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2013年1月

2013年1月31日 (木)

上様のおな~り Ⅰ

 岡崎は徳川の発祥の地(家康公の生誕地)であるが、それは過去にとどまらない。現在もなお岡崎市は、家康公検定や大樹寺の法要を始めさまざまな関連行事に徳川家・第18代の徳川恒孝(つねなり)さんにご出席して頂いている。
 また大平町にある大岡稲荷社には、毎年春と秋の祭礼に大岡越前(江戸町奉行、のちに大名)第15代の大岡秀朗(ひであき)さんがお見えになっている。
 昨年OPENした「旧本多忠次邸」の先祖、本多平八郎の一門の皆さんも、岡崎には頻繁に来訪されている。
 岡崎は今もいにしえの歴史と深いつながりのある町であると言える。そのことを十分知っているつもりの私でも、ときどき驚く出来事がある。

 最近は「何とか維新」とか「○○維新の会」というのが進歩的なイメージとして使われ、流行っているが、先の大戦前までは明治維新の推進母体であった薩長(鹿児島県と山口県)グループが軍閥や政治閥の元凶として陰口を叩かれていたこともあった。そうした体制に反旗を掲げた2・26事件の反乱軍将兵が唱えていたのが「昭和維新」であったのは皮肉である。
 どちらにしても明治の御維新で古い幕藩体制は崩壊し、徳川の勢力は影も形もなくなってしまったかのように思われがちであるが、どっこい歴史はそんなに単純なものではないようである。信長が本能寺で暗殺され、秀吉の時代となり、徳川幕府が成立し織田の一族の影は薄くなったが、信長の妹のお市の方(浅井長政の妻)の三女、お江が二代将軍秀忠の妻となり、血脈はつながっている。
 徳川幕府も江戸無血開城のおかげで、大阪城の二の舞は踏まずに済んだものの全体で800万石とも言われた石高が静岡の70万石に限定され、旗本が娘を奉公や身売りに出すような苦難のときを経た。そのことによって逆に旧幕臣たちの団結心が強まったせいなのか、現在もその絆は生きているようだ。

 先年、大樹寺の法要の折、出席予定であったメインゲストの徳川恒孝氏が急に欠席することとなり、電報が届いたことがある。
「残念ながら、急遽、関東幕臣会議が開かれることとなり大樹寺の法要に出席できなくなりました――」
 との内容であった。不埒にも私は「プーッ」と噴き出してしまい、思わず隣の人に「いまどき、幕臣会議だって・・・」と小声で言ってしまったところ、前列の方のおじいさんたちから怖い顔でにらまれてしまった。

徳川恒孝さん

 一般人の私たちに縁がないだけのことであって、今も天皇家と公家の子孫の人間関係が形を変えて残っているように、かつての武家の名門たちも形を変え現代に生き残っているのである。婚姻関係もそうした範疇で行われることが多いと聞いている。
 徳川恒孝氏が岡崎にお見えになったとき、どういうわけだか県議時代からわたくしが接待役をおおせつかることが何度もあった。その折に幕臣会議のことを恒孝氏にお尋ねしたところ、
「確かに関東だけでなく全国でもやっているけれど、うちは同窓会のように和やかにやっていますよ。しかし島津さん(鹿児島)のところはもっときっちりやってみえるそうですよ。今でも正月などに旧家臣団の子孫が集まると席の序列は今どんな職業についていようと、かつての先祖の地位の順番だそうです」とのお話であった。

 また、その徳川恒孝氏が大樹寺にお見えになるとき、大樹寺の住職やお寺の世話役の方たちが恒孝さんのことを「上様」とか「御前様」と呼んでおり、ぶったまげてしまった。まるで江戸時代に戻ったような気分であった。それまで気楽に「さん付け」で話をしていたが、私も「上様」と言わなければいけないのかどうか気になってしまった。気になり出すと今までのように気楽に話ができなくなってくる。改めて考えてみれば世が世であれば、徳川幕府の将軍職についていらっしゃる方である。とてもこんなふうに気楽に話のできる立場ではないだろう。

