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2013年3月

2013年3月31日 (日)

議会のヤジについて

 昨秋の選挙後、市政を担当することになって今回初めての年度予算を編成することとなった。これまでは、前市長が提案し、議会が決定した予算を執行していくことが基本的なものであったが、これからようやく私が掲げた選挙公約実現に向けての主体的行動がとれることになったと言える。それだけに責任は重い。公約のすべてではないが、限られた予算の中で今すぐとりかかれる事業については精一杯の対応努力はしたつもりである。
 私学助成の復活、予防接種事業の推進、防災マップの更新と全戸配布、太陽光発電の補助などの公約は予算化できた。
 矢作川・乙川のウォーターフロントを活用した町づくりも、国の「かわまちづくり支援制度」と連動する方向を示すことができ、市制100周年事業として考えているツインブリッジ構想についても美しい水辺空間を生かしつつ、岡崎の歴史遺産を活かした観光事業に結びつく橋にすることを考えている。
 ことに新年度の特筆すべき事業として、「岡崎活性化本部」の立ち上げがある。民間のすぐれたノウハウ、人材を活かし、そこに行政が協力する形でこれからの新しい岡崎づくりをスピーディーに進めていこうという事業である。「次の、新しい岡崎」に向けて今ようやく歩みを始めることができたと思っている。

岡崎市議会 平成25年3月定例会

 これで12月議会に続き、2回目の市議会を経験したことになる。ことに今回は新年度予算と人事案件を含めた中身の濃い議会でもあり、ようやく市役所と市議会というものの概要がつかめてきたような気がする。
 そんなことを書くと、「遅い!」と言われる方がいるかもしれないが、世の中の出来事はすべからく見ていてはわからず、その立場となり、自ら経験してみなくてはわからないことに満ちているものである。ことに首長と議員の立場の違いは大きい。日々耳に入ってくる情報量、随時、自己責任において判断、決断していかなくてはならないこと、そうした職責の違いについては、今もその都度新しい発見があり、慎重に対応の努力をしている。またそうした意識があるうちは大きな失敗はないと思う。自動車の運転と同じで、慣れてきたころがいちばん要注意であると自らを戒(いさ)めてもいる。

 かつての市議会のあり方についてはよくわからないが、現在の岡崎市議会の進行はまことにスムーズであり、各議員の対応も極めて紳士的である。野次ひとつ出ないことに新鮮な驚きすら感じている。(これはミクスのテレビ中継があるせいか?)
 私が県会議員時代、先輩議員の野次の鋭さにハッとしたり、とんちの効いた野次に場内が大爆笑に包まれるということがたびたびあった。野次ひとつで、一瞬にして議場内が凍りつくような緊張感が走ることもある。

愛知県議会 1991年

 新人議員のとき、先輩から「今年の一年生は、おとなしすぎる。もっとしっかりヤジれ!」という指導を受けたことがある。国会の一部の議員のような、下品で野卑な嫌がらせの野次は褒められないが、「野次は議会の華」という言葉があるように、物事の核心をついた気の利いた野次を、絶妙のタイミングで発するのは簡単なことではない。こんなことにもセンスと年季が要るのである。少なくとも、壇上にいる議員の質問の内容を聞いてじゅうぶん理解していなくては、野次も飛ばせない。であるから、先の先輩のアドバイスは、決して無法で的外れなものとは言えないのである。
 基本的に、議事録に野次は記載されることはないが(不規則発言のため)、中には芸術的、名人芸とも言える見事なものもあり、「これほどの野次が記録されないというのは、実に残念なことですね」などと同僚議員と思わず顔を見合わせてつぶやいてしまうこともあった。
 新聞の読者の投書欄などを見ると、「野次は見苦しい」、「生徒会を見習って」などとの記述を見かけることがあるが、これらは物の本質をわかっていない表層的な意見であるように感じられてならない。野次のあり方も、その国の文化レベルを計るモノサシのひとつと言えるのではないだろうか。

 私は以前、アメリカの大学にいた頃、イギリスの政治制度のコースを受講しているとき、英国議会の議事録と関連の書物を読んだことがあるが、民主主義の本家本元でも、随分えげつないやりとりをしていることがわかった。
 そうした激しい対立を、ウィットに富んだユーモアで包んで表現できることが「紳士のたしなみ」のひとつとして、かの国では発達してきたものではないかと思われる。だから、人間の評価基準のひとつとして「Sense of humor」のあるなしが社会的に重要視されるのである。推薦状などにおいて「彼はユーモアのセンスに優れている」というのは、最高の褒め言葉であるという。

