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2012年10月

2012年10月25日 (木)

初登庁と市長訓示

 開票結果の発表の後、記者会見が深夜1時半ごろまで続いた。
 残っているお客さんのお相手をしたら家に帰ろうと思っていたら、「市役所の人が来てます」ということであった。
 どうしてこんなに早く市役所の人が来ているのだろうと思ったら、秘書課の職員で、その日の朝から仕事が始まるという連絡であった。2、3日のんびりしてから当選証書をもらって仕事が始まるだろうと思っていたのに、まったく認識不足であった。秘書課の職員は本日の日程と向こう一週間の予定表まで持ってきていた。
 朝9時40分ごろ車で迎えに来て10時から初登庁、10時20分当選証書付与式、そして10時45分から市役所大ホールにて幹部職員に対して「市長訓示」をおこなうことになっているのだそうだ。その後再び記者会見、そして市長事務引き継ぎの打合せ、臨時部長会議、さらに秘書課打合せ、などなどと初日の仕事がびっしり詰まっていた。

 選挙事務所にみえていたお客さまのお相手が終わったのが、朝4時半だった。家に帰って犬の散歩をして猫のご機嫌を取ってから市長訓示の原稿を書き始めた。6時半を過ぎたころから電話が鳴り始めた。もちろんお祝いの電話である。電話を頂くのはありがたいことであるが、こちらは原稿のことが気になってそれどころではない。そんなことを考えながら電話の応対をし、原稿を書いているうちに車の迎えの時間が近づいてきた。新しい背広を用意する時間もない。結局最終日に着た背広をそのまま着て行くことにした。大きな市長車の後部座席に座ったものの、なんとなくしっくり来ない。随行秘書が「市長さん」と言うが、誰のことかと振り返ってしまいそうになる。まだ当選して何時間も経っていないのだ。

 市役所の近くに来たが、車は市役所に行かない。
 近くの駐車場に止まって運転手が時計を見ている。
「30秒前です。出発します」
 と言って車を走らせた。

初登庁。2012年10月22日(月)

 市役所に着いたのは午前10時ジャストであった。
 到着する前は気楽に考えていたが、出迎えの人波にびっくりしてしまった。女の人から花束を渡されていきなりカメラのフラッシュに囲まれた。新聞社のカメラマンがこっちを向けと手を振ったのを勘違いして、手を振り返してしまった。いったい何をやっているんだろう。

初登庁。2012年10月22日(月)

 登庁記念の写真を撮ってから、4階の市長室に通される。よく考えてみたら市長の執務室に入るのはこれが初めてである。
 説明に来た職員から「市長」と呼ばれるがまだぴんと来ない。借りて来た猫というのはこんな気分なんだろう。改めてその日の日程の説明があった。
 市長訓示のため福祉会館の6階大ホールに向かった。何回も会議などで来た場所であるが壇上から幹部職員360人ほどを前に訓示をするというのは、何か緊張する。おまけに慌てて書いた自分の原稿の字がよく読めない。途中から読むのをやめてしまい、自分の言葉で喋ることにした。選挙のときに市民の皆さんに話しかけたことをもう一度話すことにした。

「岡崎市役所各部の部課長はじめ、職員の皆さんにおかれましてはお忙しい中、ご参集頂きありがとうございます。わたくしは昨日の市長選挙におきまして岡崎市民の皆様の負託を得て第11代の岡崎市長に当選いたしました内田康宏であります。本日より、わたくしが市政を担当させて頂くにあたりまして、職員の皆様にひとことお話申し上げたいと思います。
 今般の選挙を通じて、わたくしが市民の皆様に提案申し上げて来た政策や、わたくしの考えにつきましては、職員の皆様には十分ご理解を頂き、実現に向けて叡智を絞って頂きたいと考えております。しかしその際、もし異論があるならば積極的に申し述べて頂きたいと思います。議論を積み重ねることでより良いものが見出されるからであります。そして、そうした意見を聞く耳をわたくしは持っているつもりであります。
 もちろん今まで過去の方針のもとに政策を積み上げて来た皆様ですから、これまでの様々な経緯やしがらみもあろうと思います。また、法律や財政上の限界といった壁もあろうと思います。しかしながら、そうしたことをすべて承知した上で皆様と共に知恵を出し、新しい岡崎、次の時代の岡崎を築いて参りたいと考えております。
 言うまでもなく、岡崎は歴史と文化、伝統に支えられた素晴らしい町であります。市職員の皆様と二人三脚で本市がますます発展いたしますよう、夢と実効のある政策をすすめて参りたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。
 以上簡単ではありますが、わたくしの市長就任のご挨拶といたします」

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2012年10月23日 (火)

10月21日(日)投票日

 10月21日(日)。
 今日は久しぶりに朝をゆっくり過ごした。
 8時ごろ起きだして、コーヒーを飲んで、ひとりで投票所に向かった。

 今回は投票所が変わって、りぶらの中である。
 背広を着て行くのがいやだったので、綿パンにジャケット姿で出かけた。町なかですれ違う多くの人は気がつかなかったが、それでも時折気がついて挨拶をされたり、「今投票してきました。がんばって下さい」などと言われて握手をされてしまう。投票所は意外に混んでいた。投票所の数が減らされたせいか、20メートルほどの人の列ができていた。こんなところであんまり声をかけられたくないと思っていたが、やっぱり見つかってしまった。何人かの方とご挨拶をしながら、ようやく投票用紙を受け取る。聞いていたとおり、市長と市議はひとつの投票箱であった。間違えて入れたらどうなるかと思っていたら、間違えたものも正当にカウントされるそうである。それよりも投票用紙に記入間違いの可能性が高いのではないか。やはり面倒でもひとつひとつ個別で投票するのが有権者に対する親切ではないだろうか、と思った。(なお県議は別の箱であった。)