 ついでにもうひとつ述べるならば、徳川本家の徳川の「徳」の字は本物ではない。ぎょうにんべんを書いて、隣に「十」の字を書いて、下に「四」を書く。ここまでは同じだが、「四」とその下の「心」の間に「一」の字が入る。

徳

 私はたまたまそのことを本で読んで知っていたので、名刺を頂いたときにその話をしたところ、
「そのことに気付く人はあまりいませんし、正しい『とく』の字で年賀状を書いて来る人も年々少なくなってきました」
 と言ってみえた。

 私たちはふだん自分たちの目の前の出来事の中でしか物事を考えて生きていない。しかし一度立ち止まってまわりをゆっくり見まわしてみると歴史的な問題も含め、いろいろなものが見えてくる。そんなものを発見したとき何かとても愉快な気がしてくる。

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上様のおな~り Ⅱ (2013.03.04)

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2013年1月28日 (月)

「お地元」と「ご地元」

内田康宏事務所(小呂町)

 選挙前、後援会入会等の説明をするのはうちの秘書の井戸田くんの役目である。その彼が演説会の会場でしきりに、
ご地元の皆様に内田康宏をよろしくお願いしていただきたい」
 という言葉を使っていた。あまりいつものことで気になっていたので、あるとき事務所に帰ってから確信を込めて彼にこう言った。
「ゴジラが出たわけではあるまいに、ご地元はない。お地元というものだ」

 ところが市長に当選してから、役所で様々な報告を受けたり地域に出向いた会合の席で、市の職員がやはり同様に「ご地元、ご地元」という言い方をする。お節介な私はまたしても秘書課の職員を呼んで苦言を呈した。
 そうしたらしばらくしてその職員が、インターネットを使って「お地元、ご地元どちらが正しいか」という問いかけをしてくれた。役所というところはそんなことまでこんな調べ方をするのか、と思った。

 その結果なんたることか。「ご地元」の方が多数派であることがわかった。実際はどちらの用法も間違ってないそうであるが、これは私にとって衝撃の事実であった。かつて私が中学生のころ東京に修学旅行に行って朝の味噌汁が白味噌であることに驚いてカルチャーショックを受けたときのことによく似ている。そのときまで私は、赤味噌がマイノリティー(少数派)であり全国的に見て白味噌あるいは合わせ味噌の方がマジョリティー(多数派)であるとは知らなかったのである。

 味噌の一件は仕方ないが、私は今でも「お地元」が正しいと信じている。

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2013年1月24日 (木)

またやっちまった! Ⅰ

 私はいわば結婚記念日恐怖症である。
 新婚当初のころは、毎年名古屋で外食し、劇団四季のミュージカルを観に行くという約束をきちんと守っていたが、それも三回くらいのことで長男が生まれてからはいつしか沙汰やみとなってしまった。それでもときには覚えていて、花など買って帰ったこともあったが、このところ忙しすぎて、つい忘れてしまうことが多い。何せ自分の誕生日も忘れているくらいだ。
 ことに5年前は最悪であった。夜遅くまで会合続きで少々疲れていた。人は疲れると、甘い物が食べたくなるものである。コンビニでプリン付きのカップケーキを買って帰り、11時すぎごろ、テレビを見ながら一人で食べていた(うちの女たちは甘い物が嫌い)。
 しばらくして、うしろで頭をつつく奴がいる。乾いた声で、
「今日は何の日か知ってる?」
 と言う。
 ようやく誰の声だかわかったが、何のことやらさっぱりわからない。
「真珠湾攻撃は12月7日だし・・・?」
「今日は12月11日ですよ」
 そこまで来てようやく結婚記念日であることを思い出した。しかも間の悪いことに25周年の銀婚式である。先月までは覚えていたのに忘れてしまっていた。
 友人の話を聞くと、奥さんがこうした記念日をとても大切にしていて、
「僕の場合、『忘れたら命はない』か『帰宅したときに猫しか待っていない』ということになりかねない」と言われた。
 隣で見ていた娘からは「サイテー」と言われるし、まったくとんでもない日であった。