 お上品な議会も時代の流れかもしれないが、かつて昭和の自民党の五大派閥・戦国時代の“激情国会”を秘書として垣間見、県会議員として諸先輩の見事な「闇を切り裂く刀の一閃」のような野次を体験してきた私としては少々さびしい気もする。
 かつて県議会において、自民党では、自党の新米議員を鍛えるために先輩が後輩をヤジる伝統があった。私もよくヤジられた一人である。例えば「なんだそれは! 青年の主張か。質問になっとらん!」とか「議員が知事にお願いや陳情、質問などするな!」などとよく言われたものだ。そうしたことがなくなって久しいが、私が県会議員の終わりのころには、ヤジられると壇上で右往左往してしまい、続けて話ができなくなってしまう議員がいた。「そんなこっちゃ、この業界で長生きできないよ」とヤジりたいのを我慢していたことを、ふと思い出す。

 私たちは平和な日常の中で忘れているが、考えてみれば政治とは、かつて「暴力」によって決定されていたことを、なるべく「話し合い」で折り合いをつけることから始まったものであり、その本質は利害関係の調整であり、本来「戦い」によって決着が付けられて来たものである。

 そういえば毛沢東は「政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治である」ということを言っていた。今も国家として、そのような古典的政治認識を持っている国が存在するという事実を、昨今の日本人が忘れかけていることに危惧の念を抱いている方も少なくないだろうと思う。

 市議会のことを書くつもりでいたのに、またしても大きく脱線してしまった。要するに、それほど今の岡崎市議会はきちんと運営されているということが言いたかったのである。

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2013年3月27日 (水)

翔南中学校、開校間近!(文部科学省エコスクールモデル校)

岡崎市立翔南中学校

 先日、新海議長、髙橋教育長ともども、この4月に市内20番目の中学校として誕生する、翔南中学校の現地視察に行って来た。噂には聞いていたが、一見して学校というより、まるで美術館のようなモダンな外観である。ガラス面の多い近代的で明るい建物であり、太陽光発電、コンピューターシステム対応、視聴覚など様々な機能が十二分に考え尽くされており、すべての面に渡って最新鋭の学校施設だと言える。最近の三河材活用の要請を受けたせいか、教室内には地元三河材がふんだんに使われており、外観のコンクリートとガラスの冷たさに対し、教室の中に温かみを感じさせる効果をもたらしている。各フロアも広々として余裕あるつくりとなっている。

岡崎市立翔南中学校

 階段は1Fから4Fまで吹き抜けであり、4Fの踊り場から紙ヒコーキでも飛ばしたら面白そうである。私の言葉をとらえて教育長は「そんなことやってもらったら困りますね」と言っていたが、私は「全校・紙ヒコーキ大会」でもやったらどうかと思う。個人戦で滞空時間を競ったり、中庭を使ってクラス対抗で飛距離を競ったり、きっと盛り上がることだろうと思う。学校は少しでも楽しいところにしたいものである。その代わり、普段は紙ヒコーキ禁止のルールにしてもいいだろう。

岡崎市立翔南中学校

岡崎市立翔南中学校

 4月の開校後は、きっとよそからの視察が絶えないことだろうと思われる。武道館は別棟であり、岡崎初の屋上プールとなっている。本棟の中庭は専門学校か大学のように整然としている。
 他地区、他校からはさぞかし羨ましがられることと思うが、校長先生の立場になると、新しい学校の管理のためにひと一倍神経を使うことになり大変とのことである。
 きっと「どうして、この学校だけに多額のお金をかけるのか?」という質問が出ると思うが、私が調べたところ、翔南中だけが特別扱いということはないそうである。同じ予算で造っても、新しい材料、新しい工法で新規に建設した方が良いものができるのは一般の家でも同じことである。
 新しくきれいなものが珍重されるのはいずこも同じであるが、若く器量の良い娘が必ずしも気立ても良いわけではなく、古女房の方が気が利いていて間に合うということもある。現在のこの学校の緑の少ない無機質な外観を見ていると、田舎の木造の古校舎の方に愛着を感じるのは私が年をとったせいなのかもしれないと思う。

