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2013年4月

2013年4月28日 (日)

第40回 岡崎こどもまつり

第40回 岡崎こどもまつり

 県会議員のときは、ご案内がなかったので一度も出席したことがありませんでしたが、今回初めて「岡崎こどもまつり」に出席させていただきました。おかざきっ子展は私が小学校のときから始まっているので、当然参加したことがありますが、こどもまつりの方は第40回ということで、始まったのも私が20歳のときですから、当然参加もしておりません。しかし、会場となった乙川の河川敷はかつて岡崎の中心地域に住んでいた子供たちにとっては、絶好の遊び場でありました。まだ整地がしてなく、でこぼこの丘陵地帯で、その中に四つほど池があり、戦争ごっこやかくれんぼや様々な遊びを行いました。今の子供たちがそうした遊びができないことは、たいへん残念であり、かわいそうな気もします。
 確かに今はそれに代わるコンピュータ・ゲームのような、もっとハイセンスな、部屋の中で一人でも遊べるツールがあるわけで、子供たち自身は外で遊ばないことを残念とは思ってないかもしれません。しかし、太陽の下で友達や先輩後輩とともに遊ぶ中から学び取る社会のルールや人間関係の在り方というものも大切なことだと思います。昨今の社会問題、社会現象となっているように、今の子供たちが集団の中になかなか馴染めなかったり、大人になっても社会適応不能というようなケースにならないことを祈るばかりです。

 幸運にも私は子供の時代に、そうした外で様々な遊びをするチャンスに恵まれましたし、わがままなわんぱく坊主でしたが、ボーイスカウトという活動の中で鍛えられ、自然の中で生きていく技術や人間関係の在り方、社会的なルールの基礎のようなものを学ぶことができたような気がしています。
 当時の指導者や先輩諸氏には今も心から感謝をしております。

第40回 岡崎こどもまつり


「第43回岡崎こどもまつり」に思う (2016.05.04)

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2013年4月27日 (土)

全地形対応車両、岡崎へ

全地形対応車両

 この度、総務省から、緊急消防援助隊の充実強化を図るため全地形対応車両が全国で一台、この岡崎市に無償貸与されることになった。3月28日、岡崎消防署においてその視察が行われた。
 この車両は一般の車や救急車などが走行できない不整地や階段状の地形、雪上やガレキの上、水深1.2mまでの水中でも走行可能であり、二両連結式で前部に4人、後部に6人乗車できる。また後ろの車両には資機材や医療機器を搭載することもできる。
 全長8.7m、幅2.2m、高さ2.6m、キャタピラは特殊ゴム使用で最高時速は50km。かつてのイギリスのテレビ人形劇「サンダーバード」のように専用搬送トレーラーもあり、同時に貸与された資機材搬送用トラックも含めると総額1億円を超える値段となる。

全地形対応車両

 真っ先に試乗を終えて下車してきた私にある市会議員が、
「どうして日本に一台しかない特殊車両が東京や名古屋、大阪でなくて岡崎に送られてきたのか? 内田市長と安倍総理の特別な関係のせいか?」
 と訊いてきた。「そうそう、よく分かってるじゃない」などと冗談で返したが実際はそんなことではない。南海トラフ巨大地震による被害想定地域の中で最も地盤が岩盤であり、沿岸部から離れており津波被害の心配もない所がこの岡崎地域だからというのがその理由のひとつ。しかも日本のほぼ中央にあるため、高速道路を使えば東西南北どちらへでも移動して行くことができる。おまけに、岡崎消防署は岡崎インターチェンジのすぐ近くだからである。そうした様々な好条件が重なって、岡崎にこの全地形対応車が置かれることになったのである。ちなみに免許は大型特殊であるそうだ。

 もし、安倍総理との個人的な関係を政策的に活用できるなら、ぜひともリバーフロント計画や、ツイン・ブリッジ構想に対して使わせて頂きたいと思っている。

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2013年4月23日 (火)

八丁味噌、仕込み・石積み式

 八丁味噌と言えば岡崎の代名詞のようなものであるが、私達岡崎の人間にとって昔からお馴染みすぎて、意外と基本的なことを見落としていることがあるものである。私なども八丁のある連尺学区で生まれ育った一人であり、小、中学校と何回も八丁の味噌蔵は訪れており、写生大会では味噌ダルの絵を描いたことも覚えている。
 ところが、今回〝石積みの儀式〟のご案内を頂くまで味噌ダルの上の石のことについては、漬けモノ石と同じくらいの認識しか持っていなかったというのが実態である。