 このときのことを教訓に30周年のときは絶対に忘れないようにしようと思い、先月手帳に赤い字で記入しておいた。
 今回も一か月前まではちゃんと覚えていたのだ。
 ところがである。「また、やっちまった!」のである。

岡崎市長選挙(2012年10月21日)

 10月21日に自分の選挙が終わって、「皆様のおかげで当選することができました――」と言っているうちに新しい職務が始まり、最初の議会と共に衆議院の解散、総選挙、ということに相なった。
 我々、政治を職業とする者は、選挙や議会のときには「親の死に目にも会えない覚悟をしろ」と言われている。しかし、今どきそんなことが通用する時代ではないこともわかっている。

 当日は某衆議院議員候補の総決起大会であった。無事大会が終わり、選挙事務所に顔を出してからうちに帰ると、再び「結婚記念日おめでとう」という乾いた声が響いて来た。まるで「番町皿屋敷」の皿を数えるお菊の声のようだ。何とも言い訳のしようがない。
 しかし、現在、給与も手当もボーナスもすべて彼女の管理する私の銀行口座に振り込まれている身の上としては、そのくらい大目に見てもらわねばやっていられないと思う。まあそれにしても、本当に「また、やっちまった!」である。

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またやっちまった! Ⅱ (2013.02.03)

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2013年1月22日 (火)

『リバ!』2013年2月号

『リバ!』2013年2月号

内田康宏事務所からお知らせ申し上げます。

「食 'nouveau さん太」の神谷知秀さんと「キブン・デ・サチオ」の太田幸男さんの表紙がまぶしい『リバ!』2月号に、内田市長のコラムの第2回が掲載されました。
「内田やすひろクロニクル その2 愛知県会議員に初当選」です。
『リバ!』は株式会社リバーシブルから発行されている、無料のタウン誌です。

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2013年1月21日 (月)

愛知県更生保護大会が行われました

 11月21日(水)。
 岡崎中央総合公園の武道館で、「愛知県更生保護大会」が行われました。
 この大会が岡崎市で開催されたのはほぼ20年ぶりとのことです。愛知県中から保護司、更生保護女性の会などの会員約1500人が出席されました。

愛知県更生保護大会

「本日お集まりいただきました皆様方は、罪を犯した人たちや非行に走った少年たちを立ち直らせて社会に復帰させるほか、事前に犯罪を防ぐための予防活動なども献身的に取り組まれておられます。更生保護事業の発展や社会を明るくする運動に大きく寄与いただいており、感謝に堪えません。
 犯罪を生まない社会を築くためには、犯罪者を更生させ、彼らを市民社会の健全な構成員として組み込んでいかなくてはなりません。そのような共生社会の実現に向けて、皆様方のお力をお借りして、これからもこの事業を推進していかなくてはならないと考えております。よろしくお願い申し上げます」

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2013年1月16日 (水)

消防自動車、ミャンマーへ

 岡崎には、松井幸彦(ゆきひこ)先生という元校長先生がおみえになる。
 この方は以前、ミャンマー(ビルマ)のラングーンの日本人学校に2年間赴任しておられたこともあり、その縁で今もミャンマーに小学校を作る運動や古くなった消防自動車を日本から送る慈善活動に挺身してみえる。

ヤンゴン市 消防本部にて

 ミャンマーの子供たちの多くは貧しくて学校に行けず、現地の学校の多くも古くて雨漏りしたり床板が抜けていたからだそうである。教育者としてこれはなんとか改善できないかと思ったのが、松井先生がこうした運動にかかわることになったきっかけだそうである。不思議な縁であるが、私がお世話になっている安倍晋三総理大臣の奥様の昭恵さんも、この同じ運動を通じて松井先生と親交があった。
「安倍昭恵のスマイルトーク」 2009年3月28日参照)