 昼から一度事務所に行き、開票後の打合せをして帰宅。

 夕食をとってから、DVDで『ウエストサイド物語』を見ることにした。なぜかというと、選挙中に個人演説会の会場から次の会場に行く途中、なぜか突然頭の中に「トゥナイト」のメロディーが浮かんできた。それも何回も。そのせいでなんとなく選挙が終わったらこの映画を見ようと思っていたのだ。自分としては珍しい。戦争映画や西部劇が見たくなるのなら話はわかるが、選挙中に「ロミオとジュリエット」の現代版と言われるミュージカルの『ウエストサイド物語』を見たくなるなんてどういう心境の変化だろうと思う。
 いずれにしても毎回、開票結果が出るまでは、何かテレビで映画を見ることにしている。
その理由はいちばん最初の選挙のときに、気を揉んでずっとテレビの前に座って開票結果を見ていて、敗戦に至った経験があったからだ。以来、運を天に任せて映画を見ることに決め込んでいる。

 11時を少しまわったとき、選挙事務所から迎えの車が来た。
 開票状況はどうかと訊くと、「接戦だが少しこちらが勝っている」という。ただ開票立会人の内田勝美さんがにこにこ笑っているのでたぶん大丈夫だろうということであった。
 その後、選挙事務所のすぐ近くの駐車場に待機することになった。
 11時40分に、内田68,000で、先方66,000と少し差がついた。
 それからしばらくして事務所に来るようにという電話がかかってきた。ぐるりと回りながら、事務所の正面に車で乗り付けた。
 大勢の支援者と共にテレビカメラやマスコミのカメラのフラッシュに出迎えられた。玄関から中に入った瞬間、割れるような拍手とともに、大歓声が上がった。
 そのとき初めて自分が勝ったのだということがわかった。

後援会の皆様、家族と共に

 中央の台の上に立たされるが、挨拶の順番がなかなか回ってこない。次から次へと来賓の方のお祝いの言葉が続く。あんまり遅くなると、せっかく考えきた台詞を忘れてしまいそうである。ただでさえ、テレビカメラの放列とカメラのフラッシュで緊張が高まってきているのだ。
 7、8人の方のご挨拶のあとようやく順番が来て、次のように話をした。

「皆様のおかげをもちまして、このたびの岡崎城攻防戦とも言える、厳しく難しい市長選挙に勝利することができました。心より感謝申し上げます。今回の選挙は相手候補もさることながら、その背後にあるいくつかの大きな力との戦いでもありました。そのため、いつもの選挙と異なり、選挙戦の実体がなかなか掴めず、対策のとりにくいストレスの多い選挙戦となりました。
 それにもかかわらず、連日連夜にわたる多くの支援者、支援団体の皆様のご協力のおかげでこの難局を乗り切ることができました。まさにこれは、岡崎市民の良識と団結心、伝統の力による勝利であると確信いたしております。これからは選挙中にお約束いたしました、数々の公約実現のため、ひとつひとつ着実に努力を重ねて参ります。
 今回の選挙戦に際し賜りました、おひとりおひとりの皆様のご厚情、お力添えに対し、重ねてお礼申し上げ、ご挨拶といたします。ほんとうにありがとうございました」

(2012年10月23日記)

小呂町の事務所。2012年10月22日

→「初登庁と市長訓示

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10月20日(土)選挙戦最終日

 緑丘学区市民ホームにおける今選挙最後の個人演説会を終え、事務所に帰ってきた。
 事務所常勤者とともに多くの支援者の方々のお迎えを受けた。ホールで選挙のご協力に対するお礼の挨拶を終え、事務所の椅子に腰かけたところ、どっと疲れが出てきた。

街頭演説。2012年10月15日

 選挙の始まる前は、
「たいへんなのは選挙が始まるまでで、選挙が始まれば、あとはレールに乗って走るだけだ」
 などと言っていたものだが、とんでもなかった。
 やはり、議員選挙と首長の選挙とでは同じ選挙でも質が違う。

 今回の選挙では毎日の選対会議で次々と予定の変更があった。選挙戦の戦い方も、夜の個人演説会主体のものから街頭における街宣活動重視の“都市型選挙”へと変化してきた。
 ことに今回の選挙の特徴は相手の姿が見えなかったことである。通常、議員選挙では毎日のように相手候補の活動状況の情報が入ってくるものである。今回は相手のそうした動きがなかなかつかめなかった。
 わたくしたちの選挙のやり方は地域後援会を主体とした各地域ごとの人間関係をもとにした役員会、総会、そして励ます会、語る会といった地に足のついた地域運動の積み重ねによるものが基盤となっている。
 どうやら相手はそうした方法をとっていない、あるいはとれないのではなかったかと思う。ちょうど衆議院選挙で、後援会選挙型の自民党が実体が見えているのに対し、組合や特別な支援団体を母体とする候補者の選挙のやり方が外からは見えにくいのに似ている。

 今回相手候補の支援団体がそうした関係の方たちであるだけに、脅威でもある。
 この選挙を戦っていて、なんとも言えない底疲れがするのはそうした見えない敵を相手に戦う精神的なストレスからくるものだと思う。ふつう選挙戦の終盤に入れば、一応の選挙に対する見通し、強弱、そんなものが感じ取れるものだが、今回はさっぱりわからない。やれるべきこと、考え得ることはほとんどやってきた。しかしそれが効果があるのかどうかわからない。地方における選挙も新しい段階に入ったのかもしれない。(つづく

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自民党安倍総裁来たる

 各候補の運動は徐々に熱を帯びてきた。
 岡崎市内を45人の市会議員候補者と4人の県会議員候補者と2人の市長候補者、そして各党ならびに市長候補の確認団体の街宣車約60台が大音量を上げながら走りまわっているのだ。
 今回の選挙で各候補者の主張における大きな違いというのは、あまり見受けられない。岡崎市という限定された地域での政治課題というものを現実的に考えれば、対応策、政策といったものが似通ったものになってくるのは当然のことであろう。そうした中で市長選における考え方の違いが二つ浮かび上がってきた。

 ひとつは、わたくしの唱える市民生活に密着した医療・福祉・教育の重点主義の堅実政策。
 もうひとつは、対立候補の方の、借金を増やしても新文化会館、第二市民病院を作るという積極政策。