早川久右衛門代表、浅井信太郎社長

 現在、岡崎で伝統的技法で古来の八丁味噌を製造しているのは、今回訪れた早川家(早川久右衛門・19代)の「カクキュー」と浅井信太郎社長の「まるや八丁味噌」の二軒だけとなっている。どちらも大豆と塩と水だけで熟成させる伝統手法で味噌造りを代々続けてみえるのであるが、同じ手法であっても出来ばえには素人には分からぬ微妙な違いがあって、それぞれに全国の有名料亭にひいき筋をもってみえるという。なにせ皇室御用達の看板が輝いている。有名料亭でアカダシというのは通常八丁味噌のことである。
 味噌を造るための味噌ダルは厚さ5cm程の杉の板を使っている。高さ・直径ともに6尺(1.8m)とのことである。タルを組む職人はいるが、竹で編んだ帯(?)で外側を巻く技術を持った名人が絶えてしまい、現在は鉄製のワイヤーで締めている。かつてNHKの「純情きらり」の撮影の折はワイヤー締めでは絵にならないので、NHKの造形の部の人がゴム勢の竹帯を製作して上からそれをかぶせてドラマの撮影をおこなったそうだ。

八丁味噌 味噌蔵

 今回特に御案内を頂いたのは、江戸時代に作られていた頃と同じ条件で、かつての味と香りを再現する試みを見学するためにお招きを頂いたのである。
 創業当時に使用されていたとされる地元産大豆「矢作」の存在が分かったのは7年前。通常使用してきた大豆(と言っても厳選したもの)なら約2年の熟成で八丁味噌ができ上がるそうだが、地元オリジナルの大豆「矢作」を使用した場合は、3年(三夏二冬)を越えてようやく味がまとまるということである。
 大豆の性質が以前のものと違うため、熟成過程で何度も石を下ろし味見をして、再度石積みをするというテマをかけての特製味噌であるという。今回で3回目の仕込みとなるが、年によって大豆の出来に差があり、今年は一タルのみ(6t)であるという。上に積む石もただ漫然と積んであるという訳でなく、積み方に伝統の技法があり、一通り覚えるのに3年くらいかかるという。きちんと積み上げた石は地震にもビクともしない。一番上に積む石だけは形状が丸型で、「玉石(たまいし)」とか「まんじゅう石」とか呼ばれ、仕上げの重し石でもある。味の良さだけでなく熟成タルの形状、見た目にもこだわるところが日本人の美意識、日本の文化のあらわれらしいではないか。一通り仕事を覚えてベテランの味噌職人と呼ばれるまでに10年はかかるそうである。

 式典終了後、カクキュー、まるや両店の社長さんと写真に収まるが、これからも御両名には元気でガンバって頂きたいものである。
 なにせ、これからの岡崎は、観光産業を町おこしの新しい柱の一つとして考えており、お城、大樹寺と並ぶ岡崎観光産業の三種の神器のひとつがこの八丁味噌であるとも言えるからである。

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2013年4月21日 (日)

『リバ!』2013年5月号

『リバ!』2013年5月号

内田康宏事務所からご案内申し上げます。

『リバ!』(株式会社リバーシブル発行)5月号の内田市長のコラムは、「私が影響を受けた6冊の本」です。バウムクーヘンの穴から味噌崎城くんが手を振っている表紙が目印です。またお読み頂けますようよろしくお願いします。

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2013年4月18日 (木)

家康行列 2013

家康行列 2013年4月7日

 私は今回、実に47~48年ぶりの「家康行列」に参加することになった。以前は連尺小学校の鼓笛隊やボーイスカウトの行進などに参加したことがあるが、自身が参加するのはその時以来である。
 現在、各小学校とも少子化の影響のせいか、鼓笛隊もバトン・トワリングのチームも編成できないあり様となっている。何か別の名目で子供たちがたくさん参加できるお祭りにできないものかと思う。そうすれば、もっと地元に密着した催しとなるはずである。

