撃が体にかかり、左右の風景が後方に飛んでゆく。
 グライダーは40~50m滑走して浮上する。思っていたより短い離陸距離だ。数秒後には、矢作川近郊の岡崎の街並みが体の両サイドの眼下に広がる。こうしたオートバイにも似た、外部との一体感が旅客機やセスナにはない醍醐味である。いわば戦闘機的、男のテイストである。
 機体は千葉さんの巧みな操作により、ゆるやかな弧を描きながら、らせん状に上昇気流をとらえて昇ってゆく。朝起きた頃は雨空であったが、今は雲間に太陽が見え隠れしている。太陽が出て、空気が暖まって来ないと、上昇気流も発生して来ないそうだ。

岡崎飛行クラブ グライダー試乗会

岡崎飛行クラブ グライダー試乗会

 岡崎城の上空あたりから、乙川と緑の山並みに囲まれた中心街の全情景がとらえられる。このとき「やはり岡崎の町づくりのポイントは、この二つの川の有効活用にある」と確信できた。
 以前私は南米でセスナに搭乗したとき、助手席で操縦をさせてもらったことがあった。エンジン付きの方が少々ミスをしてもすぐに立て直すことができて安心な気がする。しかし実際はグライダーの方が飛行安定性は高いそうである。

 どちらにしても、町づくりに関わる者は、時にふるさとを200~300m上空から改めて眺めることも必要であると感じた。地上を歩いて回って、地図上で想いを巡らせることも大切であるが、数千m上空の旅客機の窓から見るのともまた違うインスピレーションがわいてくる。
 名古屋空港が主空港であった頃は、季節や天候、行き先によって、岡崎上空も旅客機の航路となるせいで、グライダーの空域制限が厳しかったそうであるが、セントレア開港のおかげで飛行可能空域が広くなったとのことである。
 いずれにせよ町の真ん中でグライダーを飛ばしている所など全国でも珍しいことである。中には岐阜など県外からグライダーをやりにここまで通っている人もいるそうだ。でもその気持ちは私にもよく分かるような気がする。一度海や空に魅せられた者は、海上に浮かんでいるだけで、あるいは空を飛んでいるだけで、何物にも替えられない至福の一時を得るのだ。
 私の乗せてもらったグライダーは巡航速度は100~150km/hぐらいだが、280~300km/hぐらい出せる高性能機だそうである。第二次大戦中のエンジン付きの戦闘機が500~600km/hぐらいだから、そのすごさはよく分かる。
 その後10分程の飛行の後、エアーブレーキを使って速度を落とし、北側から矢作川河川敷に無事着陸した。そして下りた途端、あのNHKの突然インタビューに遭遇することになったのである。

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 昭和45年(1970年)に旧・岡崎航空青少年隊の関係者により設立された現在の「岡崎飛行クラブ」は、今年で43回目の市民体験飛行会を行いました。希望者は岡崎市の市政だよりに案内が出た折に応募下さい。毎年抽選で搭乗者が決まるそうです。また、岡崎飛行クラブに入会を希望される方は下記までご連絡下さい。免許取得のためには個人差がありますが、100~150回の教官同乗飛行と100回ほどの単独飛行の経験があれば、受験資格となるそうです。試験は国土交通省の試験管による実技試験となり、日時は不定期だそうです。また無免許でも決められた場所ならグライダーの単独飛行は可能とのことです。免許取得費用は、入会金、年会費、訓練費の合計で40万円ほどかかるそうです(3~4年で)。

 岡崎飛行クラブ ホームページ
 http://www.okazaki-soar.com/

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2013年5月 9日 (木)

ゆかりのまち茅ヶ崎 その3(ビッグパレード)

 自慢するほどのことでもないが、どういう訳か私は自分でもあきれるほど異常な晴れ男である。今までも前日まで嵐のような天候であったのに、行事の当日には雨の予報をくつがえし、晴天、日本晴れということが何度もあった。3月に行われた竜城ライオンズクラブ寄贈の岡崎公園案内板の除幕式も午前中の雨空が変わり、式典が終わって私が車に乗った途端に再び雨が降り出した。中止しようかと思っていた「家康行列」も、寒くはあったが昼まで降っていた雨が止み、なんとか開催できてしまった。
 今回の茅ヶ崎はアウェーでもあり、市民まつりは雨の中となったが、やはり昼過ぎのパレード開始前には太陽も顔を見せるようになっていた。一体このツキはどこまで続くのだろうか?(大体こんなことを言っていると途切れるものである。)