 という姿勢の違いが明確になってきた。
 ただ私の場合、堅実と言っても、決して何もやらないということではない。岡崎市政100周年記念事業として「岡崎ツインブリッジ」構想(殿橋、明代橋の橋上公園化+石のモニュメント)による岡崎の新しいシンボル(使えるモニュメント)の建築も提案している。
 これは「観光都市岡崎」を作るためのひとつの目玉であり、中心市街地再開発への道程であるとも考えている。

 10月19日(金)。
 自民党安倍総裁、来たる。

安倍晋三自民党総裁。2012年10月19日

 奥様の昭恵さんのご尽力始め、各国会議員の働きかけ、そして佐藤裕彦元都議会議員の粘り強い交渉のおかげをもって、半ばあきらめかけていた安倍総裁来訪が実現した。国政選挙が近づいていることもあって、総裁の地方応援は原則的に国会議員だけである。地方選挙の応援の前例を作ると収拾がつかなくなる。よって自民党本部は個人的な人間関係による地方選挙への党幹部の応援を歓迎しない。そのことがわかっているだけに、今回の安倍晋三総裁の信義ある行動には頭が下がる。
(お父上の安倍晋太郎先生もわたくしの最初の県会議員選挙のときに、当時自民党総務会長の立場でありながら、応援にかけつけて下さった。)
 何よりも驚いたのは、この日は午後4時から各党党首会談が予定されており、国政選挙の解散問題が話し合われるのだ。そんなときによく応援に来て頂いたものだ。
 選挙後、多くの人から「あのタイミングで安倍さんが来てくれたことが決定的だったね」ということをよく言われた。(つづく

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初日から中盤戦へ

 告示日から投票日までの8日間の出来事を、四回にわけて書きます。

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出陣式。三河別院にて

 今回の選挙では、初日(10月14日)の出陣式に、ご主人の安倍晋三総裁が来られないということでまたしても奥様の昭恵さんにお出で頂くことになった。

 昭恵さんは出陣式だけでなく、その後の街頭宣伝活動にもご参加頂いた。
驚いたことに、自分の話が終わると街宣車を降り、道行く人ひとりひとりにお願いしながら握手をしている。
 交差点の信号が青に変わると、横断歩道を走って道路の向こう側の人たちにもお願いをして回っている。自分の選挙ならともかく応援に来てここまでやって下さる方は珍しい。さらに、お帰りになる直前に残していった言葉は、
「もう一度主人には選挙中に来るように頼んでみます。そのときには大きな会場で話をさせるのではなくて、大通りだとかスーパーの前とか駅前とかそうしたところを歩かせて下さい。大きな会場で話をしても聞いているのは味方ばかりです。外に出れば必ずしも支援者ではない方たちに接触できます。そういう使い方をした方が効果的だと思います」
 なかなかここまでは言えない。まさに政治家の妻の鑑である。

安倍昭恵さん

 その後中央から続々と応援がかけつけた。
 丹羽秀樹衆議院議員、参議院議員の片山さつき先生、佐藤ゆかり先生、藤川政人県連会長(参議院議員)、鈴木政二参議院議員、鈴木淳司前衆議院議員、伊藤忠彦前衆議院議員、などの方々の激励を頂いた。
 またいつになく尾張名古屋の先生方のご協力が多く、ほとんどの自民党の県会議員の方々にかけつけて頂いた。

安倍昭恵さん。イオンモール前交差点にて

 今回は毎朝、各駅の駅頭で朝7時ころから「駅立ち」をおこなった。
 8時前にはマイクも使えない。ただ「おはようございます。市長候補の内田です。よろしくお願いいたします」と連呼するだけである。100人にひとりくらい握手をしてくれる人がいる。その人の顔が神様のように見える。

 昨年の県議選で、私の後援会の主要地盤でない岡崎市内の北部や南部を街宣車で回ると、現地の反応はきわめて冷ややかであった。当り前である。地元の候補者がいるところでよその候補者が来て宣伝活動をやっても、誰も振り返らない。ところが今回は北部の中根よしたか県会候補、南部の青山秋男県会議員ならびに周平さん、そして額田からのうめむら順一県会候補、それぞれの協力と支援を受けている。そのため今まで無反応に近かった街宣活動に対して、各地であたたかい応援を頂くことができた。同じことが各地域でおこなわれた個人演説会の場にお集まり頂いた皆様の顔ぶれにもあらわれていた。
 ばらばらであったそれぞれの保守勢力が今回の選挙を通じて、初めてひとつの方向に結集しつつある兆しを感じました。(つづく

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2012年10月11日 (木)

伊賀川の桜

伊賀川の桜

 最近、伊賀川の河川堤防を散策されている方から、
桜はどうなっちゃったの?
 という質問をよく受けます。
 2、3か月おきに行われる愛知県と岡崎市の事業説明会に参加された方は事情をよく分っているわけですが、それに出席されていない方は一方的に役所によって桜の木が切られ、撤去されてしまっているように感じられているようです。
 私もそうした言葉を受けて実際に河川堤防を車で走ってみました。
 確かに当初の説明とは違って、まったく桜の木が消滅してしまったかのような部分があります。しかし、これは経過的な問題で河川工事がひと段落した段階で再び桜の木を植え戻 す計画になっております。
 ソメイヨシノの樹齢は60~70年であり、それを超えると急速に樹勢が落ちるといわれています。
 今回の河川改修において、基本的に「若い木は残して古くなった木は植えかえて行く」という方針が打ち出されております。古くなった木は増水によって折れて川の水の流れを阻害する原因になり兼ねません。また、伊賀川の桜の美しい景観を将来にわたって保つためには若い桜への植えかえも必要であります。
 今後地域の皆様方と共に植樹の数を増やしていき新しい伊賀川を育てて行きたいと思っております。そのことは県と市それぞれに伝えてあります。ただ、河川の構造上桜を植える余地のない場所ができてしまったことも事実であります。その点は今後の河川整備における検討課題のひとつとなってくると思います。