 現在岡崎市は、石垣市(沖縄県)、福山市(広島県)、茅ヶ崎市(神奈川県)、佐久市(長野県)、関ヶ原町(岐阜県)、金沢市(石川県)の五市一町と親善都市、ゆかりのまち、観光交流都市として友好関係を結んでいる。
 今回、それぞれの市町から代表者の方々とそれぞれのミスのお嬢様方、そして各地のゆるキャラ(ご当地キャラ)なども参加して、「家康行列」を盛り上げて頂くことになった。改めてそれぞれの皆様に感謝申し上げると共に、このような交流をこれからも更に広げ、深めてゆかなくてはならないと考えている。

佐久の鯉太郎くん・ほか

 こちらを向いているのは佐久市の「佐久の鯉太郎」くん。

服部信明・茅ヶ崎市長と私

 ことに今年はゆかりのまち提携記念30周年を迎え、「ゆかりのまち30周年・記念列」を特別編成し、茅ヶ崎の服部信明市長には、両市をつなぐ大岡越前公に扮して騎乗の上、行列して頂いた。にもかかわらず、私はいつもの癖で「大岡越前というより、悪代官の雰囲気ですネ。なんだか私も『オイ、越後屋』と呼ばれそうな気がしてきましたよ」などと失礼なことを言ってしまった。
 慣れてない人が馬に乗ると、おシリだけでなく、体のあちこちが痛くなるものだが、現代の大岡様はその後大丈夫であったろうか?

西大平藩陣屋跡

 また当日早朝より、バスで岡崎まで訪れてみえた茅ヶ崎市の市民訪問団の皆様をお迎えして、大平町にある西大平藩陣屋跡の看板設置式もおこなった。江戸町奉行を経て、旗本として西大平藩の大名となった大岡公が、代々の領地の茅ヶ崎において今日もなお敬愛されているというのは我々にとっても喜びである。なお、ヒノキの看板には、初代・陣屋跡保存会会長の内田和夫先生に揮毫(きごう)して頂いた。

家康行列 2013年4月7日

家康行列 2013年4月7日

家康行列 2013年4月7日

 前日からの天候悪化のため、河川敷での模擬合戦は中止となり、一時は家康行列そのものの実施も危ぶまれましたが、風速20~30メートルの暴風雨予想もはずれ、少々肌寒くはありましたが、時折太陽も顔をのぞかせる中、伊賀八幡宮での出陣式をはじめ、パレード、武者行列なども無事挙行できたことを本心から喜んでいます。
 もう一つの心配は、各ミスのお嬢様方が軽装であり、カゼをひかなかったかということです。ことに当日は沖縄と比べて10度以上寒かったのです。

 この度御協力賜りました各・市町の皆様、各種団体、企業、一般市民の皆様、そして警備に当たって下さった警察、消防等の方々、さらに寒風の中にもかかわらず沿道から暖かい声援を送って下さった観客の皆様、すべての方々に重ねて感謝申し上げます。ありがとうございました。

家康行列 2013年4月7日

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2013年4月16日 (火)

初の人事異動と佐藤栄作

The next fiscal year

 4月となりいよいよ新しい年度が始まった。昨年市長職に就いてから初の新年度予算の編成と人事異動をおこなった。そして4月1日には、192人の新しい職員を岡崎市に迎えることになった。私の一番下の子供と同じ世代の人達が実社会に飛び込んで来ることに、何か不思議な思いにとらわれている。それだけ自分も年を経たのである。今回の彼らの入庁によって、私は初めて後輩ができたことにもなるのだ。
 この度の新規採用職員は、一般行政職58人、消防職15人、保育教育職21人、医療職98人の計192人である。まだ初々(ういうい)しい感じの彼らが、一日も早く貴重な戦力となることを期待している。

 今回同時に昨年より107人多い、863人の人事異動もおこなわれた。発表は突然ということになるが、昨秋より本人の希望も確認しながら個別の取得資格を基準の上に移動の基本計画は準備されてきた。新市長の政策変更に基づく庁内の機構改革と個々人のこれまでの経歴、実績を踏まえ、幹部、OB、各業界、庁内での上下の評判まで加味しながら、部長級、課長級、主幹、等々と順番に適材適所の原則を念頭にパズルのコマを並べるように人事のプランが練り上げられていった。