 この地域は、JR岡崎駅まで徒歩で通える距離にあり、近くには岡崎南公園という大きな公園施設もある。翔南中学校の南隣には最近できたばかりの「医師会・はるさき健診センター」まである。駅に近くて大きな公園がそばにあり、信頼できる医師会の施設が隣にある。こうした好条件にあるせいか、翔南中学校の完成も相まって、この周辺の建売住宅は売り出すたびに完売となるそうである。
 今まで書いてきたことと矛盾するかもしれないが、もし子供が中学校の学齢期にあり、家を新しく建てる時期になっていたとしたら、この地域に引っ越してくるのはわるい選択ではないかもしれない、とも思う。

 岡崎市立翔南中学校
 岡崎市針崎町字春咲1番地2
 0564-71-1122(電話は平成25年4月1日に開設)

岡崎市立翔南中学校

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2013年3月23日 (土)

うちの猫 Ⅲ ―地域ネコについて―

 「うちの猫 Ⅱ」でボス猫キックについて書いているとき、「これをブログにアップしたら、たぶんどっかから文句が来そうだ」と感じてはいた。そのため文末で「間もなく彼の時代が終わることになる」と予防線を張って締めくくっておいたのだが、思わぬところからクレームが来た。保健所からである。
「たいへん面白い文章ですが、市長さんが○○つきの猫を飼っていると公言して頂いては困ります」
 ということらしい。もっともな話である。岡崎市役所の良いところは、おかしな点があれば市長に対しても直言してくれる優秀な職員がいるところだと感謝している。
 市議会の山崎憲伸(けんしん)市議からも「もしその猫が外で子供を作れば、その仔猫たちが悲劇の道を歩むことになる」と指摘された。この点私の考えが甘かったと反省している。同じように、山崎市議からは、以前から「岡崎で“地域猫政策”ができないものか?」という提言を頂いていた。

岡崎市動物総合センター「あにも」

 ちょうどよい機会であったので、市の動物総合センター「あにも」にご教授願うことにした。地域ぐるみでノラ猫の対策を行うという「地域猫政策」については、既に横浜や京都、東京の新宿区などで先例があった。地域で猫対策をすると一口に言っても、簡単なことではないようである。世の中にはそもそも動物が苦手な人、猫が嫌いな人、猫アレルギーの人もいるのである。少なくともそうした方を含めた地域の同意を得なくては地域における活動には移れないのである。
 そして同意ができた場合、まずすることは ①メス猫の避妊手術である。これには行政が関与することで地域の協力を得て、②捕獲檻による捕獲を行う。そして公費による避妊。③獣医医師会による協力。オス猫の去勢手術もやるべきであるが、とりあえずメス猫を先行する(メス猫が発情しなければオスはその気にならないそうである)。
 そうして猫の増加の可能性を減じる対策をした上で、地域の責任において ④公園などで給餌を行う。さらに ⑤猫のフン片づけも共同で行う(猫のフン砂場を設ける必要もある)。そうした費用は公共が補助を出すとしても、主体はあくまで地域で担うことになる(例・猫救済募金活動)。
 新宿区のケースでは公共が関与しすぎて、個々の飼い主が自分たちで避妊・去勢手術の義務を行わなくなり、却ってノラ猫が増えてしまったと思われる例もあるので要注意である。いずれにしても放っておけば、一匹のメス猫が1年に3匹の仔猫を産むとすれば、3年後には54匹以上になってしまう可能性もある。無事に生まれてきたとしても慢性的な飢えに苦しむことにもなる。今日の飽食の時代に、こんな残酷なこともないのである。

 ただ餌をやるだけでは、「地域猫対策」とは言えない。平均3年と言われるノラ猫の寿命をできるだけ穏やかに全うさせてやるためには、ほかにもすることがある。⑥冬場の家としての段ボール箱や毛布、雨除けビニールなどの用意。⑦病気や怪我をした猫の世話、などである。
 そこまで面倒を見る覚悟がなくては「地域猫政策」は成立しない。本当は各自で家猫として、家族の一員として面倒を見てほしいものである。

岡崎市動物総合センター「あにも」

 動物総合センターではやむをえず飼育不能となった犬猫などを引き取ることもおこなっております。くれぐれも終生飼育と肝に銘じ、捨て犬、捨て猫にはしないで頂きたいと願います。今後岡崎市としてもより良い「新しい家族さがし」にするための努力をして参りたいと思っております。
 さらに東日本大震災の教訓として、「災害時のペット対策」ということも考えなくてはなりません。ペットを自分の子供のように思って暮らしている人は少なくありません。災害時にペットだけ置いて家を離れることができず、ペットともども命を亡くされた人もいます。避難所によってペットの受け入れ態勢のできているところと、できていないところがあります。これからはペット用の避難設備、食料、水の備蓄も必要となります。
 少なくとも、ペット個別のケージくらいは自分で用意しておきたいものです。これは緊急時には段ボール箱でも代用できるはずです。餌も各自で2、3日分は整えておきたいものです。