 今回の伊賀川の河川改修の問題は、2008年(平成20年)の豪雨災害によって一挙に進んだものであります。
 尊い命が奪われたこともあり、杉浦正健前代議士の努力によって、国の緊急防災対策事業に指定され、多額の予算が決定され事業が推進されることとなったわけであります。都市河川の使命の第一義は沿線の地域住民の安全であります。豪雨に見舞われた折にも安全で安心できる河川環境を構築しなくてはなりません。そのために今回の伊賀川の河川改修計画が策定されました。今回の事業は安全な都市河川をつくることが第一目的となっておりますが、将来にわたって市民に親しめる身近な河川として活用できるように今後の計画で対応しておかなくてはならないと思っております。

 河道面積が約3倍になって安全性は確実に上がりましたが、今までのように簡単に川におりて子供たちが遊べる川ではなくなって参りました。その点をこれから考えて行かなくてはならないと思っております。わたくし自身この伊賀川で魚獲りをしたりして育ったひとりであります。これからも美しい桜に囲まれた市民に親しまれる新しい伊賀川を作る努力をしていきたいと思っております。

伊賀川の桜

 留学時代にアメリカをひとりでバス旅行していたときに、テキサス州のサンアントニオという町に行ったことがあります。そこはアラモの砦の戦いで有名な町ですが、そのサンアントニオ市の真ん中にちょうど伊賀川と同じくらいの規模の「サンアントニオ・リバー」という川が流れています。河川敷の両側はきれいに舗装され、一部タイル張りのところもありました。
 川の両サイドにはレストランや喫茶店、おしゃれなブティックなどさまざまな店が並んでいました。市民や観光客は川べりを散策しながら、食事やお茶を楽しんだり、買い物をしたりしていました。
 その風景を見たときに岡崎の伊賀川のことを思い出し、
「将来伊賀川もこんなふうになるといいな」
 と思ったことがあります。
 わたくしの個人的な伊賀川の未来予想図はこんなものであります。
 しかしこれはあくまでわたくしの個人的な思いであって、伊賀川をどうするかはこれから市民の皆様方の協議と総意で決めて頂くことになると思います。

追伸
 先日の台風17号の折、伊賀川そのものの被害はありませんでしたが、伊賀川沿いの愛宕学区の地域において、床下床上浸水に見舞われた家屋があったそうであります。
 その事実を知ったのが遅くて、すぐに現場に駆け付けることができませんでした。被害に遭われた皆様方には心からお見舞い申し上げますと共に、お詫び申し上げます。
 今回の浸水の原因は、前々から指摘されておりました、家屋の下に設置されていた古くからの下水管、下水溝に流れ込んだ雨水が低地から噴き出したものだそうであります。さらに伊賀川の工事のため、そうした下水の道が寸断されたところもあり、こうした被害が出たと聞いております。今回の教訓を忘れず、岡崎市としてはできる限り早い対応策をとらなくてはならないと思っております。

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2012年10月10日 (水)

平成24年度 市民体育祭

平成24年度 岡崎市民体育祭

 10月7日(日)、中央総合公園のグランドで「岡崎市民体育祭」が行われました。
 議員バッジをはずしてからの公の大きな行事の参加で、今回は来賓ではなかったので、ずいぶん違った角度からものを見ることができました。大きい声で話をしないと、来賓挨拶が客席まで届かないことがよくわかりました。反省。
 開会式のあと、1時間半かけて場内の各学区のテントを一周しました。常日頃の後援会活動で接点のある人とこうした大会に見えてる方が異なった層であることがわかりました。

 後援会は強力なのに意外と冷ややかだった学区、競争相手の本拠地なのに極めて友好的に迎えてくれた学区、あらためて人間関係の奥深さを考えさせられました。

 ようやく一周回って帰ってきたところ、「さつき会」会長の杉山まゆみさん始め、連尺学区の若いお母さんたちがあたたかく迎えてくれました。

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岡崎市長選挙公開討論会 2

 討論会では、主催者の方が決められた、以下のようなトピックにしたがってお話をしました。

政策スピーチ(15分)
 岡崎に生まれ育ったひとりとして、ふるさとを少しでも良くしたい。そうした一念で今回の出馬の決心をいたしました。選挙に臨んでわたくしは次の四つのことを市民の皆さまにアピールしてきました。

  1. 歴史文化遺産を基軸にした観光岡崎の建設
  2. 河川の水辺空間を生かした道路整備、公園スポーツ施設の整備
  3. 今すぐ必要でないハコモノより、市民生活に密着した医療、福祉、教育の充実
  4. 防災と都市発展のための基盤整備(河川、道路、上下水道)の推進

財政(3分)
 これまで岡崎は「出」と「入り」のバランスをとった堅実な財政を特色としてきました。ところがこのところの相次ぐ大型施設の建設により、建設費の起債による調達(すなわち借金)に加え、施設の管理運営費(建設費の10%くらいはかかる)がその後の負担となってきております。今後新規のハコモノ計画は慎重にしないと、地方分権化」が進む中、新しい仕事が山のように増えてくるためハコモノのために必要な行政サービスを削らなくてはならなくなる可能性があります。
 私としては「第二市民病院」や「新文化会館」のプランは再考が必要と思いますし、岡崎市の第6次総合計画も総点検し、要不要を含め、実施時期などの再検討をしたいと思っています。

中心市街地対策(3分)
 中心市街地の再開発の目玉として「岡崎ツインブリッジ」(殿橋、明代橋の橋上公園化)を提案します。これは市政100周年記念として“使えるモニュメント”であり、駅から中心街へ歩く導線ともなり、さらに向こう100年以上の岡崎のシンボルにしたいと思っております。
 建設にあたっては、岡崎の土木建設業の力と伝統産業・石工業の威信をかけた魂の傑作にしてもらいたいと考えています。
 これに民間のさまざまな町おこしプランを順次上乗せしていきます。将来的な課題として中心街はお城を中心としたセントラルパーク化し、JR、名鉄、愛知環状鉄道の三つは総合駅化し、岡崎セントラルステーションにしなくてはならないと思います。
 これが人口50万以上になった岡崎のイメージです。