 古い話であるが、佐藤栄作元総理は、役人であったときからすでに「人事の佐藤」という異名があった。人事配置、人事のバランスをとることで組織の機能を十二分に発揮させる名人であったと言われている。

The next fiscal year

 一番有名な例が、総理になった翌年の第1次改造内閣の組閣時(昭和40年)に、大蔵省出身の切れ者、福田赳夫氏を財政金融の要の大蔵大臣にすえ、党務の中心の自民党幹事長に党人派の若き実力者、田中角栄氏を配したことである。経歴も性格も対照的なライバル関係の二人をそれぞれの得意分野で競わせて、強力なる自民党の政治体制を構築していったのである。この当時は今のように、選挙向けの広告塔として、有名人というだけで若くて実績の無い議員を大臣に起用することはなかった。今よりも学歴偏重の時代において、小学校卒で30代で郵政大臣になり、47歳で党幹事長になった田中氏はずば抜けた政治力の持ち主であったと言える。
 長州出身(山口県)でありながら、よく徳川家康にたとえられた佐藤総理は、7年8か月に及ぶ歴代最長の政権運営を果たした。その後、福田・田中の両雄が覇権を巡って角・福戦争を始め、「三角大福」(三木・田中・大平・福田)に中曽根を加えた自民党・戦国時代の幕開けとなるのだ。私が秘書をしていた安倍晋太郎(現総理の父)や竹下登・中川一郎の面々がまだニューリーダーと呼ばれる前のことである。
 一人長期政権の結果、派閥対抗政治の原因を作った感のある佐藤氏を批判する向きもあるが、人事を考える上で「政治の要諦は人事にあり」と看破した佐藤栄作という人は慧眼であったと思う。

The next fiscal year

 今回、初めての経験でもあり、様々な人の意見を拝聴しながら何度も手直しをしながら組み上げた人事案であるが、内示の時期を迎え、職責分野ごとに個々に辞令を発令していった。これだけ慎重に手順を踏んできたはずであるが、個々の反応は様々であった。
 ほんの一瞬のことであるが、昇級・昇進に笑みが浮かぶ者、一生懸命に喜びを噛み殺している者、昇格したものの配属が気に入らないのか仏頂面を隠さない者、「また同じ所か!」とガッカリが目に出る者、等々それぞれの性格、人生模様の一断面が見てとれた。「さすが!」と思ったのは心の内をけぶりにも見せずに無表情で辞令を受理してゆく者が多かったことである。この点、公務員という人々はよく訓練されているものだと感心した。
 役所において、人事と昇給がモチベーションの源泉であると言われているが、今回自らが関わった初めての人事を経験してそのことをより一層強く認識することができた。

 私自身はどちらかと言うと、ポストにあまりこだわらない方であった。県議の時、立ち回りもヘタだったせいもあるが同期で一番若くもあり、ポストの選択権は後になることが多かった。しかし人生とはよくしたもので、希望のポストが必ずしも自分に向いているとは限らないし、やってみたら意外とつまらない仕事だったこともある。また望んでいなかったポストで想定外の勉強ができたり、貴重な人脈ができたりということもあった。「人間(じんかん)万事塞翁が馬」ということわざの通り、とかくこの世はままならぬが、そのために結果オーライとなることもある。希望のポストに就けた人は油断なく、そうでない人は次のチャンスのため現在の持ち場でベストを尽くしてほしいと思う。

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2013年4月12日 (金)

SBDドーントレスがやってきた

Douglas SBD Dauntless

 この名前を聞いて、すぐに何のことかわかる人は相当のマニアだと推測できる。
 これは、太平洋戦争の勝敗の分岐点と言われる「ミッドウェイ海戦」において、日本海軍・第一機動部隊の「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の四隻の主力航空母艦を屠(ほふ)った米海軍艦載機の急降下爆撃機の名前である。アメリカにとっては名誉ある飛行機である。