 また松井先生は、赴任していた日本人学校の近くに日本人墓地があり、荒れ放題になっている状況を情けなく思い、自力でばらばらになっていた墓石を復元し、さらにうずもれていた日本兵の遺骨4万数千柱の調査をすすめられた。その結果ご本人が急性肝炎となり入院したこともあるそうだ。
 太平洋戦争中のかつてビルマと呼ばれたころ、この地には多くの日本兵が駐屯していた。インドのイギリス軍たちと戦うためであった。しかしインパール作戦の失敗を経て日本が敗戦に至り、日本人の生存者の多くは本国に帰ったが、帰国せずに現地に残って住みついた日本兵も少なからずいたと聞いている。松井先生もそうした人と会ったことがあるそうである。

 私も15年ほど前に東南アジアを回ってミャンマーを訪れたことがある。
 そのときに日の丸をつけた観光バスで市場の視察にでかけたことがあった。私たちがバスを降りて市場を歩きまわっているとき遠くの木の陰からこちらを見つめている老人がいた。顔つきが現地人らしくなくてずっと気になっていた。私たちが市場の見学を終えてバスに乗って出発しようとしたとき、その老人が私たちのバスの方を向いて敬礼をしていた。そのときにその老人に声をかけなかったことが今でも心残りになっている。
 ミャンマーというと私はすぐにそのときのことを思い出す。

 話を本題に戻すが、松井先生からは私が県会議員のときにも、「古くなった消防自動車を提供してくれる県下の自治体を紹介してほしい」という要望をされていたが、当時、岡崎市はNOx規制法に抵触する車を外国に出すことはできないという見解で協力してもらうことができなかった。
 ミャンマーでは、乾季に出火すると大火事になって多くの人命が失われているという。とりあえず何とか廃車になる消防自動車を困っている国の人々のために送ることができないだろうか、と考えていた。

 今回、私が市長になって消防本部と話し合った結果、今度は車を供出してもらうことができることになった。平成24年度で岡崎市では5台の消防特殊車両が廃車となる。そのうちの4台をミャンマーに送ることができるように現在譲渡手続きを始めているところである。
 こうしたことで松井先生の努力が実り、少しでも火事の被害が軽減され、不幸になる人が少なくなれば幸いである。今後ともできる限りこの運動には協力していきたいと考えている。

(注・その後、2013年8月2日に消防車両の引き渡しは無事行われました。「ミャンマーへ贈る消防車の寄贈式」)

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2013年1月13日 (日)

愛隣幼稚園時代の思い出

 11月6日(火)、 岡崎私立幼稚園PTA連絡協議会の「市長さんを囲む会」が市民会館会議室でおこなわれた。これは毎年定例の会で、私立幼稚園の園長先生、および先生方と市長との教育に関する協議と懇親の場である。

岡崎私立幼稚園PTA連絡協議会

「日頃は、岡崎の幼児教育の推進に対して多大なるご理解、ご協力を賜りましてこの場をお借りしてお礼を申し上げます。現在、市内で開園されております21の私立幼稚園には、小学校就学前の子供の2割強、約5000名、また3歳児から5歳児について言えば、約半数の子供さんが入園されていると聞いております。そのことに対して本市は、様々な形で保護者の皆様と幼稚園運営の支援をさせて頂いているところです。
 皆様におかれましては、私立幼稚園の果たす役割を認識され、また、それぞれの幼稚園がもってみえる歴史や伝統、特色ある教育理念に基づき、園と保護者の協力のもと、次の世代を担う子供たちの未来を考え、幼児教育の向上と家庭や地域の教育の再生に、日々ご尽力されてみえました。
 これは誠に意義深いことであり、心より敬意を表するものであります。わたくしも公約として、医療や福祉とならび、教育の充実を重点施策として掲げてまいりました。ことに『三つ子の魂百まで』と言われるよう幼児期の教育の重要性はじゅうぶん認識しているつもりでございます」