 岡崎市には「市民の声リスト」という資料があり、定期に私の机の上にも回ってきます。その中に「複数の猫を飼うのに注意することは?」という質問がありました。猫は犬のように集団生活になじむ個体ばかりではなく、後から来た仔猫ばかり可愛がっていると前からいた猫が出て行ってしまうということがありますので、同じように可愛がってやることが必要だと思います。
 犬は家族の中で誰がボスかということを見ているように序列を大切にする動物ですので、長くいる先輩犬の方から餌も与えるようにした方がいいと思います。

 ほかにご質問がありましたら、私よりも岡崎市動物総合センター「あにも」0564-27-0444までお尋ねいただきたいと思います。獣医師をはじめ担当職員が親切に相談に乗ってくれます。
(今日はまじめに書きました。面白くなくてすみません。)

追伸
 「うちの猫 Ⅱ」で、「うちの嫁さんは愛猫の失踪に心配のあまり夜も寝られず、昼寝していた」と書いたところ、嫁さんから厳重抗議が来た! 実際は彼女はインフルエンザで寝ていたのであります。ここに謹んで訂正させて頂きます。

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2013年3月20日 (水)

『リバ!』2013年4月号

『リバ!』2013年4月号

内田康宏事務所からご案内申し上げます。

『リバ!』4月号(3月20日発行)掲載の内田市長のコラムは、特集にちなんで「内田家の犬と猫」です。ブログからの転載ですが、機会がありましたらぜひ一度お読み下さい。

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2013年3月17日 (日)

城南小学校の子供たち(多文化共生子ども会議)

岡崎市立城南小学校

 JR岡崎駅の西北辺りに「城南小学校」という小学校がある。周辺はかつて農村地帯であったころからの地元住民と、新興住宅地域となってからの新しい岡崎市民が混在している。
 この学校の特徴のひとつは周囲に県営住宅があるという条件のせいか、市内でいちばん多くの外国籍の児童が学んでいる点である。
 なぜか私は県会議員時代からこの学校と縁が深く、歴代の校長先生始め、地域の皆さんともたいへん親しくお付き合いさせて頂いている。児童ばかりでなく先生方も、校長先生始め海外赴任の経験者がおられ、校内の雰囲気も他校とは一風変わっている。
 まず最初に気が付くことは、校内の各種表示・標語が日本語だけではないことである。日本語、英語、中国語、ポルトガル語(ブラジル)の四か国語で表示されている。現在471人の児童のうち、40人が外国籍の子供だそうである。運動会や文化祭では各国語で場内アナウンスがされており、ママさんバレーや各種スポーツ大会も国際色豊かである。
 名古屋のアメリカンスクールにわざわざ通わなくても、この学校では外国の様々な言葉や文化を岡崎にいながらにして学ぶことができる。

岡崎市立城南小学校

 私は県会議員のときから、この城南小学校のことを文教委員会などで「岡崎にはこんなにユニークな学校がある」と紹介してきたものであるが、1月22日に城南小から「多文化共生子ども会議」の皆さん22人が市役所を訪ねて来てくれた。その中にはブラジル、中国、フィリピン国籍の親を持つ子供たちもいた。この会議はいろいろな国から来た子供たちが、日本人の児童と共にお互いを理解し合い、仲良く助け合って学校生活を送れるように活動しているという。
 ときには学校の外から、タガログ語(フィリピン)、ペルシャ語(イラン)、ロシア語などの通訳ができる人も手伝いに来ることがあるそうである。
 そうした長年の城南小学校の活動が国際的にも認められて、昨年国連から「ユネスコ・スクール」に登録されたそうである。

 子ども会議の子供たちを前にして私は、「世界には、様々な文化、習慣、言葉を持った異なる人種がたくさんいますが、それぞれ違いはあっても同じ人間であり、親しくなってみると同じようなことを考えて生きていることがわかります。皆さんの力で平和で戦争のない世界を作って下さい」という話をした。私が「質問があったら何でもしていいよ」と言ったところ、子供たちは次から次へとこだわりのない質問をして来た。子供たちのペースに乗せられてついつい昔のアマゾン探検の話や、中東歴訪の話をしてしまった。本当はもっと愉快で面白い話もあったのだが、子供にどこまで喋るべきかというのは本当に難しいものである。
 いずれにしても、岡崎にこうした小学校があるというのはうれしいことである。これからの城南小学校の子供たち、並びに先生、ご父兄の皆さんのさらなる健闘に期待している。

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2013年3月13日 (水)

城北中学・ロボコン・全国制覇!