 ドーントレスとは「怖れ知らずの勇者」とでもいう意味らしい。重い爆弾を積んだ二人乗りのドーントレスは動きが鈍く、速力も時速402キロほどである。敵の戦闘機(零戦は時速534キロ)にでも見つかれば、たちまち撃ち落されてしまう。ところが、ミッドウェイ海戦の折には、日本軍を先に発見していたアメリカのTBDデバステイター(破壊者・荒くれ者)という雷撃機の部隊が魚雷攻撃を繰り返していたため、空母の上空を守っていた日本の零戦隊の多くは防衛対応のため海面付近に引き寄せられていた。
 そのため、折しもがら空きとなった上空から少し遅れて到着した450キロ爆弾を抱えたドーントレスの部隊が断雲をぬって急降下爆撃に成功し、日本の三隻の主力空母が使用不能となった。通常、一発や二発の爆弾の直撃で軍艦が沈むようなことはないが、折悪く、魚雷から爆弾へ、爆弾から魚雷へと兵装転換を繰り返していた艦内に魚雷や爆弾が散乱していたため、それらが誘爆を起こして日本の三隻の空母はその日のうちに沈んだ。たまたま雲に隠れて攻撃をまぬがれた「飛龍」は、その後単艦奮闘するも、敵空母攻撃のための第二次攻撃隊を発進させたあと、集中攻撃を受けて沈められてしまう。
 これらの悲劇がミッドウェイ海戦の要旨である。以後日米の海軍力は、アメリカの工業力の底力のために逆転していったのである。

A model of SBD Dauntless

 どうしてこんな話を書くことになったかと言えば、数年前に東京の音大を卒業して、ミュージカルの勉強のためにニューヨークに留学中の姪っ子が、今年の正月の帰国みやげに、しょうもない叔父のために18分の1の「SBD」の模型を買って来てくれたのである。18分の1というと、組み立てると縦横70~80センチ、高さ20センチほどになる。箱に入ったままだと、縦横30センチ、長さ1メートル近くとなってしまう。箱付きの模型の価値を理解する彼女は、そんな厄介なものを郵送すれば壊れると思い、手荷物として持ち帰って来てくれたのである。泣けるではないか。

 前回、彼女が帰国した折、
「もしニューヨークの模型屋で、18分の1のシリーズの飛行機があったら買ってきてほしい」
 と言ったことをちゃんと覚えていてくれたのである。彼女に頼んだのは、第二次大戦中の戦闘機のシリーズであったのだが、すでにアメリカではブームは去っていた。マンハッタンの模型専門店を何軒かまわったが、残っていたのはこの「SBD」ひとつであったという。何回も熱心に店に訪れたせいで模型屋のおばちゃんと仲良しになったそうである。彼女は在米中、インターネットを使って全米の模型店にも連絡をとってくれたらしい。おまけに大きな箱を持って地下鉄に乗っていたところ、「どうして女の子がこんな模型を持っているのか?」と何人もの見ず知らずの男の人から声をかけられたという。特に海軍の軍服を着た人から興味深げにあれこれ訊かれたそうだ。

 嫁さんに見捨てられ、娘に無視される身となって久しい私であるが、この世の中にまだ私の言うことを真剣に聞いてくれる女性が一人でも残っていたのは実に幸せなことである、と思っている。

 彼女はこのあとアメリカに戻り、シカゴでオーディションに合格、『ミス・サイゴン』のミュージカルの舞台に出演している。

Okazaki mayor's niece

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2013年4月 9日 (火)

第18回 拓空杯空手道大会

第18回 拓空杯空手道大会

 私は県会議員になって間もなく、井田町にある拓空塾という空手道場の名誉会長をお引き受けすることになった。空手は学生時代に極真カラテの通信教育講座を受講したことがあるが、そんなものが身につく訳がなかった。
 空手とはその程度の関わりしかない私であったが、拓空塾会長である今泉先生が岡崎北高の先輩であり、これまで大変お世話になっていたため大役をお受けすることとなったのである。そんな御縁で始まったのであるが、もう20年以上拓空塾の皆さんとのお付き合いが続いている。夏のバーベキュー大会、冬のモチツキ大会などにも毎回ご案内を頂いている。やすひろ杯という賞もあったが、今回からは市長賞になった。
 昨秋の市長選直後に、私の市長就任を熱望していた今泉会長がお亡くなりになったため、今回は創始者のみえない初めての大会となった。
 3月10日(日)、中央総合公園の第1錬成道場で行われた第18回の空手道大会には、拓空塾の他に、小坂井町や静岡県湖西市の道場などの御参加も受けた。蜂須賀新会長のもと、新しい執行部によって大会は盛大に開催された。幼児部、小学生、中学生それぞれランク別に、形の部と組手の部に分けて競技が行われていた。
 私は大会終了後の挨拶の中で次のように話をした。