医療・福祉政策(3分)
 医療の地域格差は深刻な問題です。岡崎市内の東西南北の四つのブロックに、それぞれ中心的役割を果たす民間病院を定め、身近なところである程度の高度医療のできる病院に育てる政策をとりたいと思います。そのために医師会の協力と地域医療連携、さらには公共のバックアップが必要であります。
 予防医学の見地に立って、生活習慣病予防のキャンペーンを張り、病気にならない体を作る試みをしたいと思います(例。長野県の旧・北牧御村)。
 これは討論会では言い忘れてしまいましたが、身体障害者が健常者と同じように明るく生活できる町づくりを行いたいと思います。

環境(3分)
 これには四つのポイントがあります。

  1. まず額田の自然を守ること。
    つまり山を守るということは、川を保全する、水の供給源を確保する、健全な海を守ることにつながります。
  2. 都市緑化をすすめる
    これには市民の協力が必要です。落ち葉対策や街路花壇の世話をしてください。役所としても公園にある木々を大切に扱う(一本一本の木には市民の思い出があります)。
  3. 農村の機能の再評価
    田んぼの空調機能、農村風景の心理的効果を考える
  4. 新エネルギー対策
    ミニ水力発電と、ミニ風力発電。太陽光発電(災害時の避難所である学校を優先的に)。間伐材チップを使った火力発電など。

まとめのスピーチ(3分)
 今回の活動の中でさまざまな業界団体の代表の方々とお話をすることがありました。そのなかで「市長と直接話をする機会があまり持てない」ということをよく言われました。これからはあらたまった場でもなくていいので、もっと交流を深めたいと思います。また市民の皆様とは「市民対話集会」の機会を設けたいと思っております。
 未来の三河岡崎100万都市のイメージをしっかり持って、次の岡崎を考え、新しい岡崎づくりに向けて対話と信頼の市政を作りたいと思っております。

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2012年10月 9日 (火)

岡崎市長選挙公開討論会 1

 選挙前の最後のイベントと言える公開討論会が、10月8日(月)にようやく終わりました。

 人のやっているのは何度か見たことがありますが、自分がやるというのはずいぶん緊張するものです。いつも同じようなことをしゃべっているのに、雰囲気が違うだけで、心理的圧迫感がぜんぜん違います。

 今回は討論会を主催される人たちも初めての経験らしく、討議テーマや進行方法が何度も変更され、そのこともこちらがナーバスになる原因のひとつではありました。
 どちらにしても、やじられながら話をするのは慣れていますが、静寂の中で話をするというのは逆に自分で意識過剰になってしまうようです。

 自分なりに準備をして行ったつもりですが、時間の配分を間違え、言おうと思ったことのいくつかを落としてしまいましたし、途中でメモを紛失してしまうようなミスもしてしまいました。
 それでも皆様からは、
「よかったね」
「感激した」
 と言って頂いた方もありました。なるべく自分で考えたことを自分の言葉で話をしようとした点がよかったのかもしれません。と言っても自己採点すると、70点くらいの出来かなと思います。今後地域会合や個人演説会のときに、足りなかった点を補足して話したいと思っています。

 岡崎市内各地から、あるいは市外からもかけつけて頂いた方もおられると聞いております。ご声援頂きました皆様方に心から感謝申し上げます。
 またこうした貴重な経験の機会を設けて下さった「岡崎市長選挙 合同・個人演説会実行委員会」様、および「リンカーン・フォーラム」様、ならびにお手伝いを頂きました方々に対し、深甚なる敬意を表したいと思います。ありがとうございました。 (つづく

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2012年10月 8日 (月)

内田やすひろクロニクル 第6回 「県議会議長に就任」

内田やすひろ 愛知県議会議長

内田やすひろ 愛知県議会議長

 平成18年(2006年)5月26日。県議5期目の最終年、同僚、先輩の議員に推され、第86代愛知県議会議長となる。岡崎人として実に55年ぶりのことであった。まさか自分が県会議長になれるとは思っていなかった。
 かつて先輩の議長を仰ぎ見ていたものだったが、その任の重さを自ら一身に感じたものだった。

安倍晋三先生と共に 2006年5月31日撮影

 縁というのは不思議なもので、この同じ年、安倍晋三先生が第90代内閣総理大臣に任命された。それぞれが国と県の重責につくこととなった。
 そして今回安倍先生が自民党総裁となった。再び総理への道を歩もうとしている時に、私も新たなる道に挑戦している。何か見えざる力の存在を信じずにはいられない。

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2012年10月 7日 (日)

プリウスと私

プリウスと内田康宏

 元来私は車にこだわらない。
 故障せずに動けばいい。下駄や靴といっしょである。
 ところがこのプリウスという車に乗ってから、車に対する考え方が変わった。
 まず燃費がいい。
 リッター22キロ。
 プリウスに乗っている人の中ではあまりたいしたことのない成績だそうだ。だが、私が前に乗っていた車はリッター5~6キロであったので、この差には驚いた。

 この2年間県庁には毎日このプリウスで通っていた。その前は名鉄電車と地下鉄で通っていた。車で通うようになってから、ストレスがうんと減った。帰りに神宮前のカーマホームセンターに寄ったり、ブックオフに寄ったりして買い物もできるし、腹が減れば国道1号線沿いでかつ屋のカツカレーや、幸楽苑でラーメン餃子ライスセットを食べることもできる。幸楽苑にはいつもラーメンだけ食べるつもりで入るのだが、いつもラーメン餃子ライスセットを食べてしまう。餃子を焼く匂いにいつも負けてしまうのだ。これではいつまで経っても痩せることはできない。

 プリウスのいい点はまず音が静かである。
 音楽をかけても小さな音でよく聴こえる。
 スローバラードをかけて大きな音にしなくても、ムーディな雰囲気に浸れる。
 ついつい鼻歌まじりで音楽を聴きながら、そのまま高速道路の出口を通り過ぎてしまうことがある。
 いくら車の性能は良くなっても、人間の性能は良くならないらしい。人生この程度の失敗で切り抜けたいものであります。

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2012年10月 6日 (土)

内田家の犬と猫 Ⅰ

 私の家には現在、1匹の犬と5匹の猫がいる。
 16歳になる犬のアル。
 13歳の猫のミー。
 2歳の猫、キック。
 そして1歳の猫が3匹。ぷーすけ、ぴー子、虎男。