 というようなかたくるしい話をしゃべったあとで、各テーブルごとに挨拶に回らせて頂いた。
 各園の課題や幼児教育に対するご意見をうかがっているうちに、だんだん自分の愛隣幼稚園時代の馬鹿話をし始めた。背中に刀をしょって風呂敷で覆面をして近所の子供とともにお城の石垣をよじ登った話くらいでやめておけばよかったのだが。いつもの癖で、また余計なことまで喋ってしまった。

 朝近所の子供たちとグループで登園したはずなのに、昼になっても12人ほどの子供たちが到着せず大騒ぎになったことがある。
 園児失踪事件の首謀者は私であった。
 その頃の幼稚園は弁当持ちであった。弁当を持って家を出ればどこに行こうとこっちのものである。愛隣幼稚園は六供町にあるが、近所の子供たち全員で甲山に遊びに行くことにした。木に登ったり、防空壕の跡の洞穴にもぐり込んだりして遊んでいるところを先生や親たちに発見された。今であったら新聞沙汰である。おかげさまで「あの子とは遊ばないように」と周りでよく言われたものだ。そんな話をしたら先生方にとても受けた。

 そしてたまたま隣のテーブルにいたのが、当時の園長先生の娘さんであった。今はその方が愛隣の園長さんである。実に運命の不思議さを感じた。娘さんに「その節は、お母様にたいへんご迷惑をおかけしました」と謝った。

 当時はそんなことばかりをやって毎日を暮らしていた。人生で最高の時代であった。

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2013年1月10日 (木)

城北中学校 第50回文化祭

岡崎市立城北中学校 第50回文化祭

 11月4日(日)。
 城北中学校で第50回の文化祭が開かれました。その開会式で以下のようにご挨拶を述べました。

「城北中学校第6回生の内田康宏です。今日は市長就任後初めての母校の行事ですので、ぜひ顔を出さなくてはと思って参上した訳ですが、花束まで頂いてかえって恐縮いたしております。まずは創立50周年の文化祭の御盛会をお祝い申し上げます。
 私が本校に学んだのは、もう45年も前のことですが、当時、理科クラブの一員として体育館の一角で『真空状態での物体の落下実験』をやったことを今も覚えております。今日は日頃の皆さんの勉学の成果を発表する場であると共に、心に残る思い出ができる日でもあると思います。
 本日がそうした素晴らしい一日となることをお祈り申し上げます。最後にお世話を頂いた先生方、PTAの皆様に感謝を申し上げてご挨拶とします」

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2013年1月 5日 (土)

2013年の年頭にあたって 3

 この時期にもう一つ大きな事件が起きた。
 言うまでもなく衆議院の解散総選挙である。

 誰もが「選挙は年明けだろう」と高をくくっていたところ、計画的か突発的か野田総理が11月14日に突如解散を表明し、選挙になってしまった。
 ふつうこうしたことは、総裁の専権事項であるとは言っても、党の幹部、政権の内部で議論検討がなされて決行に至るものである。小泉純一郎総理以来、こういった抜き打ち的解散の仕方が流行っているが、政党政治の原理原則を考えたときに果たしていかがなものかと私は思っている。
 とは言っても、選挙が始まれば待ったなしで対応しなければならない。選挙の義理は選挙で返すのが保守の政治家の生きざまである。当然今回は市長選挙でお世話になった自民党の公認候補者、青山周平君の応援をすることになった。選挙の経緯については触れないが、ご承知のとおり岡崎からは代議士が3人誕生することとなった。私が27歳のときに挑戦した33年前は「せめて岡崎から一人代表を」と思って戦っただけに不思議な思いがする。
 いずれにしても行政の長としては、3人の代議士には、それぞれの特徴を生かして国家あるいは地元の発展のために尽くして頂きたいと考えている。わたくしも行政上の問題については公平公正な対応でお三方と協力していくつもりである。