茅ヶ崎市 大岡越前祭 ビッグパレード

茅ヶ崎市 大岡越前祭 ビッグパレード

 茅ヶ崎のパレードは中心街の茅ヶ崎小学校を出発し、岡崎市なら裏通りにあたる(失礼)細い道を通り地元商店街を抜けることから始まった。岡崎の家康行列は一応片側2~3車線のメインストリートを行進しているが、茅ヶ崎ではそうした道はほとんど郊外の自動車専用道路となっているようだ。戦災を受けなかったせいで道路幅がせまく、広いところでも連尺通りくらいである。
 そんな道を、我々を乗せたオープンカーを先頭に、楽団やダンス・踊りのグループまた仮装行列など様々な隊列が続いてゆく。全走行距離も岡崎の3.2kmの半分ほどである。しかし、道路がせまい分、市民との親密度は高く、家々の窓から、あるいは家族全員が家の前に立ち並んで声援を送ってくれる。もう少しで手がふれそうな距離感であり、人々の目線は好意的である。選挙の街宣活動もこんなふうだとありがたいのだが・・・。
 前日の「ゆかりのまち30周年の式典」がテレビで放映されたせいか、私も新海議長も、岡崎から来た部外者であるにもかかわらず温かく迎えてくれた。市街地の大通りは(と言っても二車線)さすが東京圏であり、シャレたお店が立ち並んでいる。しかしそうしたところは中心地に集中しており、すぐに住宅街に続くエリアに突き当たってしまう。

サザン・ストリート

 私はこの町を訪れるのは初めてのことであるが、なぜかふるさとに戻ってきたような懐かしさを覚えた。不思議であるが、ひょっとすると中学生の頃熟読していた加山雄三の『若大将半生紀』という本で茅ヶ崎のことを知っていたせいかとも思う。
 名誉市民である加山雄三のほかに、この町は実に多くの芸能人を輩出している。そのため地元出身者の作った楽曲を並べてもパレードができることが大変うらやましかった。そしてサザン・オールスターズを記念したサザン・ストリートもある。かつての銀幕の大スター上原謙氏を記念した〝上原謙通り〟は現在、同じく時代のスーパースターであった息子の名の〝加山雄三通り〟に改称されている。しかし古い人達は今も〝上原謙通り〟と呼んでいるそうだ。
 過去の歴史では岡崎がまさっていると個人的に思うが、現代人の活躍ぶりはどうやら茅ヶ崎の方が目立っているようである。そういえば中日ドラゴンズの最多215勝投手、山本昌広氏も出身はこの町であり、加山雄三同様、茅ヶ崎の名誉市民である。

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2013年5月 5日 (日)

ゆかりのまち茅ヶ崎市 その2(大岡越前公)

大岡忠相公

 折角の機会なので、大岡公と茅ヶ崎市についてもう少し記述したい。
 大岡忠相(ただすけ)公は、延宝5年(1677年)、1700石の旗本・大岡忠高の四男として生まれ、後に同族の家に養子として迎えられる。将軍吉宗が享保の改革として幕政改革に着手した折は、江戸町奉行として多くの都市政策の改編に携わることとなった。
 市政において、町代(町役)の廃止など町政改革を行い、当時火事の多かった江戸の防火体制の強化体制として現在の消防団(自主防災組織)の元とも言える町火消組合を創設し、公の防火負担を軽減した。そのため、大岡家の法要には今も東京の木場あたりから町火消しの流れをくむ人々により木遣り唄の奉納が行われている。また瓦屋根や土蔵など、防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などにも彼の業績は及んでいる。こうした具体的な施策によって、江戸の防火体制は以後、大幅に強化された。

岡崎市役所 目安箱

 庶民対策として、直接訴願のために目安箱を設置し(岡崎市も実施中)、その目安箱からの要望を受け、貧しい病人のために現在の病院と言える小石川養生所を開設している。また、さつまいも先生として有名な青木昆陽を登用し、飢饉対策としてサツマイモの栽培を奨励している。
 米価対策としては米会所を設置して公定価格の安定を企(はか)り、株仲間の公認により組合政策を指導し、貨幣政策として貨幣の流通量の拡大を進言したりしている。さらに江戸近郊の新田開発や河川整備、さらには儒学教育の振興にまで手を尽くしている。そうした多方面への貢献により、寺社奉行時代には5920石取りとなり、間もなく江戸付き旗本としては珍しい1万石の大名格となった。1752年、将軍吉宗が死んだ年と同じ年の12月、75歳で亡くなっている。

 小説やマンガ、映画やテレビドラマなどで人情味あふれる庶民の味方として描かれてきた大岡越前公であるが、数ある物語の中で実際に本人が奉行として裁いたのはわずかのことである。現在「大岡裁き」として伝えられているものの多くは、当時の様々な奉行がおこなった裁きの中から抽出されたものを講釈師が広めてきたもののようである。
 信頼できる資料として自らが記述した「大岡越前守忠相日記」というものが残っている。そこには公人としての大岡公の職務記録が淡々と記されており、生真面目な官吏の一人であったことがうかがえるという。

