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2013年4月12日 (金)

SBDドーントレスがやってきた

Douglas SBD Dauntless

 この名前を聞いて、すぐに何のことかわかる人は相当のマニアだと推測できる。
 これは、太平洋戦争の勝敗の分岐点と言われる「ミッドウェイ海戦」において、日本海軍・第一機動部隊の「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の四隻の主力航空母艦を屠(ほふ)った米海軍艦載機の急降下爆撃機の名前である。アメリカにとっては名誉ある飛行機である。

 ドーントレスとは「怖れ知らずの勇者」とでもいう意味らしい。重い爆弾を積んだ二人乗りのドーントレスは動きが鈍く、速力も時速402キロほどである。敵の戦闘機(零戦は時速534キロ)にでも見つかれば、たちまち撃ち落されてしまう。ところが、ミッドウェイ海戦の折には、日本軍を先に発見していたアメリカのTBDデバステイター(破壊者・荒くれ者)という雷撃機の部隊が魚雷攻撃を繰り返していたため、空母の上空を守っていた日本の零戦隊の多くは防衛対応のため海面付近に引き寄せられていた。
 そのため、折しもがら空きとなった上空から少し遅れて到着した450キロ爆弾を抱えたドーントレスの部隊が断雲をぬって急降下爆撃に成功し、日本の三隻の主力空母が使用不能となった。通常、一発や二発の爆弾の直撃で軍艦が沈むようなことはないが、折悪く、魚雷から爆弾へ、爆弾から魚雷へと兵装転換を繰り返していた艦内に魚雷や爆弾が散乱していたため、それらが誘爆を起こして日本の三隻の空母はその日のうちに沈んだ。たまたま雲に隠れて攻撃をまぬがれた「飛龍」は、その後単艦奮闘するも、敵空母攻撃のための第二次攻撃隊を発進させたあと、集中攻撃を受けて沈められてしまう。
 これらの悲劇がミッドウェイ海戦の要旨である。以後日米の海軍力は、アメリカの工業力の底力のために逆転していったのである。

A model of SBD Dauntless

 どうしてこんな話を書くことになったかと言えば、数年前に東京の音大を卒業して、ミュージカルの勉強のためにニューヨークに留学中の姪っ子が、今年の正月の帰国みやげに、しょうもない叔父のために18分の1の「SBD」の模型を買って来てくれたのである。18分の1というと、組み立てると縦横70~80センチ、高さ20センチほどになる。箱に入ったままだと、縦横30センチ、長さ1メートル近くとなってしまう。箱付きの模型の価値を理解する彼女は、そんな厄介なものを郵送すれば壊れると思い、手荷物として持ち帰って来てくれたのである。泣けるではないか。

 前回、彼女が帰国した折、
「もしニューヨークの模型屋で、18分の1のシリーズの飛行機があったら買ってきてほしい」
 と言ったことをちゃんと覚えていてくれたのである。彼女に頼んだのは、第二次大戦中の戦闘機のシリーズであったのだが、すでにアメリカではブームは去っていた。マンハッタンの模型専門店を何軒かまわったが、残っていたのはこの「SBD」ひとつであったという。何回も熱心に店に訪れたせいで模型屋のおばちゃんと仲良しになったそうである。彼女は在米中、インターネットを使って全米の模型店にも連絡をとってくれたらしい。おまけに大きな箱を持って地下鉄に乗っていたところ、「どうして女の子がこんな模型を持っているのか?」と何人もの見ず知らずの男の人から声をかけられたという。特に海軍の軍服を着た人から興味深げにあれこれ訊かれたそうだ。

 嫁さんに見捨てられ、娘に無視される身となって久しい私であるが、この世の中にまだ私の言うことを真剣に聞いてくれる女性が一人でも残っていたのは実に幸せなことである、と思っている。

 彼女はこのあとアメリカに戻り、シカゴでオーディションに合格、『ミス・サイゴン』のミュージカルの舞台に出演している。

Okazaki mayor's niece

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