 ここでひとつ説明しておくことがある。

 通常政治家(議員)の世界では「当選回数は星の数」と言われ、軍隊と同じ序列でものごとが運ばれます。とすれば、今回当選回数3回の中根康浩さんが序列第一に上がることになるわけですが、今回行われた小選挙区制による衆議院選挙は、愛知県庁の選管で当選証書が手渡されたのが15選挙区の当選者だけことからもわかるように、正式な選挙区当選者は小選挙区第1位の者であります。他の二人はあくまで比例復活による当選者として扱われます。それゆえ、今後行われる正式な式典などにおける衆議院議員の席次は青山氏、中根氏、重徳氏の順番になるわけです。
 序列についての根拠は以上のものであり、決して恣意的な思惑によるものではありません。

道の駅「藤川宿」

 この選挙をはさんで、「豊田・岡崎地区研究開発施設」用地造成工事起工式ならびに国道一号線で県内初となる道の駅「藤川宿」が完成した。両事業とも将来の愛知の発展に大きく寄与する期待が持たれる事業である。
 さらにこの時期、私にとって初めての所信表明の機会ともなる12月議会が始まった。政治家としての信義に基づいて選挙に手を抜くわけにはいかないし、そうかと言って議会をさぼって選挙の応援に行くわけにもいかない。また再び、精神的にも肉体的にも大変な山場を迎えた。幸いにして内田事務所のメンバー、後援会の皆さま、市の秘書課の職員の協力もあってこの難局を何とか切り抜けることができた。感謝。

 12月28日夜、市長としての年間の公式行事の最終となる「歳末消防特別警戒」による各地域消防団の巡回を終えた。市職員、消防関係者の方々の中には年末年始もなく仕事が続く方々もおり、本当にご苦労なことだと思う。市長としての年内における公式な仕事はこれで終了したことになる。今振り返ってみて反省すべき点もいくつか思い当たるが、この短い期間によくこれだけ新しい経験をこなしてきたものだ、と自ら思う。
 新年度からはそうした経験と反省を生かしてよりよい市政運営ができるように努力したいと思っている。

 岡崎市は歴史と伝統、豊かな自然に恵まれた美しい都市です。
 市内を流れる矢作川と乙川の清流は、岡崎を象徴する景観を醸し出しております。私も乙川べりから見た岡崎城の風景を子供のころから眺め続けてきました。四季を通じてどの時期の、また一日のどの時間に眺めたものであっても、私の岡崎の心象風景として焼きついております。
 こうした素晴らしい水辺空間を活用し、機能的な河川敷の有効利用をはかりながら新しい岡崎の町づくりを皆様と共に成し遂げていきたいと思います。 (完)

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2013年1月 3日 (木)

2013年の年頭にあたって 2

内田康宏(2012年11月11日)

 その後各種業界団体、地域のお祭りや文化祭、スポーツ大会、さまざまなものにお招きを受け、できる限りのものに出席し、市民の皆さんと交流を深める努力をした。市政というものが幅広い市民の皆さんの生活とかかわりがあることを再認識することのできる機会となった。

 それにしてもあまりに用事が多いので、秘書課の職員に、
「現在岡崎市長として、あて職としてあるものも含めて引き受けている役職というものがいくつあるのか、一覧表で教えてくれ」
 と言ったところ、A4版の用紙に3ページ半打ち出されて返ってきた。数えてみると124あった。私の記憶では確か県会議長のときでも110くらいであった。市長の場合は代理が効かない役職もあるのでその分より忙しくなっているのである。なぜだか知らないが、なかには「全国浄化槽推進協議会」のような全国規模の組織の会長職もいくつかある。

 またこの時期、岡崎商工会議所の120周年記念式典、県立岡崎工業高等学校創立100周年記念式典などが相次いで行われた。岡崎には創立600年、400年を超える企業を始め、老舗の会社と言われるものがたくさんあるが、すでに明治期において商工会議所ができているという点にも岡崎の先見性がうかがわれる。
 また岡崎工業高校に限らず、岡崎の公立高校は市政100周年よりも古い伝統を持っている学校も多い。都市としての歴史も感じさせる点である。