 私は子供のころから常に犬と生活していた。幼児期は犬小屋で犬といっしょに寝ていたものだ。

アル

内田家の犬 アル

 16年前にうちに来たばかりのころのアル。
 以前飼っていたピトンという犬が息を引き取ってしばらくしてから、やはり犬がいない生活は淋しい、と思った。子供たちも同様のようであった。「どうせ飼うならかわいそうな犬を助けてやろう」ということになった。
 県議三期目のときに、豊田市穂積町にある「愛知県動物保護管理センター」へ、家内には内緒で三人の子供たちと車で出かけた。職員の人に案内されたおりの中にはたくさんの犬がいた。そのたくさんの犬に踏まれている子を娘が指さし、「お父さん、あの犬がいい」と言った。私はそのとき別の犬に目が行っていたのだが、たぶん娘はあの犬を選ぶだろうと思っていた犬を選んだ。
 そして車のうしろに乗せ、家路についた。子供たちにとっては二番目の犬だったので、中国語の数字の「2」(アル)が彼の名前となった。今では私のいちばんの相棒である。

ミー

内田家の猫 ミー

 ある日、家の玄関の前でうろうろしていた猫がいた。来客を母と娘が迎えたとき、その猫はお客さんのかばんにくっついてそそくさと家の中に侵入したらしい。娘の「私が絶対面倒見るから!!」という強硬な態度に押され、その日から家族の一員になった。やがてその猫は7匹の子供を産む。その中の一匹が現在おばあちゃん猫のミーだ。

キック

内田家の犬と猫 アル、キック

 上の黒白ぶちの子は次男が連れてきた。名前どおり気が強く、また度胸もある近所のボス猫である。その地位を獲得するために彼は血みどろの戦いを勝ち抜いた。そのキックも先輩のミーには一目置いているようだ。(アルとは相性がいい。)

ぷーすけ、ぴー子

内田家の猫 ぷーすけ

内田家の猫 ぴー子

 しましまのしっぽの猫がぷーすけ。黒と白の猫がぴー子。娘の友人から、「母猫が自分の子供を1匹だけ連れて姿を消してしまった。このままだと残された他の仔猫が死んでしまう」という連絡が入り、2匹同時に引き取った。名前はすべて娘がつけた。ピーピー鳴くからぴー子、ぷーぷーオナラばかりするからぷーすけ、とのことである。
 貰ってきたときはねずみくらいの大きさの仔猫だった。とても育たないだろうと思っていたが、とうとう育ててしまった。

虎男

内田家の猫 虎男

 ある日家の外で仔猫の泣き声がした。
 うちの間抜けな猫どもが家に入れなくて泣いているかと思い、外に出てみた。すると目の前に小さな虎猫の子供が泣きながらこちらを見上げていた。
 つい先日子供たちに、「もう猫は二度と拾って来るな」と強く言い聞かせたばかりであったのに、つい拾い上げてうちへ連れ帰ってしまった。それがこの虎男である。そのせいでそれからしばらく私は子供たちにまったく信用がなかった。

 五匹の猫と暮らしてさまざまなことが分かった。猫がこれほど個性的な動物だとは知らなかった。
 犬には飼い主に遠慮するという心づかいがある。猫にはないようだ。傍若無人に家の中を歩き回る。それぞれ犬と猫とは良好な関係にあるが、個性の強い猫同士は相性の良し悪しがあり、彼らが家の中で遭遇したとき小競り合いが起こることがある。
 それをまあまあとなだめながら毎日暮らしている。

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2012年10月 5日 (金)

愛宕学区の会社訪問

IS Systems 2012年10月5日

 夕方、愛宕学区にあるIT関連の会社を訪問しました。

 いつもと違って自分の子供たちのような世代の若い社員のみなさんを前に、少々とまどいながら話を始めました。
 ふだんはしないような衆議院選挙のときの選挙違反の話や、選挙の裏話から始め、今回なぜ県会議員を辞めて出馬の意志をかためたのか、そして、何を重点的に市民に訴えているかを順番にお話しました。

  1. 歴史文化遺産を基軸にした観光岡崎の建設
  2. 河川水辺空間を生かした公園スポーツ施設の整理
  3. 今すぐ必要でないハコモノより生活に密着した医療、福祉、教育の充実
  4. 防災と都市発展のための基盤整備(河川、道路)の推進
  5. 市政100周年事業の記念として、使えるモニュメント「岡崎ツインブリッジ」の建設

 最近、縁の不思議さということをよく感じています。
 毎日通っている道、しょっちゅう訪れている家のすぐ近くにある建物なのに、本日このビルに入るのは初めてであった。ひょっとしたら犬の散歩のコース上にあるほどの近さ。今回紹介してくれる人がいなかったら、一生来ることはなかったかもしれない。そんなところにこんなにユニークな会社があるとは知らなかった。社長も社員もみんな若く、行動的で、クリエイティブである。
 これからの時代はこうした理想主義に燃えた人たちが切り開いて行くのだろう。

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北斗台団地 歩け歩け会

北斗台団地 歩け歩け会

 北斗台団地の中の公園で、中根よしたかさん、川上まもるさんと「歩け歩け会」(村積クラブ)の皆様にご挨拶に参りました。

 本日はみなさんといっしょに歩くことができませんが、ここ数日団地の皆様のところへはちらしを持ってお邪魔しております。歩いてみて初めてわかったことがたくさんあります。高齢化社会と言われますが、年配のご夫婦のご家庭やひとり暮らしのご老人の家庭の多さ、お体のご不自由な方の様子など、実際におじゃましてよくわかりました。
 また、高級住宅街と思っていたご当地において、道路がずいぶん傷んでいることや、この夏水道管が破裂したお話もお聞きしました。北の住宅においては、猿が出没するという驚くべき話も聞かされました。

 今回お聞きした話をしっかり記憶にとどめ、ぜひ行政に役立てたいと思っております。

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2012年10月 4日 (木)