柾木太郎市議、新海正春市議、内田康宏

 次は茅ヶ崎市について。
 現在、東京近郊の手近なベッドタウン(東京まで1時間から1時間半)として都市化しつつある茅ヶ崎市であるが、元々は小さな漁村であった。明治期に東洋一と言われたサナトリウム(結核療養施設)の南湖院が開設され、国木田独歩をはじめ多くの著名人が入院し、併せて東京の富裕者による保養地、別荘地として発達したことにより、今のような市街地が形成された。
 海岸沿いの漁村風景と共に瀟洒(しょうしゃ)な別荘が立ち並び、徳川につながる松平家や土井家の別邸、また俳優・加山雄三氏の祖先である明治の元勲・岩倉具視公の別荘もあったという。戦後は外国人も別荘を構えていたそうだ。そういえば加山氏が子供時代にピアノを師事しようとして訪ねたところ、「君はまだ小さいから」と言ってお弟子さんを紹介されたという、高名なピアニストのレオニード・クロイツァー氏もこのあたりに住んでいたそうだ。
 加山氏は現在茅ヶ崎在住ではないが、親族は今も住んでおられる。茅ヶ崎市議会の柾木議長のお話によると、加山氏の甥が柾木氏の近くに住んでいるそうだ。加山氏の甥は自分の先祖が五百円札の肖像となっている岩倉具視であることを知らなかったので、あるとき、「『バカヤロー』と言って頭をコヅイてやった」そうである。こんな話は地元でないと聞けないことである。
 茅ヶ崎の市政施行は昭和22年(1947年)で、現在人口23万6000人とのことである。(つづく

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2013年5月 1日 (水)

ゆかりのまち茅ヶ崎市 その1(なかよC)

茅ヶ崎市

 今年はゆかりのまち、提携30周年の年にあたるため、岡崎と各市町との間で、それぞれ記念事業が目白押しである。
 その第一弾が、先の岡崎の「家康行列」であり、第二弾が今回の神奈川県茅ヶ崎市の「大岡越前祭」である。服部信明茅ヶ崎市長は、私が初当選後、最初に祝意を表して岡崎まで来て頂いた市長さんであり、今回は何としても答礼を兼ねて訪問をしなくてはならないと考えていた。更にまた、岡崎と茅ヶ崎は発音も似ているが、大岡越前公を通じて、歴史的に深い御縁があるのである。

茅ヶ崎市

 大岡越前守忠相公(おおおかえちぜんのかみ ただすけこう)は、江戸時代中期の幕臣であり、江戸町奉行としての功績により、後に大名となり、現在の岡崎の西大平藩の初代藩主であり、茅ヶ崎と共に西大平は大岡家の知行地であった。そうした古(いにしえ)の縁により、昭和58年(1983年)7月1日に、「ゆかりのまち」として提携することになった。
 以来、岡崎と茅ヶ崎は長年心温まる交流が続いており、先日の家康行列では、ゆかりのまち30周年を記念して、服部市長には大岡公に扮して頂いた。さらに市民ツアーとして、約60名の茅ヶ崎市民の皆様にも岡崎までお越し頂いている。
 今回、茅ヶ崎では第58回となる大岡越前祭と共に大岡家の菩提寺である浄見寺(じょうけんじ)における墓前法要が行われた。岡崎の大平町で行われる大岡稲荷社の祭礼には、大岡家第15代の大岡秀朗氏に毎年欠かさず御出席頂いているので、こちらの方もようやく義理が果たせたと思っている。

なかよCの像

茅ヶ崎サザンC

 4月20日、「ゆかりのまち提携30周年・記念式典」と法要が催行され、翌21日には岡崎市から友情と交流の記念として送られる〝なかよCの像〟の除幕式も行われた。なかよCの「C」はCHIGASAKIの頭文字である。当初なかよし像のデザインは、サーフ・ボードを持った子供の像と、写真にあるようにCのマークを持った子供の像の二つの案があり、選択に迷った。Cは広島カープのようだし、サーフ・ボードは何だか軽いイメージがある。茅ヶ崎の海岸には3m大の〝茅ヶ崎サザンC〟という碑があって、その碑が地元の名物であり、誰でもCが茅ヶ崎を指すことが分かるということを聞いたので、Cを抱えたデザインを採用することになった。

 ちみなに湘南海岸にある〝茅ヶ崎サザンC〟の碑は、カップルで訪れて、Cの文字の欠けている部分を隠すように立ち写真を撮ると、円(縁)が結ばれてその二人はうまくゆくようになるというエピソードを売りモノにしている。さすが、観光地はうまいことを考えるものであると感心した。
 21日は、茅ヶ崎においてもう一つ大切な行事である「第29回 春の市民まつり」も開催された。
 私と共にグレート家康公「葵」武将隊や「五万石保存会」の皆さん、「岡崎まぜめん」のPR隊、さらには岡崎のゆるキャラ、味噌崎城や話題のオカザえもんまで参加して岡崎のPR活動につとめました。ご当地グルメのまぜめんについては、NHKの特別取材班が随行取材をしており、服部市長の御協力も得て、しっかりとアピールして参りました。(つづく

岡崎まぜめん会

服部信明市長と私

(浅井寮子様、写真のご提供ありがとうございました。)

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