「近年、武道が過度に競技化して、勝つことがより強く求められる風潮となっていることが気になります。最近起きた柔道界における暴力問題も、そうした傾向の中で起きたことではないかと考えます。
 他のスポーツに比べ、武道は力と技だけでなく、精神のあり方が重要視される競技です。ところが『強ければ何をやっても許される』という考え方を持つ人が出てくるようになってきたのは残念なことです。
 皆さんには空手を通して、強い体とたくましい精神力に加え、人の気持ちになって他の人のことを考えることのできる人間性を育てて頂きたいと思います。それこそが今泉会長の考えてみえたことであり、空手を学ぶ意義であります」

 表彰式の後、幼児の部で組手、形共に優勝し、市長賞を受賞した林柚希(はやし ゆずき)ちゃん、敢闘賞を受賞した黄木結愛(おうぎ ゆあ)ちゃんが少しはにかみながら挨拶にみえた。私は柚希ちゃんのお母さんが小・中学校で空手を習っていた頃を知っている。そのため彼女に、「あなたのお父さんもお母さんもチャンピオンだったんだよ。だからあなたもチャンピオンになるんだネ」とまるでシェパードの子供でも褒めるようなことを言ってしまった。ほんとに他になんとか言い方はなかったものかと今になって反省している。

 岡崎市は、空手に限らず様々なスポーツを通じて、市民一人ひとりが「いつでも、どこでも、だれでも」楽しむことができ、健康で活力ある豊かな生活を営める生涯スポーツ社会を考えています。これからもそのための環境整備には力を注いでいきたいと考えているのでよろしくお願いします。

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2013年4月 6日 (土)

新・石垣空港、開港式へ

石垣島

 去る3月2日、岡崎市と親善都市提携をしている沖縄の石垣市の新空港・開港式に岡崎市長として出席することとなった。沖縄本島へは県議時代に委員会視察などで3~4回訪れたことがあるが、石垣島まで足を伸ばすのは今回が初めてである。
 当初イメージしていた石垣島は、南海のひなびた小島だと思っていた。ところが着陸体勢に入った飛行機の窓から見えた島影が思っていたよりも大きなものであり、意外であった。人口5万人程でありながらホテルが27もあるというのはうらやましい限りであるが、それはこの島がリゾート地として観光が経済の大きな糧であることの証しである。また逆に言うならば、他の産業は漁業か農業しかないということになる。
 また島内を車で移動中に気が付いたことだが、なぜかコンビニはココストアばかりだった。

 岡崎市と石垣市の交流の始まりは、戦時中、石垣の旧大浜飛行場にいた岡崎出身の海軍将校が特攻隊の「八重桜隊」結成にあたり、その兵舎に大浜小学校を使わせてもらった縁で、戦後、贈り物をしたことがきっかけとなっている。将校の母校であった岡崎の奥殿小学校と大浜小学校が姉妹校となり、昭和44年に岡崎市と石垣市の親善都市提携へと発展したものである。以後、小中学校や各種団体との相互訪問を始め、産業、教育、文化など幅広い交流が続いている。かつては岡崎市が寄贈した岡崎会館という施設もあり「そこで私たちは成人式をしました」という方ともお会いした。現在は跡地に交流の足跡を伝える様々な石碑が残っている。

 石垣島の空港の歴史は、海軍の飛行場として建設されたことに始まる。戦後、米軍の統治を経て民間空港が運航を始め、昭和47年の日本復帰後、第三種空港として指定を受け、その後滑走路を整備して小型ジェット(B-737)の運航に対応してきた。
 全国の地方空港の中では、乗客、貨物ともに利用率の高い空港である。しかしながら滑走路が1500mのままでは、ジェット化への対応が難しくなってきた。飛行機の機種や大きさに加え、重量も制限が課せられた。また過去に着陸時にオーバーラン事故が起きたこともあった。そこで中型ジェット(B-767)が就航可能な2000m滑走路をもつ新空港建設が地元の宿願となっていたのである。
 私が石垣空港(旧)に到着した折も、着陸時にブレーキ操作があり、最後に飛行機がつんのめったように停止したのが大変印象的であった。次にこの島に来るときは、新空港に到着することになるのでこんなこともなくなるのだろう。