私が影響を受けた6冊の本

 読書は趣味のひとつですが、特に私が影響を受けたと思われる本は以下の6冊です。

私が影響を受けた6冊の本

アーネスト・ヘミングウェイ 『老人と海』
 中学生のとき夏休みの感想文の宿題で本も読まずに、NHKの9チャンネルで放映された映画、スペンサー・トレイシー主演の「老人と海」を見て感想文を書いたところ、県のコンテストに入選してしまった。月曜集会で表彰状をもらってからばつが悪くてあわてて原作にあたった思い出の本である。
 少年と老人の素朴な会話、中に出てくる大リーグのジョー・ディマジオの話、時間の経過と共に変化する海の描写、一昼夜を超えるカジキマグロと老人との戦い、そうしてそのあとに訪れる無慈悲なサメの攻撃、頭と骨だけになったカジキマグロを持って港に帰り着く老人の心の空白と静寂が、今も映画の場面とともに頭にやきついている。
 海への憧れと人生の不条理を知るきっかけとなった物語である。

芥川龍之介 『侏儒の言葉』
 人生や社会、人間をシニカルな目でときほぐしている。
 高校生の私にとって、初めて文学的な視点を開いてくれたのがこの本だ。

三島由紀夫 『文化防衛論』
 「若きサムライのために」という本のあとに読んだものである。
 日本の文化と日本人の精神構造、日本の国家の成り立ちについて三島なりの分析がなされている。そしてそれが崩れ去ることに対する危機感と、守り抜くための心構えのようなものが書かれている。高校時代、思想的に大きな影響を受けた一冊。

道元 『正法眼蔵』
 アメリカにいたときに先輩にすすめられて読んだ本。最初は何の本かと思ったが、曹洞宗の創始者である禅宗の僧の著作であった。
 留学中にさまざまな迷いにとらわれたことがあったが、この本を何度も読み返すことによって、心の均衡を取り戻すことができた。心の薬のような本である。

松野頼三 『保守本流の思想と行動』
 秘書時代に先輩からもらった本の一冊である。
 松野頼三氏は、九州出身の代議士であり、福田赳夫元総理大臣の懐刀と言われた人である。
 政治家は選挙で戦わなくてはならない。しかし、どんなに激しい戦いになっても一分を残した戦いをしなくてはならない。100パーセントの戦いをしてしまうと、もう取り返すことができなくなる。今は敵であっても、政治の世界にいる以上、状況の変化によってはその敵と手を結ばなくてはならない時が訪れる。そんなときに話ができる余地を残しておかなくてはらないからだ。
 保守の政治というのはそういうものである。
 最初に読んだときには、そんなものかと思っただけであったが、今では私にとってこの本は政治の世界で生きるためのバイブルのようなものである。

伊藤肇 『左遷の哲学』
 衆議院選挙の失敗のあと、参議院議員の成瀬守重先生から一冊の本が送られてきた。それがこの本であった。
 人間は投獄や大病、そして長期の左遷の三つを経験しないと本物にはなれない。ことに政治を志す者はそうした不条理な体験をくぐらないと大物にはなれない――と書かれてあった。若くして大きな挫折感のさなかにあった私にとって、砂漠でオアシスに出会ったような気持ちにさせてくれた本であった。失意にある友人、大病で入院中の友人などに何冊もプレゼントした本である。

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山崎けんしん市議の事務所開所式

山崎けんしん 事務所開所式

 野畑町にある、山崎憲伸(けんしん)市議の事務所の開所式に本日出席いたしました。

 山崎けんしんさんと私は議員になる前からの古い友人であります。
 私が27歳のとき衆議院議員選挙に出馬したとき、彼はアメリカの大学に留学していました。ところが彼は留学を途中で切り上げ、私の選挙を手伝ってくれました。これが私が今日も彼に頭の上がらない理由のひとつであります。
 お父さんの山崎昭憲さんが市会議員のころ、
「私は政治家などはやらない」
 と言っていたけんしんさんでありましたが、時がそれを許さず、父親の跡を継ぎ市会議員となりました。以来2期8年、地元に密着した彼の活躍ぶりは皆様ご存じのとおりであります。自転車で地域を巡回する市会議員なんていうのは、あまり聞いたことがありません。
 また、彼の政治的な着眼点、発想は実にユニークなものがあり、いつも驚かされます。ふつうの人間では気づかないようなことに彼は特別な価値を見出すことがよくあります。彼にはもうひとつすばらしいところがあります。

 それは物事のけじめをきちんとつけること、であります。

 自民党岡崎支部の党規委員長として、人の言いにくいことも役職としてはっきり述べます。彼のような存在があってこそ組織の秩序というものは保たれるわけであります。

 今回の選挙ではベテランの議員が一挙に引退されます。3期当選ということになると、一躍議長候補のひとりということになります。もしそういうことになれば彼の議会における活躍の場は一層大きなものとなると確信しております。
 地元のみならず岡崎市にとっても、大切な存在である山崎けんしん先生の必勝のために六ツ美北部の皆様の一層のお力添えをお願いし、ご挨拶といたします。

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2012年10月 3日 (水)

内田やすひろクロニクル 第5回 「県議会副議長に就任」

 一回は当選しないと応援頂いている皆様に申し訳ない、と思って戦った最初の県議戦から5回連続当選。
 県議5期目の平成15年(2003年)11月28日、国政選挙出馬のために辞任した副議長のあとを受け、第95代副議長に選任される。

内田やすひろ 愛知県議会副議長

 12月、いきなりぶっつけ本番の議会であったが、同僚、先輩、事務局の助力もあり無事任務を果たすことができた。後に先輩から、
「党が危機に陥りかけたあの時の君の決断と行動の結果が、のちの議長への道につながったんだよ」
 と言われたが、当時はそんなことを考えている余裕もなかった。

 翌年平成16年(2004年)3月に、アメリカの太平洋艦隊である第七艦隊旗艦のブルーリッジが名古屋港に寄港することになった。県庁に届いた艦上レセプションの招待状に対し、事務局から、
「知事、副知事、議長も出席しないので、内田副議長も欠席されてはどうか」
 という提案があった。私は、
「日本の有事には必ずお世話になることになるわけだから、ぜひ誰かが出席するべきだ」
 と言って出席した。もちろんそのことは先輩の県議にも相談して決定したことである。今は地方自治体であっても国政の問題に無関係ではいられない時代となっていると思う。