岡崎市立城北中学校の生徒たち

 2月早々、嬉しいニュースが飛び込んで来た。1月末に東京で行われた「全国中学生創造ものづくり教育フェア・アイデアロボットコンテスト」(全国ロボコン)において、我が母校城北中学の後輩たちが優勝、3位、5位、さらにプレゼン賞まで獲得する快挙を成し遂げたのである。
 その彼らが2月7日、わざわざ私を訪ねて市役所まで凱旋報告に来てくれた。

 私は高校生のロボコンの大会を、よくNHKの深夜番組で見ることがあるが、正直言って中学生にもロボコンがあることを今回まで知らなかった。
 彼らは校内の予選で選抜され、県大会で3台がベスト4入りし、東海北陸大会では1位、2位、3位を城北中が独占した。そして全国大会では32台中、城北Bが優勝、城北Kが3位、城北Aが5位となった。城北Aはプレゼン賞も受賞したそうである。私もかつて、第1回の城北科学賞の受賞者の一人であるが、彼らの方が何百倍もすごい成果である。
 城北中学校では技術家庭科の授業で、ひとり一台ずつロボットづくりを学んでいるそうだ。そうした全体的な底上げの競争がこうした大きな成果となって実ったのではないかと思っている。

 言うまでもなく、この愛知県はモノづくりの県である。このところ日本の製造業は、世界経済の不安定な動向の中で苦しんでいるが、世界の主要な工業製品の中で、自動車でも飛行機でも家電においても、日本の技術力なしに成立しているものはほとんどないと言える。
 将来、こうしたモノづくりの分野の日本の屋台骨を担う人材が城北中教育の取り組みの中から生まれてくることを強く期待するものである。またほかの学校も城北に負けずにチャレンジして欲しいものである。そうした相互の切磋琢磨が次の世代をより高い次元に導いてくれることになると思う。

 会見の最後に私は、「よその学校は、ビッグクロスだとかバルジ3号とか白虎というように強そうなチーム名を付けているのに、なぜ君たちは城北A、城北B、城北Kという地味な名前を付けたの? そして、どうして城北Cでなくて、Kなの?」という馬鹿な質問をしてしまった。
 答えは、ご存じ、AKB であった。
 またしても私は、年齢の壁を超えることができなかったのである。

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2013年3月12日 (火)

講演会の心得

 「次の、新しい岡崎へ」という表題で、この1月に8回以上講演をさせて頂きました。
 岡崎商工会議所、日韓親善協会、岡崎鉄工会、岡崎南ロータリークラブ、岡崎倫理法人会、岡崎建具組合、岡崎青経連、政経同友会など。また、各地域の会合等でも、時間はそれぞれでありましたが、お話をさせて頂けたことに対し、改めてこの機会に御礼を申し上げます。
(内容については、たびたびホームページやブログで触れているのでここでは書きません。)
 私の思い描く岡崎の将来計画については、昨年10月の市長選挙までの活動や衆議院選挙、12月議会における所信表明と答弁、1月1日の岡崎市新年交礼会などでも披露させて頂きました。また、何回も新聞紙上で記事として取り上げて頂きました。

日韓親善協会

新年交礼会

 選挙中の演説会や街頭演説の時間まで含めると、かなりの数の人の前でお話をして来たはずだし、ホームページやブログにおいても何回も触れてきたので、もう十分市民の方々に認知されて来ているだろうと思っていた。ところが、このところ様々な機会を得て、個々の方々とリバーフロント計画、ツインブリッジ構想、歴史観光等の話をしてみて、理解されてきたと思うのは私の勝手な思い込みであり、まだまだ個別のプランの名前さえも知られていないのだということが分かってきた。
 しかし、これは、冷静に考えてみれば当たり前のことである。