 そして大樹寺で家康公検定の表彰式があった。徳川家第18代、徳川恒孝公がお見えになった。一般に明治維新で徳川が滅んだように思ってみえる人もいるが、三河武士の伝統はこの岡崎に脈々と息づいている。そのことを実感させられる催しでもあった。

大樹寺

 岡崎という地域の素晴らしさの一つに、そこに住んでいる人々の愛郷心の高さもあると思う。それを保守的だと批判する人もいる。偏狭な排他主義に陥ることは諌(いさ)めなければならないことであるが、ふるさとの歴史、文化に誇りを持つこと、同族意識を強く持ち、郷土を愛することは少しも恥じるべきことではない。
 どこの国に行ってもそうした伝統主義を大切にする政党が保守政党として存在することは、その証(あかし)であると思っている。

 11月17日に、岡町のおかざき世界子ども美術博物館(岡崎地域文化広場)にある「妖精の棲む浮かぶ島」がリフレッシュオープンした。
 ご本人が名前を出されるのを望まれないので名を伏せますが、これは、わたくしの近所に住んでおみえになる篤志家のご夫人の寄付によるものであります。この方は税金とは別に、亡くなられたご主人と共に個人的に通算3億円にのぼる寄付を岡崎市に頂いております。
「岡崎の子供たちの未来のために役立ててほしい」
 とのことでありました。金額はともかくこうした心を持ってみえる方が少なからずいるというのが、先ほども言った岡崎の素晴らしさだと思っている。感謝。 (つづく

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2013年1月 1日 (火)

2013年の年頭にあたって 1

内田康宏事務所

 2013年あけましておめでとうございます。謹んで新春のお慶びを申し上げます。市民の皆様、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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 市長選に当選させていただいてから、あっという間に二か月半たったような気がしている。ひとことで言って、〝疾風怒涛の二か月半!〟だったような気がしている。

 10月21日夜、当選の万歳をやった瞬間から制度上は市長職が始まったことになっている。以来、役所のしきたりを覚え、用語を理解し、これまでの政策の継続過程を検証し、理解しようとつとめ対応していくのに精一杯であった。
 毎日次々と目の前に置かれる決裁書類は初めて目にするものばかりである。もちろん、各事項に対する説明や質疑の応答はある。努力はしているが、完璧に理解しているという自信はない。しかしそのことによって将来不都合が起きれば全責任はわたくしが負うことになる。そうしたことを意識しながらひとつひとつの書類に目を通し、丁寧に印を押して行く。ひと段落すると体中に何とも言えない重たい疲労感が残っている。誰でもそうであるが、慣れていないこと、初めてのことを根をつめてやるとこういうことになる。

 昨秋はさまざまな行事があった。
 当選してすぐ三重県の東海市長会へ出席。とりあえずコンピュータで印刷した役所作成の名刺を使って各地域の市長さんたちと名刺交換をする。その中で、ほんとうにこの仲間に入れたのだなという実感が湧いて来た。
 恥ずかしい話であるが、このとき泊まったホテルで一か月半ぶりにゆっくり風呂に入った。風呂桶に入ったまま一時間以上、解剖前の検体のように横たわっていた。

 10月29日に岡崎市の公式行事として初めて出席したのが第49回の「おかざきっ子展」のオープニングセレモニーであった。昨年までは来賓の県会議員のひとりとして出席していたのだが、今回は主催者の市長として挨拶をした。いよいよ第一歩を踏み出したのだなと感じた。

 11月に入ってすぐ「岡崎アート&ジャズ2012」が始まった。私も個人的にジャズが好きであるが、岡崎が日本におけるジャズのメッカになりつつあることを再認識した催しであった。文化事業としての価値とともに、これをぜひ観光岡崎の秋の目玉商品のひとつに育て上げて行きたいものである。

 11月5日、市長として初めて臨む11月臨時会があった。
 このとき、正副議長と委員会の役割分担が決められ、わたくし自身も初めて議場で市長として挨拶することになった。議長に「市長!」と指名され、檀上中央に上がり挨拶をしたときに改めて責任の重さを感じた。 (つづく

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