 ちなみに私がブルーリッジを訪れるのはこのときが二回目であった。秘書時代安倍晋太郎先生の代理として、十人ほどの国会議員といっしょに、横須賀に寄港中のアメリカ太平洋艦隊の原子力航空母艦ミッドウェイとともにブルーリッジを訪問したことがあった。そのときにミッドウェイではなく、巡洋艦なみの大きさの、しかしコンピューターの塊のような艦橋を持つブルーリッジが第七艦隊の旗艦であることを知り、たいへん驚いたものであった。現代の海戦における旗艦は、大きな攻撃力のある船ではなく、宇宙衛星と連携をとりながら艦隊全体に的確に指令を下すことのできる船になっているのだ。
 現代社会における人間も同じではないだろうか。(つづく

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2012年10月 2日 (火)

内田やすひろクロニクル 第4回 「愛知県会議員に初当選」

内田やすひろ 県会議員選挙 1987年4月

 政治浪人中の私は、おじの会社に籍を置き、主に損害保険の部門を担当し、その間上級代理店の資格を得ることができた。また、設備会社であったおじの会社で現場の人手が足りないときには、学生時代にアルバイトをした経験のある私が現場の手伝いに出向いたこともある。おかげで、今もトラックや単車が運転できるし、簡単な家のリフォームは自分でできる。現に今も暇を見つけて家の改築をひとりでやっている。
 元来土いじりや工作が好きな性分でもあり、良き同僚にも恵まれ、そうした期間を明るく過ごせたことは幸運であった。同時に貴重な社会体験を積むことができた時期でもあった。また、もの好きな女性と縁があり、結婚したのもこの頃だった。

 昭和62年(1987年)4月。
 7年間の雌伏の時を経て、県議選に出馬。大激戦の末、保守系候補者四人の内最上位となり、初当選した。
 この時ほど人の情けや善意、ご支援の力をありがたく思ったことはない。
 大きな挫折、失敗を乗り越えて私が政治への歩みを再開することができたのは、今は亡き多くの先達と岡崎市民の皆様の真心のおかげであります。変わらぬご支援を頂いている後援会の皆様、ご理解を賜っている市民の皆様に改めて感謝を申し上げます。

安倍晋太郎先生と共に

 この当時自民党の総務会長であった安倍晋太郎先生がお忙しい日程をぬって、選挙の応援に来て下さった。中央政界の大物が自分の地元でもない県会議員の選挙の応援に来るのは、異例中の異例のことである。
 その恩に報いるためにも、なんとしても勝たなくてはならないという気持ちになった。

奈倉しゅんさん、安倍晋三先生と共に

 また、秘書官をつとめておられた安倍晋三先生も、この選挙のために総決起大会、青年部の総会、そして選挙中と、3回も応援に駆けつけて頂いた。
 真ん中の女性は、高校時代の下宿先の材木町の奈倉しゅんさんです。子供時代からずっとお世話になってきた方。年齢的には私の祖母と同じくらいであるが、「おばあさん」と言うと、
「子を産んだことのない女がなんでばあさんじゃ!」
 と怒られる。旧制女学校の出身で、ドイツ語でシューベルトの「野ばら」を歌ったりする、文字通り「モダンばあさん」であった。私が東京で生活するようになってからも、ときどき電話がかかってきて、
「今晩9時からNHKの教育でキャサリン・ヘップバーンの『旅情』をやるから、見ておきなさい。あれは名作だから」
 などと指示をされる。私の外国映画好きは彼女の影響もあると思う。

 県議初当選から26年。
 私の郷土愛、ふるさと岡崎のためにガンバロウという気持ちはますます強くなっている。(つづく

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10月2日の中日新聞朝刊

 本日の中日新聞の朝刊に、10月21日に迎える岡崎市長選についての記事が掲載されました。ここに該当記事をご紹介します。

 選挙本番を間近に控え、両陣営とも最後の追い込みで熱気があふれた大会となっているようです。最後まで相手をあなどることなく、過大評価することなく、冷静に相手を見つめて自らの戦いを着実におしすすめて行きたいと考えます。
 その先には必ず勝利が待っていると信じております。

『二十一日の投開票が市議選、県議補選とのトリプル選となる上、自民党と日本一愛知の会との代理戦や保守分裂の要素も絡み「岡崎市政始まって以来の混戦模様」(関係者)とも評されている。』(中日新聞・本文より)

中日新聞 2012年10月2日朝刊

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2012年10月 1日 (月)

田口正夫市議の事務所開所式

田口正夫市議 事務所開所式

 矢作町に地盤を持つ田口正夫先生は、岡崎市総代会連絡協議会の副会長をつとめられたのち、平成16年に市議会議員に初当選されました。
 本日、田口先生の事務所開所式に出席いたしました。

 初当選から2期8年。田口市会議員の活躍ぶりは、まさに愁眉をひくものであります。地元密着型のどぶ板仕事から鹿乗川(かのりがわ)河川改修計画の推進に向けてのエネルギッシュな政治行動、そして各級選挙における街頭演説活動におけるリーダーシップなど、まさにこれぞ政治家と言える活躍でありました。
 その田口先生でありますが、3期目を目指す今回の選挙においては、よそから送り込まれた刺客候補に狙い撃ちをされております。田口先生はわたくしより歳は下ですが、高校時代から中野四郎代議士の書生として経験を積み、政治的知識も豊かで地方から国政まで実に幅の広い人脈を持っております。
 最近こうしたタイプの政治家というのはとみに少なくなって来ております。もし田口先生を失うようなことになれば、地元を熟知した政治家を失うことであり、地元にとってもたいへんな損失であります。また、自由民主党にとっても数少ない突破力のある議員を失うことになるのであります。

 現在の日本の政治のおかれている状況を考えれば考えるほど、田口先生のような政治家の貴重性を思うものであります。これからの未来の岡崎のために田口先生に対し、皆様方のより一層のお力添えを心からお願い申し上げるものであります。

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