 我々は学校の授業のように、きちんと聴いてノートをとっていなければ後で自分が試験に困るような話ですらまともに聞いていないことがある。教科が苦手、教師が嫌い、話が面白くない、そもそも興味がない、眠たかった、などなど様々な理由で聴くべき話を聞いてすらいないことは日常茶飯事である。
 ことにうちの嫁さんのまわりくどい世間のよもやま話など、生返事はしているがほとんどまともに聞いていない。
 そういう我が身の実態を振り返ってみれば、どこの何者かわからない、我が意にそぐわないことを言っている政治家の話など、誰が真剣に聞くだろうか? そのことを再認識して広報活動というものの原点に立たなくてはならないと自己反省している。
 そもそも話をする側が、いくら論理的に誠実に話をしようとしても、政治的に敵対する立場に属する人たち、利害的に違うものを求めている人々はハナから相手の言うことを聞く気はないし、理解しようとする意志はさらにない。話に耳を傾けるときがあるとすれば、相手を攻撃するための材料を探すためである。これが政治的世界の実態である。(政治的世界とは政治家のことだけを言っているのではない。念のため。)
 相互理解のためには、まず共感と信頼が前提になくては、それこそ「オハナシにならない」ということである。

 また、私は情報発信をする場合、基本は「中学二年生にわかる話」といつも心がけている。相手が理解できなければ、いくら高度な話であっても、自己満足に終わるからである。
「社会の教育レベルが上がれば、大衆のレベルも上がっている」という考えが幻想にすぎないことは、かつてのワイマール憲法下のドイツ共和国におけるナチズムの躍進の例を見るまでもなく、昨今の日本の政情を見ればよくわかるはずだ。
 将来展望の定まらない不安定な社会を反映してか、大衆の動向は右から左へ、左から右へとぶれ幅は大きく、不定見である。これは、決して大衆社会を見下して言っていることではない。しかし個人的にいくら知的レベルの高い人、個々で専門的に高度な知的活動をおこなっている人であっても、こと情報化社会における大衆の一員となったとき、その埒外に我が身を置いて、冷静に物事を判断することは至難の技となる。

「我々、政治を生業(なりわい)とする者はそのことを忘れず、決して幻想にとらわれず、あくまでリアリストでなくてはならない」と自分自身に言い聞かせている。
 今後、こうした現況を打開するために、4月からの「市民対話集会」に力を入れ、夏頃には「私のつくるツイン・ブリッジ」という題で絵と作文のコンテストをやったらどうかと考えている。

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2013年3月 9日 (土)

道の駅「藤川宿」OPEN

道の駅「藤川宿」

 去年の12月9日にオープンした国道一号の沿線にある道の駅「藤川宿」(ふじかわしゅく)は、開駅してから2ヶ月ほどで47万人以上の方にご利用いただき、大盛況であります。おいでになった皆様方に心から感謝申し上げます。

 施設内では、全国各地からの来訪者に地元の特産品である「むらさき麦」を使った軽食の提供をしたり、地元の農産物や特産品の紹介や販売をしております。岡崎市としましては、これらを市の内外に積極的に情報発信をして、この地を訪れて頂くためのきっかけづくりにしたいと考えております。また、藤川宿には篤志家から寄贈された高さ三メートル近い徳川家康公の石彫の像も建てられており、一見の価値があります。この藤川宿は岡崎の東部の玄関、新しい顔として岡崎の持つ歴史遺産や文化をPRしてくれる場となることが期待されています。

道の駅「藤川宿」

道の駅「藤川宿」

 さらに藤川宿は国道一号に面しているという立地を生かし、愛知県内の道の駅では初めてとなる太陽光発電の採用や防災トイレ、非常用発電機、電気自動車の充電施設の設置といった防災対応もなされております。
 これはこの地域のみならず、近隣の市町村ひいては愛知県内、東海地方にも及ぶ広域支援のための拠点施設としての役割も果たします。
 また市内の四か所の地域にある地域交流センター(なごみん、よりなん、やはぎかん、むらさきかん)においても、地域支援のためのコミュニティ防災拠点としての活用ができるようになっております。

 開駅してしばらく経つと、さまざまな問題点がわかってきます。当初これほどの盛況になるとは予測しておらず、車の出入りでご迷惑をかけているようであります。オープン当日にも「将来もうひとつ出入り口が必要になるのではないか」と担当者に話していたものですが、それがこれほど早く現実になるとは思いませんでした。ただ、開駅早々のご祝儀というともありますので、しばらくは様子を見させていただきたいと思っております。
 個別の案件ではお客様が多すぎて、食べるものがなくなってしまったり、五平餅がしっかり焼いていないという苦情も聞いております。これらもすべて予想以上の盛況がもたらした結果であり、お詫び申し上げるとともに、今後はしっかり対策をとっていきたいと考えております。

 道の駅「藤川宿」ホームページ

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2013年3月 6日 (水)

ボーイスカウト、備えよ、常に!