 新空港建設については、当初海上空港案もあったが、サンゴ礁の自然を守ろうとする地元漁業者や環境保護団体の反対運動もあり、長年に渡って地元を二分するやりとりが続いていた。陸上空港方式に転換してからも、今度は建設予定地問題で新たな議論が起こり、ようやくこの度の新空港建設・開港にたどり着いたものと聞いている。
 何事を行うにも賛否両論の意見があり、利害対立のある大きなプロジェクトであればあるほど、まとめることは簡単ではないということである。
 開港式典は2日(土)の午後3時から新空港のロビー全面を使って行われた。県知事、市長、国会議員などの挨拶と共に事業の経過報告ならびに新空港の紹介が映像を交えて行われた。
 私の隣に座ってニコニコしている人と挨拶をしたが話が通じない。年で耳が遠いのかと思っていたら、名刺を交換したところ、台湾の姉妹都市の市長さんであることがわかった。考えてみれば、ここは日本本土よりも台湾や中国の方が近いのである。そう言えば、話題の尖閣列島は石垣島の目と鼻の先であり、石垣市の市域である。

 6時から所をホテルに移してお祝いのパーティーがあった。私は少々疲れていたので途中でホテルに帰り休むことにした。替わって二次会に出席してくれた秘書課の随行は、歌手の夏川りみさんの生歌を聴くことができたと感激していた。
 テレビの天気予報を見ていて気づいたことだが、私達は天気予報と言えば日本列島の地図の上に太陽や雲、雨のマークが付けてあるものがおなじみであるが、八重山群島と呼ばれるこの地では、海に点在する島々の間に天気マークが表示されている。そんな違いに新鮮な驚きを感じた。こうした場所で船で島々を回って選挙をするのはさぞや大変なことだろうと思う。しかもここは台風銀座である。選挙中、会場に行けなくなったり、家に戻れなくなったりもするのだろう。

中山義隆・石垣市長と私

 翌日午前中に石垣市役所を訪れ、中山義隆市長に挨拶をした。まだ若い45歳の市長さんであり、新空港開港を契機に故郷(ふるさと)を大きく飛躍させようという意気込みにあふれている様子が、話す言葉の端々に感じられた。
 午後5時が帰りの飛行機の出発(搭乗)時間である。その時間まで、石垣市の御好意で市の車で島内を案内してもらえることとなった。と言っても十分時間が無いので、とりあえず車で島を一周し、隣の竹富島まで行って帰るだけの日程となった。

石垣島

石垣島

 それにしても曇り空の下で眺めても美しいエメラルドグリーンの海を見ていると、こんな所で生活できる人がうらやましくなってくる。
 私は若い頃、スキン・ダイビング(素潜り)が好きで、深さ8mまで2分間くらいは平気で潜っていた。もちろん今は無理であろうが、一応、高校の元・水泳部である。

内田康宏

 ダイビングは、小学生の頃から足ヒレ、水中メガネ、シュノーケルを使っており、澄んだ水の中に漂う宇宙遊泳のような体感に魅せられてきた。中学生の頃には手製の水中銃で自ら採った魚を料理して食べていた。大学時代は毎年夏になると、かつての岡崎市育英会・東京学生寮の仲間達と伊豆七島を順番に巡ったもの である。ゴムボートで海岸線沿いに探検したシーンが、今も夢の中で回想されることがある。そういえば、寺田副市長も当時のメンバーの一人である。

 もし10歳若かったら今回も水泳パンツぐらいは持って来ていたかもしれない。老後はぜひこんな海のきれいな所で犬や猫に囲まれてのんびりと余生を送って暮らしたいと考えているが、結局は見果てぬ夢に終わることだろうと思う。

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2013年4月 4日 (木)

オイル・ロードを行く 第3回・第4回

内田康宏ホームページ - オイル・ロードを行く

内田康宏事務所からお知らせ申し上げます。

ホームページを更新しました。2000年の1月から3月まで東海愛知新聞に掲載されたコラム『オイル・ロードを行く』の続きをUPしました。
第3回「中央アジアの石油資源」と、第4回「たくましい日本女性」です。
内田市長の左の女性は、市長の遠い親戚にあたる中村千佳さんです。

内田康宏ホームページ - オイル・ロードを行く

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