ボーイスカウト

 岡崎市長になると、様々な団体組織の会長、顧問と称して約125あまりの諸団体の役職につくことになっている。去る1月20日、さらにボーイスカウト三河葵地区の名誉協議会長に就任することと相なった。
 他の団体のときはそれほどでもなかったが、ボーイスカウトと聞くと何かとても懐かしい気持ちでいっぱいとなる。実は私もOBの一人である。

 小学校4年生から中学2年の途中まで足かけ5年近くボーイスカウトでお世話になった。昭和30年代の中ごろというのは、ちょうどボーイスカウト運動の盛んな時代であり、私の町内の子供会の男坊主はこぞって入隊したものである。今から思うと、まるで徴兵されたかのようだった。

ボーイスカウト 岡崎第9団(旧)

ボーイスカウト 岡崎第9団(旧)

 最近はスパルタ教育が批判されているが、当時は鉄拳制裁もあった。わがままなクソ坊主であった私が曲がりなりにも人並みになれた?のはボーイスカウトのおかげだと思っている。今でも手旗信号やロープワークはできる。
 当時の隊長の口癖であった「自分のことは自分でやる」「備えよ、常に」というスローガンは今でもすぐに思い出すが、三つの誓いと十二の掟はうろ覚えとなってしまっている。
 私の所属していたかつての第9団の神部(かんべ)隊長は、旧帝国陸軍航空隊の生き残りで、戦争中は「呑龍(どんりゅう)」という重爆撃機の機銃手であった。キャンプに行くとテントの中では必ず戦争の話であった。イギリスの戦闘機スピットファイアーがどんな爆音と機銃音をさせて攻撃して来るかと、自らの口で音を真似しながら臨場感豊かに空中戦闘場面を再現してくれた。今考えると戦闘中の爆撃機の中で、相手の戦闘機の爆音や銃撃音がどこまで正確に識別できたか疑問であるが、何せ子供時代のことである、耳をそばだてて真剣に聴いていたものである。
 私が県会議員のとき同僚から軍事オタクと呼ばれた素地は、この頃養われたものかもしれないと思う。
 その頃、ボーイスカウトの先輩の何人かが少年自衛官として自衛隊に入隊したことがあった。中学を卒業して自衛隊に入隊すると、訓練をしながら高校卒業の資格がもらえたのである。ときどき帰省報告に来た先輩の自衛隊の制服姿が子供心に凛々しく、まぶしく見えたものだ。
 近眼になりあきらめたが、私も高校2年生までは密かに戦闘機のパイロットになりたいと思っていた。

 当時は全市のボーイスカウトで毎年運動会ができるほどであったが、現在は時代も大きく変わり、ボーイスカウトにかつての華やかさはうかがえない。個人的な思いであるが、その理由の一つはテンガロンハットをやめてベレー帽にしたせいではないかと思う。申し訳ないが、あれは冴えない。売れない画家か緑のおじさんに見える。でかくて邪魔に思う人がいるかもしれないが、かつてのわんぱく坊主たちは、あのテンガロンハットがかぶりたくてボーイスカウトに入ったようなものである。おりしも当時のテレビ番組は「ローハイド」「ララミー牧場」「ライフルマン」「拳銃無宿」「ガンスモーク」「シャイアン」「ブロンコ・ビリー」など西部劇のオンパレードでもあった。うちに帰ると、ボーイスカウトのかっこうのまま腰に拳銃をぶら下げて公園に遊びに行ったものである。今言うと「馬鹿か」と思われるかもしれないが、銀玉鉄砲で早撃ち競争や決闘ごっこをしたこともある。

 今回の会長就任にあたって、何十年かぶりで、昔の幼馴染や先輩とお会いすることができて、本当に懐かしかった。かつての紅顔の美少年も?今や皆いいおじさん、おじいさんとなっていた。大変面白かったのは、今もって、ほとんどの者が日常小型ナイフを手放せないことが分かったことである。まさに「備えよ、常に」の精神は今日も生きていた。


ボーイスカウト気質とDO IT YOURSELF (2017.06.12)

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2013年3月 4日 (月)

上様のおな~り Ⅱ

 先々月に書いた文章(「上様のおな~り Ⅰ」)を読み直してみて、ひょっとすると徳川恒孝(つねなり)さんが今もまだちょんまげ姿で生活していると勘違いしてしまった人がいるかもれしないと思い、再びペンをとっている。

岡崎公園 徳川家康公

 現在、徳川恒孝氏は昭和15年(1940年)生まれの72歳。
 かつて会津松平家の次男であり、本来は松平姓であった。昭和38年に17代徳川家正氏(外祖父)の死去により、養子であった恒孝氏が第18代の当主になったそうである。恒孝氏は長身でスマートな紳士であり、もちろんちょんまげなど無い。
 平成15年から、財団法人「徳川記念財団」の理事長として現在に至っている。また、静岡商工会議所の最高顧問でもある。国内における徳川家にまつわる行事には積極的に出席されており、岡崎も家康公生誕の地ということで様々にお世話になっている。徳川家の当主としての祭祀の折には、正式に古来の束帯姿で威儀を正して東照宮などへ出かけられるそうである。以前は日本郵船に勤務されており、同社の副社長を経て、顧問に就任されている。

 若かりし頃の話で面白いエピソードがあるので、ひとつ披露させていただく。
 当時日本郵船には、加賀の前田家第18代前田利祐(としやす)氏が、本社の同じ部署に勤務されていたそうである。そのときの上司が、
「徳川と前田両家の当主を部下として使うのは、太閤秀吉以来、俺ぐらいのものだろうな」
 と笑ったという逸話がある。
 また、現在翻訳家として活躍してみえる長男の家広氏がベトナム人の女性と結婚したとき猛反対したという、世間でよくあるような話も聞いている。しかし最終的にはそれを認められ、開明的な判断をされる方でもある。奥様は寺島宗則伯爵の曾孫であり、元首相細川護熙氏のいとこだそうである。ちなみに熊本の細川家も出自は岡崎の細川町であるという。事実、細川首相が退任されたのち平成7年10月28日、細川町の蓮性院常久寺における法要にお見えになっている。そのときの記念碑もある。

 毎年春と秋に大平町で行われる大岡稲荷の祭礼には私も毎回出席しているが、大岡家の現在の当主が必ず東京からおみえになる。大岡越前公(江戸町奉行、大名)の第18代の大岡秀朗さんは私と同年輩である。現在メルセデス・ベンツ日本(株)の常務取締役で毎年一年の3分の1はドイツに出かけてみえる多忙な方であるが、よほどのことがない限り毎回岡崎にみえる。この人も東京風インテリ・イケメンである。大岡稲荷の改修工事の折には、多額の寄付をして頂いている。

 本多平八郎公につながる旧本多忠次邸を本市に寄付して頂いた本多家の皆さんは、今もよく家族で岡崎までおみえになることがある。子供のころ自らが暮らした家が、遠く父祖の地で再建されて活用されていることを大変喜んでみえたのが印象的である。お兄さんは学者のように物静かな方であるが、妹さんの本多葵美子(きみこ)さんは大変気さくで筆まめな方で、今もよくお手紙を下さる。口癖は「私は江戸っ子ですから」であり、さすが闘将本多平八郎の子孫である、全日本女子アマチュア・ボクシング大会において上位に入賞する猛者である。しかも学習院大学資料館の学芸員というインテリでもある。

 このほかにも商工会議所の出している観光ガイドブックにある「大名となった三河武士たち」の記事を見ると、江戸期に三河から60家ほどの大名が誕生しており、全国で活躍していることが分かる。
 こうして再び書いてみて改めて思うことは、徳川家康公が苦難の末に江戸幕府を開かれたことによって岡崎人の血が全国に伝わり、今日の日本人の考え方、行動、気質に三河的な影響を与える一因となってきたのではないかと感じている。私たちはもっとこの故郷と岡崎的なことを誇りに思ってしかるべきであると思う。

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2013年3月 2日 (土)

オイル・ロードを行く 第1回・第2回

オイル・ロードを行く

内田康宏事務所からご案内申し上げます。

内田市長は県議時代の1999年10月下旬、名古屋港管理組合議会の副議長として、中東地域、東南アジア等の港湾都市を11日間視察しました。ウクライナ、トルコ、クウェート、アラブ首長国連邦、マレーシアの各国で調査をしたその記録報告を、翌年、東海愛知新聞紙上(2000年1月19日~3月4日連載)にて発表しました。
24回にわたって連載されたコラム『オイル・ロードを行く』の中から9編を選んで、これから随時ホームページに掲載して行きます。お時間のあるときにお読み下さいまいよう、よろしくお願いします。

第1回「はじめに」と、第2回「オデッサ港湾局訪問」をまずは掲載しました。

内田康宏ホームページ - オイル・ロードを行く

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